おまえ、そこにいたのか
『見えている世界』と『意識して見る世界』は全く別のものである。
日々視界に入ってくるたくさんの情報の中から、特定の物事が急にはっきり見えてくる瞬間がある。こんなに近くにあったのに、なんで今まで気づかなかったんだろう、というちょっと不思議な体験。少し意識するだけで、途端にそればかりが目に入ってくるようになる。
2021年8月、東京末広町にある PARK GALLERY にて人生初となる個展『石ころをひろった』を開催した。その個展の期間中の、梅雨明のけ真夏日のある昼下がりの出来事だった。
この日は平日で、でしゃばりすぎの太陽により気温は実に35度まで上がっていた。地球温暖化にも限度というものがある。私とスタッフのあかねさんはクーラーの効いたギャラリー内で、アイスを食べたり雑談をしたり、在廊というより夏休みで親戚の家に遊びにきたような感覚だった。
あかねさんは時たま、2階の事務所の掃除やら外のチラシの整理などで席を立った。この日も、ちょっと外に出ると言って席を立ち、しばらくすると戻ってきたのだが、なんだか様子がいつもと違っていた。
「ねえ、虫、平気?」
何か見てはならぬものを見てしまった時のような、神妙な面持ちで私の前に立ち尽くすあかねさん。虫、虫か。ゴキブリでも出たのかと問いかけると、ちょっと来て、とおもむろ外に連れ出され、あかねさんが指さす方向に目をやった。そこには、ギャラリーの入り口前に植えられているオリーブの木が一本、整然と生えていた。ここ数日毎日見ている、可愛い黄緑色の葉っぱの木。この木が一体どうしたというのだろうか。
「最近、なんだか葉っぱが減っているな、と思って。」
確かに通常のオリーブの木よりは少し寂しく、葉っぱも黄色味が強いような、と顔を近づけた瞬間、一気に『それ』が視界の中に浮かび上がってきた。
『それ』は、一匹のイモムシだった。
なるほど、こいつが葉っぱを食べていたのか。ご丁寧に葉っぱと同じ色をしており、顔を10cmまで近づけないと気づかなかった。これぞイモムシの生きる術、保護色。と少し感心したのも束の間、そのイモムシの向こう側にさらに別のイモムシがいるではないか。まさかと思い周りを見渡すと、その隣にイモムシ、そしてまたイモムシ。なんと、私が葉っぱだと思っていたものの1/3はイモムシだったのだ。
なぜこんなにも大量のイモムシに、今まで気づかなかったのだろうか。葉っぱだと思い触ってみるとなんだか柔らかかったので、よく見るとイモムシだったと言う。毎日見ていたあかねさんでさえも、触るまで気づかなかったのだ。思い込みとは恐ろしい。あかねさんは一生、このイモムシの感触を忘れられないだろう。
その後、火鉢でイモムシをひっぺがそうと試みたが、こんな小さな体のどこにそんな力があるのだろうかと不思議に思うくらい、頑丈に枝にくっついていた。さすがに大量虐殺は良心が痛んだので、枝ごと切り離して隣の公園へ持って行くと、通りがかりの小学生達が物珍しそうに集まってきて、大量のイモムシを取り囲んではしゃいでいた。私にもそんな時期があったのだが、今や火鉢や枝越しでもイモムシに触るとなると躊躇してしまう。いつからそうなってしまったのだろうか。
枝を間引かれたオリーブの木はさらに薄毛になってしまい、どこか寂しげだった。オリーブよ、私はお前の人生の恩人なのだ。立派に育てよ。
おしまい。
ー 個展『石ころをひろった』(2021.7.14-25 @PARK GALLERY)
こちらの展示の作品たちは、以前記事で書いた石ころひろい旅行記をもとに制作しました。
ー テーマを『石ころをひろった』にした理由は?
絵や音楽自体に、価値があると思いますか? 価値というものは、見る側が勝手に付けているもので、本来はないものなのだと思うんです。私が今回べらぼうな値段をつけた石ころだって、誰も見向きもしなかったただの石ころです。でも、ある人にはちょうどいいペーパーウェイトになり、ある人には漬物石、ある人には芸術品になります。見る人によって、ものの価値というものは全く違うものになります。
「私がなんでもないただの石ころを拾うように、誰かが私の絵を拾ってくれる。」
私の絵は、石ころと同等の可能性があるのだと気づきて、とても嬉しくなりました。
「石ころをひろった、それはただの石ころではないようだ。」
そのことを実感したかったので、石ころをテーマにしました。
(2021.7.21 インタビュー記事より抜粋)