【Story of Life 私の人生】 第58話:新たなスタート 〜 寮生活の始まり
こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生
前回は、 第57話:高校卒業 をお送りしました。
今日からは、2度目の暗黒時代真っ只中のお話になります。
ここからの3年間は、常に八方塞がり状態で、苦難と困難の連続でした。
まずは、寮生活スタートのお話から始めようと思います。
高校の卒業式が終わり、3月も残り20日間。
郵便局には「全寮制の学校に入るので、3月いっぱいで仕事を辞める」とお話しし、残りの日々は目一杯仕事しました。
また、新聞配達のお兄さん、お姉さん達とも、寮に入ってしまうと会えなくなってしまうので、思い切り一緒に遊びました。
と同時に、寮に持っていくものの準備も始まり、布団一式、衣装ケース、小型テレビ、湯沸かしポットなどを見繕っていき、日を追うごとに、「引越し」の荷物がどんどん増えて行きました。
私にとっては、3度目の「引越し」ですが、今回は家族と一緒ではなく「家を出る」という一大イベントです。
因みに、学校(寮)は西武池袋線の清瀬駅からバスで10分くらいのところだから、もし全寮制でなければ、家から十分に通学出来る場所でした。
でも、両親とのギクシャクした関係にうんざりしていたから、学校が全寮制だったということが内心とても嬉しくて、また、これから始まる「親に干渉されない生活」が、楽しみで仕方ありませんでした。
学校は、職業訓練校でもあるから、入学式は4月1日。
寮には、3月27日から31日までの間に入るように指示されていたので、私は3月27日の土曜日に、近所で懇意にしていた酒屋さんにお願いしてトラックを出してもらい、母と一緒に荷物を運び込みました。
その日は、部屋(自分のスペース)のセッティングをしてから、母と一緒に帰宅しました。
そして翌日の日曜日は、お兄ちゃん、お姉ちゃん達と一緒にしっかり遊び、郵便局のアルバイトは、3月31日ギリギリまでしっかりしました。
仕事が終わってから電車とバスを乗り継いで寮まで行き、自分のスペースのベッド(病院のベッドと同じだけど、布団は自前)で、寮での初めての夜を過ごしました。
そして翌日の1982年4月1日、私は臨床検査技師養成所の一年生として、新たなスタートを切りました。
入学式が始まる前の朝ご飯から、寮で食事を食べる生活がスタートしました。
寮だから、1日3食の食事が提供され、朝昼晩とも、決められた時間内に、食堂でご飯を食べることになります。
内部疾患がある人しか入れないのだから、食事制限がある人が殆どで、「給食」というよりは「病院食」に近い感じ。
基本食はあるけれど、それぞれの病状に応じて調整がされており、自分の名前のトレーを棚から取って、それを食べるというシステムでした。
皆は、前日の夕方までに寮に入っていたから、何となく「顔見知り」になっていたけれど、私はアルバイトが終わった後に入ったから、その時点で誰も知らない状態。
上級生や、他の訓練科の人も多くいるから、どの人が同級生だかも分からず(汗)この時は、とりあえず、1人でポツンと朝ご飯を食べました。
食事が終わって午前9時から入学式となり、そこでやっと「誰が同級生なのか」を把握することが出来ました。
同級生は、私を含めて16人。
男子8名、女子8名の構成で、高校から現役で入学したのは、男子4名と女子8名(女子は全員高卒現役でした)で、残りの4名は、かなり年上(20代後半から40代)の方々でした。
また、関東近県はもとより、北は岩手から、南は長崎までと、地方から入学してきた人が半分位いました。
内部疾患者しか入れない学校だから、皆何がしかの「病気持ち」でしたが、同級生は、腎臓疾患者が何と12人!
中には、人工透析をしている同級生が3人、腎臓移植をした同級生が2人いました。私を含み呼吸器疾患者は3人、心臓疾患者は1人だけでした。
入学式が終わり、お昼ご飯の時間となり、同級生達と一緒に食べました。
話題は「どこから来たか」と「どんな病気が有るか」が殆どで、何だか病院の延長みたいな感じがしたことを覚えています。
食事が終わると、午後の始業まで自由時間。
当時は「笑ってる場合ですよ」が流行っていた頃(半年後に「笑っていいとも」になりましたが)だったので、皆さん自分の部屋に戻って「テレビ」を観ることが慣習のようでした。
食堂から部屋に戻り、やっと同室の人たちに挨拶することが出来ました。
2学年上の先輩が2人、1学年上の先輩が1人、同級生が1人でしたが、割と気さくな人たちで一安心。
私の隣のスペースは、2学年上の先輩で割と年上の方だったから、部屋のリーダー的な感じでした。
午後は1階の教室に行き、オリエンテーションとなりました。
授業は、出席番号順に座ることになったのですが、その「出席番号」の付け方がとてもユニークでした。
通常は、苗字の「あいうえお順」が多いと思うのですが、この学校は「入学手続き完了順」だったのです。
私は出席番号10番だったから、10番目に手続きが完了したということですね(笑)
まずは、常勤の先生方の紹介。
この学校の卒業生が殆どで、主に実習を担当されていました。
次に、外部から来てくださる学科(座学)を担当される講師の方々のご紹介になりました。
先生の紹介が終わると、授業のカリキュラムについての説明になりました。
まず、この学校は「半官半民」で運営しているということで、公的な職業訓練校である一面と、報酬を貰って検査を受託している「臨床検査センター」という一面があるということが分かりました。
その為、主に座学で行う学科の履修は、一年生で9割が終了、二年生と三年生では各1科目づつとなっていました。
実習は一年生からあるけれど、ピペットの使い方や、培地の作り方や使い方などの基本部分がメイン。
二年生からは、実習がメインとなり、血清・免疫、生化学・血液、細菌という3つのセクションを各学年とも、3班に分かれて8か月づつ回り、合間に採血や心電図、脳波、エコーなどの生理学検査や、病理検査を学ぶという仕組みになっているということも分りました。
説明を聞いているだけで、とても楽しそうに思えてきて、かなりワクワク状態♪
薬剤師とは違った意味で、興味がそそられました。
その後は、自己紹介となりましたが、お昼の時の「自己紹介」を更に詳しくした感じで、病気の話をする人が殆どでした。
現役ではないお兄さん達は、大学を出て社会に出てから病気が悪化して、結果的にここに流れ着いたという感じだったから、自分は「かなり恵まれている方なのかも知れない」と思ったことが、今でも忘れられません。
自己紹介の後で、時間割、教科書一式と白衣が配られましたが、教科書がA4サイズの上に分厚くて、ビックリ!
しかも1冊がかなり重い!
もし家からの通学だったら、こんなに重い荷物を毎日運ばなければならなかったと思うと、かなりゾッとしました。
「通学」は、3階の部屋から1階の教室の移動だけだから、忘れ物をしてもすぐに取りに戻れるし、休憩時間に部屋に戻れるから、その点は本当にラッキーだったと思います。
ただ、これだけのボリュームを、たった1年間で全部学ばなければならないのか…と思うと、大丈夫なのかな?とかなり不安になりました。
また、専門学校だから、当然「一般教養」もある訳で、数学、化学、物理が入っていました。
どれも高校でしっかり勉強していなかったから、これもまた不安の種のひとつとなりました。
「体育」も履修項目にありましたが、病人集団だから「毎日のラジオ体操」が体育履修条件とのこと。
これには、さすがに笑いました(笑)
授業は1コマ120分で、1日4コマ。
土曜は2コマだけでしたから、1週間に22コマ。
高校で最後の1年間は「ほぼ午前中だけの楽ちん」生活をしていたから、正直「ギョエー!」でした。
午後はアルバイトをしていたけど、勉強なんてしなかったから、頭がパンクするのではないかと、ここでも不安がよぎりました。
オリエンテーションが終わり、配られた教材を部屋に持ち帰ろうとしたら、やはり重すぎて、1度で運べませんでした。
部屋に持てるだけの荷物を持って戻り、大きめのバッグを持って教室に再度教室に行って、何とか2度目で全部持ち帰ることが出来ました。
部屋に戻ったら、これをどう収納するか考える必要があり…
先輩達のスペースを見せてもらい、真似っこしてなんとか収納完了(笑)
夕飯は、同室の先輩、同級生と一緒に食べて、部屋で談笑したり、テレビを見たりして過ごしました。
こんな感じで初日が終了、翌日から本格的な授業がスタートしていきました。
初めての「監視や干渉のない」生活のスタートの日でしたが、楽しさ8割、不安1割、ちょっと寂しさ1割といった感じだったと思います。
この時点では、今後様々な出来事が起こっていくとは、全く知る由もありませんでした。
〜続く
今日はここまでです。
次回は、第59話:授業スタート に続きます。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪