あなたの人生は素晴らしい、なぜなら私の人生が素晴らしいからだ
現在、ご縁があって色々な人に関わってもらい、複数の視点・手法で自分について見つめ直す機会をいただいている。とてもありがたい。
人生後半のここへきてなぜこうしたことをいくつも並行してやってみようという気になったかというと、以前とは全く違う質感で自分の命や人生の可能性を信じられるようになってきたからだと思っている。
これは私にとって結構大きな変化なので、あらためて時間をとって、自分に何が起きているのか振り返ってみた。
私にかかっていた呪い
以前の私は、こうした機会を頂いた時、「ひとつずつやっていくこと」が正しいと思っていた。同時並行では自分が消化できなそう、という不安ももちろんあったけど、それよりも、関わってくれる人に申し訳ない気持ちであったり、ひとつずつしっかりとやることが礼儀だみたいに意固地に思い込んでるところもあった。
もちろんそれによって集中して深く見つめられたのですごく良い体験だったし、その時に関わってくれた人や教えてくれた人たちには本当に感謝しかない。
しかし今さらに深掘りすると、前述のようなことは自分の表層のことで本音ではなく、根っこのところでは、一つずつ「ちゃんと」やることで「私はちゃんとした人です」ということをアピールしたい自分がいたんだなと気づく。
子供の頃から私を覆い続けている「ちゃんと」の呪いがここにも現れていた。
私を突き動かしていたものは「恐怖」だった
これまで「やればできる」「行動すればなんとかなる」という謎の馬力で人生を切り開いてきた自負もあったので、いざという時の自分への信頼は高い方だったと思う。
でもそれは「いざという時」という場合のみ。いざとなればできるのになぜ普段からやらないのか、それは基本的に自分を信じていない、もっというと自分の存在自体を疑っていたからだった。
幼少時から目に障害があったことに起因して実に様々なことがあり、結果「ありのままの自分は欠けている存在のため、ありのままでは何の価値もない、必要とされない存在である」と深く魂に刻まれていたのだった(と、数年前にやっと気づき始めた)。
生きていくために、生きる場所を得るために、欠けている足りない部分を補い、生きる価値を発揮するために必死に努力した。「努力し続ける」ではなく「努力した」なのは、私を突き動かしていたのは「欠けていて何の価値もない自分だけども、なんとか生きていかねばならない。何か価値を発揮しないと生きていくことはできない」という焦燥感や恐怖だったから。
恐怖は瞬発的にすごい力があるものの、持続しない。
だから火事場のなんとやらは信じられないくらいの力を発揮し、結果として成果を出す一方で、その力は持続しなかった。火事場がないときにはエネルギーが落ち、パフォーマンスが落ち、成果も出なくなり、また価値の出せない自分を自覚して、また焦燥感や恐怖がやってきて、また「価値を出し生き延びるため」に追い立てられるように必死にやる。なんなら火事場をわざわざ探したりもした。「火中の栗を拾う」的なことが得意になったのは、純粋に現場を愛する心だけではなく、この私の命に深く根差した恐怖のエネルギーだったことは間違いない。
そんなことの繰り返しが人生前半ずっと繰り返されていた。いま言葉にするだけで息苦しい、疲れる人生だったな。
おつかれ自分。よくここまで生き延びた。本当にえらい。
生々しすぎるくらい色鮮やかな生き様
だからといって、これまでの人生が不幸だったかというとまったくそんなことはない。主なエネルギー源は恐怖であったとはいえ、それだけではなかったことも確か。またこのような生き方をしてきたおかげで、数多くの「現場」に立ち会うことになり、かの有名な「アレ」を地でいく生き様を刻むことになった。
土を耕す以前にまずその土地を探すことから始めるであったり、ボヤが大火事になり消火しようとして自分にも燃え移ったり、ちゃぶ台返しどころかそのちゃぶ台が飛んできて流血したり。
こうして書き出すとなんか例えがおかしいけれど、きっかけとなるエネルギーが恐怖であったとはいえ、実際にやり始めたらこのギリギリ感に血湧き肉躍っていたことも確か。思い出すだけでもワクワクするし、いまとなっては最高の思い出ばかり。
こうしたスタンスで仕事をしていると、自然と一歩も二歩も踏み込むことになり、その結果物事の本質に迫って真実がどこにあるのか目の当たりにすることも多かった。葛藤が生まれて、忖度するこころから自分に嘘をついて偽りの自分でやり過ごしたこともあった。真正面から正論をぶつけて玉砕したこともあった。どちらかというと玉砕のほうがずっと多かったかもしれない。
1人じゃ到底できないことを多くの人と協力して成し遂げることで、自分の限界を知り、また限界を越える方法も学んだ。実際にできることも増えていき、いわゆるスキルや知識も増え、生きるために必死に取り組むことで得た経験や喜びもたくさんあった。
幸いにもたくさんの素晴らしい人との出会いもあり、今につながっていて本当に感謝しかない。当時は何もわかっていなくて生意気なことを言ったり、自分だけの正義を振りかざして悦に入っていたこともあった。それなのにいまもこうしてつながってくださっている皆様、本当にありがとうございます。
また関わってくださる人たちの変容や進化をたくさん目の当たりにしたことで、自分が情熱を注げる仕事も見つけることができた。
がんばりたいときにがんばるため、自分のバランスをとることが重要だとも気づき、意図的に心身を緩ませることも学んだ。
結果こうして生きて来れているし、いつもむきたての玉ねぎみたいにフレッシュで生々しく、いろいろな出来事をストレートに感じ、数えきれないくらいの失敗といくつかの誇れる成果とともにたくさんの幸運にも恵まれ、楽しみや喜びのたくさんある彩り豊かな人生だったと思っている。これらも振り返ってあとから気づいたことではあるのだけど。
40代から変化し始めた人生
そんなこんなで40代になって更年期に差し掛かり、体調に色々変化が起き始めたこともあり、この生き方は疲れ過ぎるし、命を削っている感じがして、このままでは長くは生きられそうにない、と感じるようになった。
自分の命を削りそうなもの、私から力を奪うものを特定し、勇気を出して少しずつ手放していった。なかなか手放す気持ちになれないものには、手放したら死んでしまうと思うほど恐ろしい執着があるとわかったり、本当は大切なものだったのに自分と向き合うことから逃げて手放し、何度も後悔するような経験も経て、自分が本当に大切にしているものが何かを徐々に知ることができた。
自分の心と向き合いながら一つずつ手放していると体も反応してきて、急に食物アレルギーになって卵が食べられなくなったり、突然ラテックスアレルギーになり、長年私の人生を支えていた波乗りができなくなったりした。寂しいことではあったけど、強制的に手放すことになったように見えて、実は自分がどこかで察していた、願っていたことだったのかもしれないということにも気づけた。卵NGになったことで食育について学ぶきっかけになったし、波乗りに費やしていた時間やお金をいまはほかのことに使うことで、別な豊かさを得ることができている。
手放すことで身軽になり、身軽になることでちょっとずつ自分の世界も変わり始めてきた。魂に刻まれていた「自分は欠けていてありのままでは価値がなく、生きていてはいけない存在である」という思いは氷が溶けるように少しずつ解けていき、溶け出したものが自分自身を洗い流すような感覚だった。年齢は重ねていっているけれど、魂は洗われて透明度を増し、みずみずしさを増していっている実感がある。
そしていま、声を大にして言いたいこと
そして冒頭の話に戻るのだけど、いま複数の視点・手法で自分について見つめ直す日々を送っている。不思議と「並行してやっても消化できないのではないか」という不安はない。この「消化できないのではないか」という不安は「ちゃんと消化せねば」というお馴染みの恐怖が関係していた。「やるからにはちゃんとやらねば」の正体は、ちゃんとやらないと価値が出せない、価値が出せないと居場所がなくなる、生きる価値なしに戻っていく自分の悲しく強い信念だった。
しかし今の私は、ちゃんとやっているかどうかなんて誰も見張っていないし(見張っているとしたら自分自身)、そのことについて評価判断を下す人もいないし(いるとしたら自分自身)、ちゃんとやらなくても無事に、そして楽しく生きていけることを知っている。
ちゃんとやることにこだわり、自分の大切なものを削ぎ落として小さな箱におさまることの息苦しさもたくさん経験して知っているし、その箱の壁をぶちやぶる時の恐れ、ぶちやぶったあとの爽快感や、外の世界の信じられないほどの広さも知っている。
「やりたいようにやる人生、最高なんだな」と心底信じられているいま、本当に人生史上最高に自由に過ごしている。
そのような自由な人生に生きていると、これでもかっていうくらい自分についての新たな発見が日々ある。「えっ!こんな自分がいたのか」というくらい次々出てくるし、乗り越えたと思って完了ラベルを貼っておいたものすら、完了したことにして見て見ぬふりをするためだったと分かったりして「おやおやそうくるか」と呟くなど。
カッチャマンこと勝屋先生が言っている「偽ダイヤ」はだいぶ手放したつもりになっていたけど、内側から次々湧き出る年季の入った偽ダイヤや、新しく産まれ続ける偽ダイヤ。
ああもう、51歳になってこんなにまだ自分が変化、進化し続けているなんて、命ってすごい。
どんな過去も、どんな感情も、一度すっぱりと手放したものさえも、全部含んで進化し続けている自分が頼もしく誇らしい。
自分を知ることへの恐れよりも好奇心が上回り、自分を疑う簡単さよりも信じる難しさを選ぶことができるようになり、ちゃんとしてない自分も愛しい自分だと心底思えるようになってきて、だから私はコーチという生き方を選択しているのだと自信をもって言える。一切の疑いなく自分の命と人生を信じ愛せるからこそ、誰かの命と人生も一切の疑いもなくただただ信じ愛することができる。
ここは自分の中で確固としてつながっていて、全世界の全人類に声を大にして言いたい。
そう思えない、信じられない気持ちもすごくわかる。なぜなら私も長い間そうだったし、いまでも何かと揺らぐことがある。
つい2日前だって、「役に立ちたい」という気持ちが伝わらずにがっかりし、その後、「役に立ちたい」思いは誰かの役に立つことで自分の価値を証明しようとする気持ちの表れだった、だから受け取ってもらえなくて傷ついたのだとわかり、そんな自分がまだいることにびっくりしたばかり。
だけどこうして生きているからこそ気づけたし、またひとつ学び、勝手に期待してがっかりしたりしながらそれでもなお、わたしは自分の命と人生を信じて、ここにいる。
そして誰かの命と人生を信じて、ここにい続ける。
コーチングを受けてみたい方
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
コーチとしての生き方を選択した私のコーチングは、私の人生経験と学びを全て統合し、おひとりおひとりにあわせて完全にパーソナライズしてご提供をしています。イメージは、空調の整ったホテルのラウンジでアフタヌーンティをいただきながら話す、ではなく、「蚊に刺され汗だくになりながら焚き火で焼き芋を焼いて一緒に食べる」そのような時間です。
人は常に変わり続けています。あなたがこのnoteを読んでいるこの瞬間もです。
だからこそ、自分を知る、探求することに終わりはありません。
今の自分が何を感じ、何を大切に生きているか。信じていることは何か。どうありたいのか。自分を探求し続けることは、とても早い時代の変化を恐れず、好奇心いっぱいにおもしろがるしなやかな生き方につながります。
やけどのリスクをわかりながら、自分の奥底に灯る炎をさわりにいくようなコーチングです。
興味を持ってくださった方は、初回個別相談にお越しください。
個別相談ほどじゃないんだけどな、という方は、月に2回無料メールレターを発行していますので、こちらをどうぞ。こっちはこっちで、SNSなどでは書きづらい生々しいことを書いて、読者のみなさんと楽しくやりとりしています。