あなたのヴィランは涙を拭いて
自分が恨みを買う覚悟はないのに、徒党を組んで、人を指差す心暗い集まりというのは、どこにでもあるものだなと思う。
そういう人たちは、いざ、自分が指差した人たちの命も刺したと気づいた時、弱ったふりをして逃げていくものだとも。
そういう人たちと、私はあまり相性が良くない。
なぜかわかるけど、綺麗に表現ができない。
ただ、「なぜ」という視点に目を向けたとき、整頓なものが自然であると感じるから、そうしてしまうのだと思う。
だから、きっと、誰かのヴィランになりやすい。
目をつけられやすい。
私の本質は強い周りありきの綺麗事で成立しているので、錆びた刃物で苦しませたい種類の存在はいると思う。
高校くらいまで、私も刃物を抱いた側にいたので、そういった気持ちの抜け殻は体のどこかに残っている。
クラスのキラキラした女子が羨ましかった。
主人公のつもりだったから、いろんなものが鼻についた。
特別な存在だと信じていたから、音楽で認められてゆく人たちになることができると思っていた。
地について、空気を感じ、汗を流して、空を見上げて、時々雨を鬱陶しくも心地良くも感じることができる生活になったのは、この数年で、それは、素直に周りの人たちが、私のドロドロした空気を吸って清浄してくれたからに過ぎない。
でも、いくら刃物が抜け殻になったって、小心者の私は、誰かの鋭利な持ち物から狙われていることに、勝手に怯え続けている。
故に、私は、誰かのヴィランになりやすい。
なりやすいというよりかは、勝手にそう思い込んでいる。
最近、私の周りからたくさんの人たちがいなくなった。
私の一番大切にしている人は、心の病気になった。
きっとそのきっかけの一部は私にもあって、人工的な不自然な自分の世界も認めればそんなことにはならなかった。
でも、少しだけ小賢しい私は、その病気は私だけのせいではないこともわかっている。
いろんな方向から、いろんな角度の世界の常識の心無い言葉で世界が埋まったように感じたのではないかという視点もある。
私のエゴは「この人と私の周りを守るために言わなきゃ」という発信からであったので、私は今日、その人が元気になりますようにと、部屋の隅で一時間ばかり祖父母の遺骨を抱きしめて謝り続けながら泣きじゃくった。
けれど、もっと遠い人たちは、そのようなことは思っていない。
当の本人に「私はそんなつもりじゃない」などと、卑しく生き延びることしかおそらく考えていない。
そして、今の私には、それもその人の正解だと認める余裕はない。
とてもかなしい人生だとしか心を寄せることができない。
そういう性質の人たちは、一生、ことあるごとに、誰かをヴィランにするのだろう。
暇な人生であると思う。
関わってはならないけれど、心を壊された側の気持ちを思うと怒りも湧くが、怒りを抱いてすらもいけないような忌避すべきところであるとも考える。
まとまりのない文章になったけれど、理不尽な顛末への憤りは、到底その阿呆どもが理解できないような、今の自分にできる精一杯の端正で整頓な言葉を綴ることでしか、正解はない。
あなたのヴィランは涙を拭いて、大切な人を思って祈るという正義をひたすらに。
あなたが到底理解ができない静寂を見据えながら。