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承認欲求? or 承認要求?

『承認欲求と『承認要求』が蔓延する社会』

2回目は、人間の五大欲求のひとつである承認欲求について書いてみます。

子どもたちの承認欲求について考える前に、大人たちの承認欲求でよく見かける問題についてふれておきます。

承認欲求は良し悪しがあるので、綺麗事ではなく、ダークな内容も含みます。

大人同士の承認欲求度合いや出し方の違いによる摩擦は、

腹黒い部分・箇所が違うだけで、腹黒い同士が陥りやすい同族嫌悪が多いです。

承認欲求を満たす為の言動に周囲の人も自身の承認欲求が疼いてくることがほとんどです。

例えば、本人は無意識のうちにやっている承認欲求のそれぞれの言動と心理や自己顕示欲がぶつかり合うと以下のように拗れて来ます。

・みんなのためにやっているだけだから=利他的に見えて自己中心的な動機が潜む

・あなたのために言っている=批判の逃げ口上

・私はそうは思わないけど=他人の意見ややり方を否定する

・大丈夫、私が何とかするから=相手を依存させたい・させてしまう

・気にしなくていいよ、そんなの大したことないから=相手の感情を軽視

そして、自分の満たされない承認欲求の疼きを鎮めたいが故に、相手の偽善部分がさも問題かのように指摘して、大義名分を振り翳して攻撃してしまうのです。

互いに自分のなかに存在する承認欲求が満たされていれば、犯罪レベルでない限り、相手の承認欲求が気になることはなく、別世界に住んでいるのだなあ、自分には合わないなあで済む話しです。

他のパターンもまだまだありそうです。

気をつけたいと思うことばかりで、いやぁ人間、悟るのは、ほぼ不可能!です。言葉の意味、真意は自己の内面をあらわすものですね。

相手の気持ちに寄り添ったら相手の承認欲求が満たされる訳ではないこと

寄り添うことで相手に認められたい=自身の承認欲求に繋がるので、結局は互いに満たされず堂々巡りです。

内海式精神構造分析法では、究極の解決方法など無く、本人が気付くしかないと考えます。上記のように分析して知っておくのは良いけれど、その捏ねくり出した分析を相手に押し付けたり突き付けることはやりません。

ほっとけ。です。

(ほっとけは、釈迦の教えに共通する考え方です。文末で触れておきます。)

そうすれば、反応しない相手に認めさせようとはして来なくなりますし、互いの承認欲求や自己顕示欲がぶつかり合うこともありません。

それでは解決になっていないと感じる人もいるかもしれません。

自分の問題は自分で解決するしかないということは、自分も相手も尊重する、究極の思いやりです。

腹黒い拗れ方をしている大人たちも承認欲求を満たしたいのではなく、自己実現に向けてもがいている真っ最中で誤解されてしまうこともありますから。

内海式精神構造分析法は、相手を叩きのめすツールではありません。自分で自分がやらかしているわーと自分で気付いて、気をつける・反転させて変わることを手助けする技法です。

常に自己分析、我が身を振り返りながら!!

(私は現在学び中です。学びが進行中、今年は無口になっていたら、笑ってやって下さい。)

次回は、子どもたちの承認欲求について考えます。

(内海式精神構造分析法が広まれば日本が変わるかなあと夢みています。2月22日には、1day集中講座も開催されます。よろしかったらご参加下さい。)
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さて、表題にある『承認欲求と『承認要求』が蔓延する社会』について

しばしば問題にされる承認欲求、

煩悩がある生身の人間である限り無くならない承認欲求ですが、一番しんどいなあと思うのは、【承認要求】

承認して貰えないと行動出来ない

承認していない行動は承認しない

思い当たりませんか?

常に承認が必要とされているのに、承認欲求はダメ

そんなバカな話しはありません。笑

どうして、あちら側は承認欲求が出ているのか?

もしかしたら、承認を要求されていると感じる要因がこちら側にあるかもしれません。

お互い様の精神で、承認欲求オバケや承認要求のオニにならなければいいですね。

………

ほっとけ「放っておく」について

眼にどんな情報が触れても、耳にどんな情報が触れても、それを受け入れることもなく、排除することもなく、流してしまうのです。  

放っておくわけです。反応しないで。

この、「放っておく」ということは、真理がわかっていない人にはできません。  

わかるべき真理とは、自分の体の内の世界も、外の世界も幻覚であって、その瞬間、瞬間に生まれては消えていくものであって、実体はない、ということなのです。  

その真理を経験していないと、自分の受けた情報を放っておいて、流すことができない。どうしても、受け入れるか、拒否するか、という反応をしてしまうのです。だから、この完全な悟りということは大変なことで、並の人にできることでもない。(原訳:スッタニパータ 蛇の章より)

(なかなかできることではないのですが、怒りと欲の成せる業だと認識して、自身の心の動きを淡々と観察することで、衝動的な承認欲求も承認要求も抑えることが出来ます。)

「常に正しいという呪い」(こちらも原訳:スッタニパータ 蛇の章より抜粋)

思考に制限をつけることは不可能です。制限を付けたこと自体が、マインドコントロールであり、誰かの主観を強引に他人に押し付けることになるのです。

思考というものは、事実を発見するたびに、瞬時に訂正できるようにしなくてはならないのです。決して思考にしがみついてはならないのです。執着してはならないのです。その都度、その都度、主観が起こることは避けられません。執着すると、新たな事実を発見しても思考を正すことはできなくなるのです。思考の自由とは、なんでも好き勝手に考えなさい、という意味になってはならないのです。常に訂正できる思考が柔軟であること、一時的であることが、「思想信条の自由」なのです。

これが仏教の定義です。仏教には、「考えてはならない」思考の項目もありますからね。なんでもいいから自由に考えなさい、ではないのです。

(そのうち、怒りと欲、執着についても書いてみたいと思います。)

最後まで、お読みいただきありがとうございました。

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