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【Story of Life 私の人生】 第3話:誕生から幼少期 Part 1

こんにちは、木原啓子です。

Story of Life 私の人生 
前回は、 第2話:私の両親 Part 2 〜 母編 をお送りしました。
今回は、私の誕生から幼少期のお話、Part 1です。

こんな両親の元、私は東京オリンピック開会式の365日前である、1963年10月11日夜10時3分に、東京北区十条の産婦人科で誕生しました。
「親兄弟には頼らず、ひとりで生きていく」ことを信条として生きてきた母には、里帰り出産という選択肢はなかったようです。

記録によると、身長52センチ、体重3160グラムの女児。
前回もお話した通り、私が生まれる前に母は2度流産を経験していたため、本来なら3番目の子供だった筈でしたが、両親共に34歳という、当時としてはかなり遅い「第一子」誕生となりました。

生まれて1週間くらいで退院。風呂なし、トイレ共同のアパートに母子で戻ります。
お風呂は「たらい」で数ヶ月。私が少し大きくなって、「たらい」のお風呂では小さくて入れなくなった頃、まだ1歳にならないうちから、母と一緒に銭湯に入っていたそうです。

五体満足で生まれてきましたが、かなり病弱な子供でした。
最初はアレルギー。
母乳を飲むと、全身に蕁麻疹がでてしまうという状態だったため、母乳は最初の数回のみで、すぐに粉ミルクに切り替えたそうです。
良く考えればすぐに分かるのですが、父は喘息持ち。母はアトピー体質。
双方のアレルギー遺伝子をダブルで受け継いでしまった訳です。
アレルギーは、私の人生の中で、かなり大きな影響を及ぼしていくことになります。

また、しばしば夕方から夜中にかけて高熱を出して、近所のお医者さんのお世話になっていました。
ある意味「夜間診療の常連患者」状態となっており、そんな状態は小学3年あたりまで続きました。

私が生まれると同時に、母は独身寮の賄い婦の仕事を辞め、家で出来る和裁をメインとして、その他の仕事をして家計を助けていました。
当時住んでいたアパートは、十条銀座の真ん中あたりだったこともあり、近所のお母さん達数人が朝から我が家に集まり、今ではかなり有名になっている鳥屋さんの仕込み、主に焼き鳥の串刺しの作業をしていました。
当然、その子供達も一緒についてきますから、我が家は「託児所」状態。
お兄ちゃん、お姉ちゃん、弟分、妹分で総勢10人以上の集団の中に、私も放り込まれ、親達が仕事をしている間、子供達は一緒に遊ぶという日々でした。
お陰で一人っ子の私は、ここで「兄弟姉妹の上下関係」をみっちり叩き込まれることになります。
母が作ってくれる手作りのおやつを皆で分けて食べたり、鬼ごっこやかくれんぼ、チャンバラごっこ、いたずらなどなど…本当に楽しかったなぁ。良い思い出です。

また、私が生まれた時にはまだ同居していた叔母や、母が賄い婦をしていた独身寮のお兄ちゃん達にも、よく可愛がってもらい、遊んでもらっていました。
お兄ちゃん達は、家に来るときは必ず「おもちゃ」を「お土産」に抱えてやってきてくれたので、当時としては、かなり沢山のおもちゃに囲まれていました。
母は、お兄ちゃん達が遊びに来て、自慢の手作り料理をお腹いっぱい食べてくれることが何よりも嬉しかったんだろうなと思います。
また、昭和33年に商店街の福引の特賞で母がテレビを引き当てていました。
当時としてはかなり珍しく、我が家には私が生まれる前からテレビがありました。
相撲、プロレス、野球などがあると、近所の方々が我が家に集まってきて、みんなで並んでテレビを観ていました。
一番鮮明に覚えているのは、アポロ11号が月に着陸した時。
6畳一間の小さい部屋なのに、かなりの人が押しかけてきて、立見していましたっけ。そんな狭い我が家には、いつも沢山の人が集まって来ており、とても賑やかでした。

さて、一方で両親と私の関係はというと…
こちらについては、次回お話ししたいと思います。

〜続く。

今日はここまでです。
次回は、第4話:誕生から幼少期 Part 2  に続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪

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