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「六〇年安保 センチメンタルジャーニー」西部邁著を読んで

唐牛健太郎、篠田邦雄と読んできて、そのリリカルな文章の羅列はリリカルであるにも拘らず、歴史の一断面を切り取っているという意味での内容の硬質さにおいて叙事詩である。

篠田邦雄の言葉にゾッとした。「俺は主体性という言葉をきくと虫酸がはしる。俺だってなんだかんだと主体的にやってきたことはきたんだが、その主体性が俺には重荷なんだ。主体性の喪失こそ俺のスローガンなんだ。俺はなにか偉いものの前で、凄いものの前で、ひれ伏してみたいんだ。どんなにかいい気持ちだろうと想像すると、わくわくしてくる。残念ながらそういうものにはまだ一度も出会っていない。でもいつか出会うかもしれない。主体性なんてのはそれまでの暇つぶしにすぎん」。
これに対して西部邁は「その暇つぶしが、下らぬ遊びではなく、真剣な遊びになりうるためには、厳格なルールに従うことが必要であるのみならず、『偉いもの、凄いもの』にたいする恭順の姿勢がなければならないのである」という。
私には20歳や20歳そこそこで「主体的に」一生分の人生を背負ってしまった人たちの嘆きに聞こえる。確かに自分は主体的にこの生き方を選んだ、けれどいつまで背負わなければいけないんだろう?という嘆きに。
そしてそれが主体的に生きる現代人の普遍的な悩みだとすると、なまじの人にはひれ伏したくないという気持ちは、神を待ち続けるというベケットの世界に迷い込んでしまいそうだ。

そして西部邁はラディカルを急進的と訳さず根底的と訳すのである。そこに西部邁の過激派への態度が現れているような気がする。

東原吉伸の章は辛い。ブントの資金調達と配分を担った彼は、砂川事件での大量逮捕のブント幹部の保釈金を捻出するために右翼の田中清玄に助けを請い、300万円の援助を受けたことで泥を被り「裏切り者」の烙印を押されることになる。

「苦痛と快楽のいずれをとるか、暗さと明るさとのいずれを好むかというような二者択一は東原のものではない。ついでにいえば私のものでもない。苦痛と闘うことのなかに快楽が宿り、暗さと抗うことのなかに明るさが点るという弁証法を東原は体験的に把握している。逆にいえば、快楽に耽溺することの苦痛と明るさに焦がされることの暗さにはっきりと気づいている」。

そしてブントの書記長、島成郎を西部邁は評して「ブントの庶民にとって哲学も理論も組織もおおよそ不在のままに革命運動とやらに突入することの不安感はけっして小さくはなかった。しかしそうであればこそかえって、自分たちの親分に高水準の人格を期待したのだろう。島はそうした期待を担いうる唯一の人間とみなされたのであった」と書いている。

彼らは既成の政府にNOを突きつけた。それが世界革命であり、暴力革命であった。
私たちの生活基盤となっている政府のraison d'etreを認めないという立ち場は古希の私としては違うと思い、やはり私は改良主義者なんだと自己認識をした。

「島が体現していたのはブントの体質ともいうべき浪漫主義の雰囲気であった」。

「五〇年代におおいかぶさった革命という魔語の正体を明るみにさらす五〇年代最後の実験、それがブントだということである」。

ブントの核になるところなのでもう少し引用しよう。(島と生田)「両氏は、その共産党が『火炎瓶遊びと無政策の大衆迎合主義に堕し、方針の貧困さを覆いかくすウルトラ家父長制の暗黒政治へと矛盾を拡大していった』ことに気づいた。それゆえ彼らのつくったブントにあっては、『奴隷の言葉は投げ捨てられた。陰湿な組織的策略は必要がない。明るい生気に満ちた天衣無縫な集団が形成されていた』ということになる。」

「島が革命という観念の崖っ淵にまできていたのは明瞭であった。(中略)『俺はエゲツナイことが苦手だし、街頭指揮も下手だ』とみずから認める人間の口から、こうしたブランキズムを聞かされるのは、それが実現する基盤がどこにも見当たらないのであってみればなおさら、周囲には苦痛であった」。

「しかし、ある意味で、島は正しかったのである。ブントのかざした革命の観念を論理的に展開させていくと、ブランキズムを時代錯誤と承知しつつ実行する以外に選択肢はなかったのである」。

「島は、さすが書記長だったのであって、ブントの位置と宿命をよくとらえていた。革命の観念さらには左翼の思想の総体を解体さすべく、みずからすすんで解体するよう方向づけられていたのがブントである」。

「つまり、ブントとは理想家島成郎の夢想した共産主義者の聖家族の苗字なのであった。(中略)島の私闘を経由することによって五〇年代前半の『あの時代』がやっとその論理的帰結としての死にまで届くことができたわけである」。

「しかし『あの時代』をくぐりぬけた島たちが、『あの時代』の破壊に着手してくれたおかげで、私たちの視界はずいぶん澄明になったのである」。

ここに私が見たものは、島書記長の厳しくも真面目な革命運動との対峙であり、理想的なブントを作りつつもその革命運動の不可能性を察知しみずから引導を渡した誠実な指導者としての島成郎であった。

そのブントの達成したものは、後の世を席巻するハキム・ベイの一時的自律ゾーンだったのではないかと私は考えるのである。

そして、島成郎の的確な物語を紡いだ西部邁にも礼賛の辞を送りたい。かつて新宿二丁目の酒場で「あの人が転向した人?」と不躾にも言ってしまった私は前言撤回し謝りたい。

しかし、革命運動の不可能性と分かったような書き方をしたが、なぜソ連で、中国で、ベトナムで、キューバで可能だった暴力革命が日本では私たちはその不可能性に言及してしまうのだろうか。
韓国の光州事件、済州島四・三事件、何よりも軍事政権に対峙した民主化運動にハン・ガンさんの「別れを告げない」の書評を読みながら思いを致してなぜ日本では不可能なんだろう、と考えてしまうのだ。

利己的ではない自らの尊厳に無自覚だからではないのか。

「1968年」でスガ秀実氏は全共闘は児戯であったと自嘲的に言うが、常に戻るのはレーニンの「帝国主義的戦争から内乱へ」という言葉と「暴力革命」というやはり魔語の呪縛であったように思う。

全学連、全共闘、共に「革命」という魔語に唆されたエリートたちの思い描いた理想の社会は私には見えないが、今朝のツイッターで図らずも火事で焼け出された猪口邦子氏の言葉と出逢い答えはこれではないかと思い当たった。
「わたしたちすべての人間は、生まれながらにしてなんらかの環境的運命を背負っています。青春とは、その運命に対する挑戦であり、自分自身のきびしい開拓の場なのです」。

この運命に対する挑戦ときびしい開拓の場が「革命」という魔語と共同幻想によって空前のデモ行進を成し遂げ、国家権力と対峙することを可能にしたが、吉本隆明氏の「共同幻想論」に著されているように幻想だと気付かされた若者がばらばらに砕け散りポストモダンになだれ込んだ、という見方はまとめ過ぎだろうか?


まだまだ、センチメンタルジャーニーは続く。人情に篤い森田実、理論家でブントの思想的支柱と言える長崎浩、彼は黒田寛一を批判し続け、「叛乱論」が68年に発表されると多大な反響を呼んだ。そこでこう言っている。「ただ、戦術問題において全共闘が旧ブントを完全に抜いている、ということだけははっきりしていた。それで、戦術問題と組織問題の関係について考えてみなければ、と思ったんだ」
そして西部邁が抜粋したのが以下の文章である。「党は叛乱の地盤そのもので生き、同時に叛乱のヘゲモニーのために叛乱のうちに技術的頽落の宿命を背負う。…ヘゲモニーとしての党もまた、一個の叛乱者である。アジテーターと大衆の根源的関係は叛乱から党へと幾重にも循環して運動する。党は叛乱の憤死か、叛乱の技術的転落かへの分解に抗し、両者の弁証法的相剋によく耐えるものとして党なのである。党はたしかに背理である。だが、この背理は党の宿命である。党はまさしく叛乱の生であり死である」。

この長崎の文章の「両者の弁証法的相剋によく耐えるもの」という言葉と「二元論の尾根を歩くにも似た」という言葉に私は何故西部邁は自死を選んだのかという問いの答えがあるような気がする。

西部は尾根を歩くことに疲れ果てたか、尾根を歩くバランスを保てなくなったことを自覚したのだろう。幇助した人はそうなのか否かの答えを知って黙しているので、私はこの「センチメンタルジャーニー」の中の言葉から推測するほかに出来ることはない。

唐牛健太郎の死から西部の中でブントの存在が大きくなったと書いてあることからは、一人二人と欠けていく同志の不在が西部を追い詰めていったとも考えられる。日に日に大きくなるブントという歴史的存在の重圧から逃がれたかったのかも知れない。つまり同志が欠けていくということは西部が一人でブントを背負うことになるということだからだ。

いや西部邁には幇助者がいる。彼らを説得できる理屈が必要だ。私の伺いしれぬ立派な理屈があるのだろう。

本題に戻ろう。長崎の思考形態は西部の思考と同一の構造を持っていたと西部は認識している。

長崎浩著「政治の現象学」の結語を西部邁は紹介している。
「政治は、決意して、ひとの生き方も実務の道をも断念しなければならない。これはちょうど、個的決意の極限で、ひとが大衆の生き方の世界を去らねばならぬことに対応するのであり、政治と個は、このように極北で、はるかに拮抗しあう以外にない。もとよりこのダイボール(二極)が、現実の政治や大衆の生活世界を“否定”することなどできはしない。いつも、政治や生活は現実のうちで生起するしかないが、その著しさを自らのうちで無化しようとする努力が、政治をも個をも、それぞれの極北へと追いやるのだ」。

この結語の中で判らないことがある。「その著しさを自らのうちで無化しようとする努力」でなぜ無化しようとするのだろうか?「ひとが大衆の生き方の世界を去らねばならぬこと」と「政治や生活は現実のうちで生起するしかないがない」ことが極北で拮抗しあうことは判る。
闘いの経験のない者には判り得ない実感なのだろうか。

西部邁が保守の道を歩むようになった心情を伺わせる文章が長崎浩に宛てて書いてある。
「なぜ長崎は、自分と同様に優しく穏やかな人々がそうした両極分解に苦しみ、その苦しみのなかで両極のあいだの綱渡りをかろうじてなしうる智慧を発見し、それらが伝統となって堆積している、というふうに考えなかったのだろうか」。

そして書かなくなり沈黙を守っている長崎にエールを送り終章に入る。

「しかし、歴史とは物語のことにほかならず、そして物語とは戦士たちに与えられる墓碑銘のことなのだ」

「過去は単なる過去ではなくなる。歴史はすべて現在史にほかならないのであって、元同志たちの綱渡りにおける平衡術は、成功したものにせよ失敗したものにせよ、私の現在のうちに生きはじめるのである」。

「六〇年の出来事は小さいながらも私たちの世代にとっての戦争」であったのだ。

「要するにブントにおける過激性とは体裁ばかりのもので、私たちはつまるところ未熟だったのである。(中略)しかしそうだとしても、そういう未熟な馬鹿騒ぎに人生を賭けるような気質から私はいまも自由になれないのであり、私なりに成熟なり賢明さなりの訪れがあるとすれば、その宿命としかいいようのない自分の精神の勾配をきちんと測定するところからしかやってこないだろう。そしてその測定作業のなかで、私は依然として危機のなかにいるのだということを発見するだろう。私の思う保守の態度はそうした危機をくぐりぬけるためのものである。つまり生の矛盾、葛藤、逆説そして二律背反のなかでの平衡術のようなものである」。

人は自分の見たいものしか見ない、という言葉が正しければ西部邁氏の同志のなかに見たものは西部氏の分身としての同志だったのではないか、と言える。特に篠田邦雄氏の「主体性なんて虫酸が走る、なにか偉いものにひれ伏したい」という言葉は西部氏の精神の平衡術としての伝統に回帰する姿勢と重なり、西部氏自身がその相関性を指摘しているように長崎浩氏の二元論の精神の平衡術は西部氏のものでもあった。

こうして、読み終わってみると保守回帰の正当性が身に沁みるが、今でも世界革命を信じているスガ秀実氏の世界観との相違を私のなかで形成できていない。世代も十年隔たり、党派が増えたことの複雑性もある。

ただ、当然ながら二十歳前後の若者たちのすることである。六〇年、七〇年、どちらも未熟で無謀で無責任な部分はある。それらが革命が失敗した理由だと私は思うようになった。

また、私の高校の教師が言ったように日本は革命をするには成熟しすぎているのかも知れない。衰退局面に入った日本は革命以前にこれからの日本社会の在り方を真剣に考えて行かなければならないのだと思う。その社会の在り方が要請すれば革命という選択肢もテーブルに乗るときが来るのかも知れない。

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