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「幼な子の聖戦」木村友祐著を読んで

全編に漂う男性至上主義の表現(屹立したファルスのメタファ)、それに対抗する女性、若者たちの開かれたまなざし。そのように村や家庭を二分する村長選挙。

主人公の「おれ」は、小さいころから目立たない子で屈折した思いを抱えている。ある事件により男性至上主義の陣営に脅され、取り込まれてしまう。片や、「おれ」の幼馴染の仁吾は女性や若者の人気に乗って村長選挙に臨むことになった。そこで、妨害をすることを命じられ、仁吾にたいして妬みを持っていた「おれ」は嬉々として妨害作戦を練る。しかし、仁吾の演説を聞きながら、仁吾の語る村の未来に希望を感じる。ここで、「おれ」の心は引き裂かれているのだが、仁吾を殺して殉教者として祭り上げるという計画を思いついてしまう。このように、この小説では嫉妬だけではない、素直に相手を称賛する思いも同時に持つという人間心理の多面性をどっちつかずの「おれ」として描いている。

神という大文字の他者を失った現代人の「おれ」は虚無感から若いころ、ある宗教に勧誘され合宿にまで行ったが、信じ切れずに俗世に戻ってきた過去がある。そこではカルト宗教の手口を克明に描いている。そこで幼な子のように信じなさいと教えられるが、屈折した「おれ」は信じ切ることができなかったのだ。

包丁を服に仕込んだが、いざ暗殺というときに包丁が引っ掛かり出せなかったため未遂に終わった。そして、男性至上主義の陣営のトップによって追われる羽目になる。ここでは、「おれ」が殺人を犯すことなく済んだことに、私はほっとした。ただ、「おれ」は自分が消されるか、仁吾を消すかの瀬戸際にいたことを後になって知ることになる。

「その騒ぎの底で、一人静寂に包まれて、お前ら、おれはもうぜんぶわかってんだぜ、と思う。お前らみんな、ほんとうは虚ろなんだろ。・・・この世には守るべきモラルがあるかもなんて、考えてみたこともねえんだろ。その虚ろに底が抜けた心に、愛国だの、金儲けだの、地位だの恋愛だの家族愛だのって別の何かを入れこんで、自分の人生の根拠のなさを解消したつもりになってんだろ。・・・そうやって、自分が食うぶんはちゃんとあるくせに、これからの人間が食うぶんまで食ってしまってんだろ。」という行りは痛烈な現代政治への批判となっている。

重い現代のテーマをいくつも含んだ作品だが、ほとんどの会話が八戸の方言で書かれている。ルビは振ってあるが、ほかの地方の人には読みにくいかもしれない。「おらおらも一人でいぐも」の映画もそうだったが、方言が判る人には標準語にはないぬくもりが感じられると思うが、消えゆく方言の保存という意味もあるのか。

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