「いのち」が「私」を生きている。私たちは決して単なる脳ではない。
前回の記事で意識とは脳機能により創発的かつ瞬間的に分散して現れる現象だということを書きました。
私はこういうことを勉強していた時期、ちょっと虚無感に近い気持ちを感じていました。
なんか、やたらにシステマチックというか、まるで自分は有機的なメカに過ぎないと言われている感じがして…(笑)
確かに私たちはある意味では操り人形のような存在ですので、そこにニヒリズムを最初は感じていたのですが。
でも。
確かにヒトの脳は進化の過程でえらいハイスペックになりましたし、そのせいで複雑な処理ができすぎるあまり、随分悩みを抱えやすくもなっています。
生存のためにそのハイスペックな機能性があるのは事実なんですが、それがなぜそのように機能するかは誰にもわからない。
例えば脳は右半球と左半球に分かれていますが、そのことひとつとってもどうして二つにわかれているのか?ということは誰にもわからない。
超高性能なモジュールは自律して分散並列して働くことがわかっているけど、どうしてそれがそのようなつくりなのかは誰にもわからない。
確かにそれらが正常に機能することによって私たちの生存は保たれて認識や認知行動を起こすけれども、何が通っていたらそうなるのかはわからない。
こういう話題の時「AIに意識は発生するか?」という問題はいつも議論に上がると思うけど、少なくともAIを起動するには電気が通っていないとなりません。
スイッチをONすると(あるいは充電しておくと)稼働するわけで。
じゃあ一体ヒトを稼働させているのは何なのか?ってすごーく不思議で。
何が通っていたら生きていて、何が切れたら死ぬのか。
誰にも名前を付けることができない「何か」がヒトをヒトたらしめる本質であり根源なのだろうと思います。
それはきっといろいろな呼び方をされているのだと思います。
神と言ったり、仏と言ったり、タオと言ったり、愛だったり。
とにかく森羅万象を動かしているその本質である「何か」です。
これを私たちは知らないと思っているし、いつも探しているのだけど、それそのものが通っているからこそ私たちは自分が生きていると感じられるのじゃないかなあと思います。
お寺なんかにたまにかいてありますよね。
「いのちが私を生きている」
確かに脳から意識が発生しているのかもしれませんが、それが発生するためにはその「何か」の働きがないと私は私を感じることはできない。
だから私たちは決して単なる脳ではない。
そう思っています。
本来そうであるものを探しながら七転八倒して生きる姿が、もしかしたらヒトという生き物なのかもしれません。
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