言葉は思い出にもつながっている
学校に行っていない私
通訳の仕事をしていると、言葉というものは文化や歴史、習慣などの背景と切り離せないものだと実感する。そして、言葉から受ける印象や連想するものは個人レベルでも違う。その人の記憶と語感(言葉に対する印象)は切っても切り離せないものなのだ。
子供の頃から団体行動が苦手だった私に、集団で行動することが基本の学校生活が好きになれるはずもなかった。あまりにも苦手で、あまりにも嫌いだったせいであろう、小学校高学年になる頃には学校に行こうとすると体調が悪くなった。単にサボろうとしているというよりは本当に具合が悪そうな私のことを心配した両親は、私をいろんなお医者に連れて行った。原因は分からなかった。そして、病院は学校よりマシだったので、学校を休んでお医者に行くとき、私はいつもより元気だった。
その日も朝から母に連れられて病院に行った。診察を終えて車に乗ると、母が突然「お寿司が食べたいから帰りに寄ろう」と言い出した。
こんな平日の真っ昼間にお寿司屋さんに子供が居たら、お店の人が変に思うのではないか……。私は不安に思った。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、母は通りすがりの寿司屋の駐車場に車を停めた。お昼時にはまだ早かったのか、誰もいないお店のカウンターに並んでお寿司を食べた。食べながら母は板前さんとお喋りしていたが、私は少しでも目立たないように、ずっと黙っていた。
「なんでこんなところにいるの?学校には行かないの?」と聞かれるのが怖かった。
食べ終わって帰宅するのかと思いきや、母は家とは違う方向に車を走らせる。全然違う方向に向かって走っている理由を説明しようとする気配すらなく、母は「ほらね、この季節が一番綺麗!」と、道端の桜並木を見ながら楽しそうに話している。花の時期は過ぎ、道の両脇には桜の木が青々とした葉を茂らせていた。確かに、「新緑」という言葉がぴったりの生命感に溢れた美しさだった。
おかしな会話
しばらく車を走らせると、大きな池のほとりで母は車を停め、「せっかくだから外に出よう」と言った。池の周りを少し歩いて、座り心地の良さそうな平らな場所を見つけて二人で座った。太陽の光を受けて光る池の水面と、その池を取り囲む桜の木に茂る緑々とした葉、背景の青い空が美しく、「この季節が一番綺麗」という、さっきの母の言葉を思い出して少し納得した。
特に言葉を交わすこともなく景色を眺めていると、短パンにTシャツ姿で釣り竿を持った小学生くらいの男の子が歩いてきた。私は学校に行かず、こんなところにいる自分のことを変に思われないかと一瞬心配したが、考えてみれば、その男の子こそ(!)学校にも行かず何をしているのだろうと思った。
男の子はニコニコして通りざまに私たちに、「今日は釣れんね!」と言った。
その子が通り過ぎると母がプッと吹き出し、「おかしいわね」と笑った。
何が「おかしい」のか。
小学生くらいの子が平日の真っ昼間に学校にもいかず一人で釣り竿を持ってブラブラとしていること?明らかに学校をサボっているのに、「不良」という感じではないこと?見ず知らずの私たちに突然に話しかけてきたこと?
笑っている母の様子から、「おかしい」というのは、そのどれでもないことは明らかだった。言葉の意味が掴めない私が何も答えないでいると、「私たち、釣りしてないのに、『今日は釣れんね』なんて言われても、分かんないわよねー」と母は続けた。
母はただ、会話のチグハグさを面白がり、「可笑しい」と笑ったのだ。
そのとき、その男の子も、母も、「平日なのに学校に行っていない私」のことを妙に思ったり、責めたりする気持ちが全くないことに気づいた。恐らく、さっきお昼を食べたお寿司屋さんも同じだろう。
気にしているのは私だけだった。
そう思ったら、急に肩の力が抜けた。目の前に広がる景色の葉桜の緑が、より一層深く、濃くなった気がした。
この時のことは、今思い出しても不思議な気持ちになる。
あの男の子は、どこの誰だったのだろう?なぜ平日の昼間に元気に一人で釣りをしていたのだろう?そして、母はあの時なにを思って遠回りして私を連れて葉桜を見に行ったのだろう。
母に聞いても、きっともう覚えてはいないだろう。大きな事件でもなく、記憶に残るような劇的な出来事でもない。それでも、楽しくもなかった私の小学校時代で、この記憶だけは思い出すたびに少し不思議で、暖かく、解放されたような気持ちになる大切な思い出だ。
「桜」と聞けば、多くの人は満開に咲く桜の花を想像するのだろう。でも私が「桜」という言葉から一番に思い浮かべるのは、いつも新緑の季節に太陽の光を浴びてキラキラと輝く葉桜だ。
言葉は思い出にもつながっている。