
〜意識と責任〜コーチバージョン
コーチングにおいて最も重要な事は、コーチはクライアント自らが意識と責任を持てるように関わるということをジョン・ウィットモアは、彼の著書『はじめのコーチング』の中で語っています。
コーチングではクライアント自身の主体性が発揮されないと意味がないからですが、
ここで言う「意識と責任」がもてるということは自分の本当の欲求に気づくということでもあると思います。
ここでいう責任とは、他者から負わされる責任ではなく、自ら負う責任のこと。
それは即ち、自分の欲求によって選んだという意識とそこからくる責任です。
それは自分が大切にしたいことのために、納得して決意することであり、他者から言われたからやるとか、他に誰もやる人がいないからしょうがなくやる、
といった場面でも、自分の良心や価値観に誠実になることを選ぶ瞬間です。
ここでいう良心とは、道徳心などとは違う、限りなく個人の価値観からくるものをいっています。
その人個人が持つ独自の考えとも言えますが、それは他者への貢献という目的があることで全て良心といえるものです。
これはまさに、「人として、一人の人間としてどうありたいか」という問いかけへの返答でもあるはずです。
自分がこれを選んだという意識を持つことが重要であり、それこそが本当に責任を負うということ。
でも、ここでコーチがでしゃばってしまうと全て台無し。
自分のことであっても、誰もその責任をとる人がいなくなってしまいます。
「自分がこれを選んだ理由は、自分がやりたいからだ。」
「自分がこれをやるのは、自分がこれを大切したいと思っているから」
「自分がこれをやるのは、自分をおいて他にいないから」
などなど、
でもここにクライアントがやらない選択肢も含めてないと本当に選択したことにはなりません。
「本当にあなたがやらないといけないのか?」
「別に逃げてもいいんじゃないか」
「手放すことが本当の勇気なんじゃないか」
注意が必要なのは、クライアントが自分に責任を持つのであり、ここに社会的な責任は入らないことです。
それは、場の空気を読むような状態からは程遠い。
やるにしてもやらないにしても、誰が何と言おうが私が決めたんだと思えてはじめて、責任を負ったと言えるし、それは同時に自己一致していることであり、自分への信頼となるでしょう。
どんな決断であっても、それが自分の良心に背かないことであれば恐怖や不安は驚くほど影を潜め、勇気が湧いてきます。
そのような意識と責任で選んだことは、どんな結果になろうとも決して後悔することはない。
そのような意識と責任で選んだことは、自分にできる限りのことをするからです。
このような場でコーチにできることは少ない。
このような場面でコーチに本当に求められるのは、
本当にクライアントが求めていることなのかどうかへの問いかけと
自らはクライアントの問題に無責任になる覚悟と、
共感して共に苦しい気持ちを感じつつも、そこに何もせずに居続けること。
これができなければ、このような場はつくれず、
クライアントの主体性はなくなり、
コーチはクライアントがただ他者のせいにすることに加担することになり、
セッションは単にコーチのパフォーマンスのためのものに成り下がる。