きょうだい
きょうだいの関係って不思議だと思う。
全く別々の人格を持ち、全く違うように育ち、考え、生きる。
気が合うとは限らない。
限られた資源をどうしても分け合うことになる。
でも、同じお腹から生まれ、同じような環境で育ち、与えられるチャンスはさまざまでも、同じDNAを共有している。
親子よりは遠く、他人よりは近い。
きょうだいとして生まれたからには、物理的にもどうしても切り離せない縁がある。
それは、どうしようもなく、存在そのものなのだ。
これを深く考えるようになったのは、一昨年に弟を亡くしてからだ。
私は近しい人を亡くしたのは祖父母以外では初めてだったので、今までととても違う感覚を感じ続けている。
強い悲しみとは違う。
自分の悲しみというより、母や弟の奥さんや子供たちの悲しみに共感する方の悲しみの方がより強く感じる。
自分にも子供ができたことで、より母の悲しみへの共感が強い。
これがきょうだいの距離感なのかもしれない。
感情的にはそんなに悲しみを感じていない。
ただ、物質的なところの感覚が今までにない何か悲しみのようなものを感じている。
物質的、そう、それは肉体的感覚の方に近い。
事実、私は棺桶に入ってからの弟の姿を見ることがどうしてもできなかったのだ。
肉親の死はかつての一緒に育ってきた時の感覚の記憶といったものが作用しているように感じる。
価値観や好嫌いを通り越したレベル。より原始的な感覚だろう。
そしてまた、この感覚は、逆縁の悲しみに繋がっていく。
今の私の中で「きょうだい」のイメージにとても近いのが、鞘に入ったえんどう豆だ。
全ての豆が発芽するとは限らない。でもそれぞれに幸せな旅をする。
えんどうまめも、お互いをそのような、きょうだいのように感じるだろうか。
萩尾望都さんの『半神』は、昔からとても好きだったが、今はさらに深く感じるところが多い。
まこと、きょうだいとは不思議な存在である。
この感覚を記録しておきたかったのでここに描きました。
決して悲観的になっているわけではないので、そのように読んでいただけるとありがたいです。