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【Story of Life 私の人生】 第25話:自家製の草餅

こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生 
前回は、 第24話:五年生 〜 遠足と移動教室 Part 2 で、秋の遠足の思い出をお話ししました。
今日は、引越し後、不自由から解放された我が家のお話をしようと思います。

引越しを境に、我が家の生活は、本当に大きく変わりました。
「酸欠状態から解放され、新鮮な空気を吸ったような感じ」「閉じ込められていた狭い暗闇から、やっと出してもらった感じ」といったところでしょうか。
何ともいえない解放感!
家族の関係も、先生の家に住んでいた時のような、暗くて険悪な雰囲気は少しづつ薄れていき、黙って食事をすることは減ってきました。

食事といえば、戦時中育ちの母の信条。
「遠慮しないで食べる。食べて幸せを感じる=作り手も幸せ」でした。
元独身寮の賄い婦だった母は、食べ盛りの寮生のお腹を満たすことが、働く活力と喜びだったし、何しろ「作る」ことが大好き!
そのおかげか、我が家では「食べ物が足りない」ということはほぼ皆無に等しく、いつもお腹いっぱい好きなだけ食べさせてもらっていました。
余談ですが、母が麺類好きだったこともあるのですが、通常1袋3人前の乾麺(うどんやそば)は、我が家では1袋=1人前計算でした(笑)
それが当たり前だと思っていたので、お蕎麦屋さんの「一人前」だと、全く食べた気がしません。
そういえば、お蕎麦屋さんに出前をお願いするときは、家族3人しかいなのに、最低6人前はお願いしていましたっけ。
出前の方に「今日はお客さんですか?」と毎回聞かれるので「はい」と答えるものの、実は家族で食べていた(大笑)
おかげさまで、今でも麺類だけは「別腹」状態で食べられます。

でも「作り手に対するリスペクト」については、とても厳しく、我が家では食に対して「3つの決まり事」がありました。
一つ目は、どんなに「イマイチ」の料理に当たっても、その場では絶対に「美味しくない」という言葉を発してはいけない。
二つ目は、どんなに口に合わなくても、明らかに腐っていない限りは、絶対に残さずに食べること。
三つ目は、必ず「ごちそうさま」と「美味しかった」と必ず言うこと。

そのココロは…

作り手は「美味しくない料理」を作って出したいとは、決して思っていない。
その時、たまたま口に合わなかっただけかも知れない。
手間暇かけて、時間を掛けて、自分の為に料理を作ってくれた人に感謝すること。
残さずに食べることで、作り手に対する敬意を払い、食材への感謝をすること。
美味しくなかったお店なら、今後自分が行かなければ良いだけのこと。
あえてその場で批難する必要なない。
そして「美味しくない理由は何か」を推理する。
調味料が多いのか、足りないのか、固すぎるのか、柔らか過ぎるのかなど、もし自分が調理するならどうするかを考えて、研究して、自分の味覚と腕を磨けば良い。
美味しかったものも同様で、何を使ってこの味を出しているのか考えて、再現で出来るようにすれば良い。

これが子供の頃からの「決まり事」だったので、あまり深く考えたことは無かったし、(逆らうと体罰が待っていたせいもありますが)ずっと言われた通りにしてきましたが、今になって「これが母の料理人魂だったんだな」と思えるようになりました。

ちなみに、私は母から一度も料理を教えてもらったことはありませんでした。
「見て、感じて覚えろ」という、まさしく職人教育(笑)
母を見てきたおかげか、少人数用の料理は作れませんので、最近はもっぱら「冷凍庫」のお世話になっています。

引越しして、何の制約もなくなり「今まで出来なかった事を、思い切りやる」と決めた母。
ある意味弾けちゃいました。
今日は、その手始めというか、きっかけになった時のお話です。

4月に入り、新学期が始まって間もなくのある日、家に帰ると大きな餅つき機が!
母が餅つき機の前に座って、取説を一生懸命読んでいました(笑)
何と、家庭用で一番大きな餅つき機を買っていたのです。
確か3升か4升用でした。

それが届いた数日後の土曜日の午後のこと。
学校が終わり、帰宅するなり、母に合羽橋まで連れて行かれました。
業務用の蒸し器、のし餅を形成する一升用の木型、業務用の小豆の豆、餅取り粉、上新粉、重曹、みょうばんなどなど、道具や食材をいっぱい買うという、「お買い物」のお供でした。

当然、そんな大量の品物を2人で持ち帰るのは無理なので、全部家に配達するようお願いをして、浅草まで足を延ばして、釜飯を食べて帰宅しました。
考えてみれば、練馬に来てから親子で出掛けることは殆ど無かったから、母と2人で歩くことがとても新鮮で…
当然「叱られないようにしなくちゃ」と、気は張っていたけれど、母とのお出掛けが、初めて「楽しい」と思えたことを思い出しました。
母との関係は、この頃から中学生くらいまでが一番良かったと思います。

炊き立ての釜飯

その翌日から、母は天気の良い日には、家の横の城北中央公園に行き、ヨモギを摘んでくるようになりました。
それを洗って、ゴミや筋っぽいところを取って、茹でて、細かく刻んで…

よもぎの山

それを1週間くらいやっているうちに、お米屋さんから大量の餅米が届き(笑)
母は、木曜日から小豆を戻して、コトコト煮ていました。
そして土曜日、昼に学校から戻ると(当時は、土曜日は午前中だけ授業がありました)、餅米を研ぐように言われ、2升分くらい研いだと思います。

翌日の日曜日。
父が出勤する前(勤務先が都立公園の管理事務所なので、原則週末と祭日は仕事でした)から「餅つき大会」が始まりました。
母は、餅つき機の「ふかし機能」を試したかったようで、半分は機械にお任せ。残り半分は、合羽橋で仕入れた蒸し器を使いました。

結論を先に言ってしまえば、当時の「ふかし機能」の性能はイマイチで、結局蒸し器に移し替え。
餅つき機能も、取説では「全自動で綺麗な餅が出来る」と書いてありましたが、やはり途中で手水を入れたり、ヘラで混ぜたりしないと、均一で滑らかにはならないのです。

ということで、一升ずつ試行錯誤しながら2回挑戦することに。

1回目は、出来栄えイマイチ。
でも、見てくれが良くないだけで、味は良かったです。
となると、私も当然「餅を丸める」手伝いをさせられることになる訳です。
熱いし、上手く丸まらないし、形も不細工で、なかなかコツが掴めず…
母から「下手くそ」と罵倒され、全身粉だらけになり、最初のやつは散々でした。

丸め終わったら、2回戦開始(笑)
母は1回目の教訓を活かし、機械任せでにせず、ある程度手をかけ、次の1升が出来上がりました。
またまた丸め作業開始、リベンジです。
数をこなしているうちに、かなりマシに丸めることが出来るようになりました(笑)
そして2升分の草餅が部屋中に並び…
和菓子屋さん顔負けの状態になっていました!

それは壮観でしたが、さすがに親子3人で食べられる量じゃない訳です(笑)
となると、私の同級生や、母のPTA仲間に「草餅食べる?」とお声掛けして、家に来て貰ったり、私が配達したりして、割と簡単に完売!

ちなみに自家用に分別した方は、当然家族3人でその日で全部食べる切ることは出来る訳もなく…
サランラップに包んで、冷凍庫のお世話になり、翌日からのおやつや、母の昼ごはんになりました。
当然、家に遊びに来る友達が「食べたい」といえば、焼いて出したことは言うまでもありません。

話を戻します。
翌日学校に行くと、既に草餅の話が流れており、留守で来られなかった友達から「いいなぁ、次はいつやるの?」と言われてしまい(笑)
家に帰り、母にそのことを話すと、母の方も同じような感じだったようでした。
母としては、前日の出来栄えが完全に納得出来なかったこともあり、何と翌週の日曜の「リベンジ宣言」が出て、翌日学校で友達に予告することになりました。
母は、毎日よもぎを摘んで、下ごしらえをスタート。
前回の倍くらいの量を作ることになりました。
「一緒に丸めてみたい」という子や、「出来立てを、その場で食べたい」という子もいて、日曜は朝から夕方まで、我が家は人でごった返し状態に!
「自分で丸めた餅は、自分で食べるか、持ち帰る事」というルールにしたので、みんな頑張って丸めていましたっけ。
「餅つき機の容量いっぱいで作ると、ムラになるし、丸め終わる前に固くなってしまう」と判断した母は、1升づつ作ることにしました。
おかげで、新品の餅つき機は、半日回りっぱなしだったなぁ。

草餅で味をしめた母は、この後どんどん進化していくことになります。
そのお話は、次回に。

〜続く。

今日はここまでです。
次回は、第26話:我が家の年中行事 事始め に続きます。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪

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