私のお友達

私とその年下のお友達が出会ったのは、2010年の秋頃だったと思います。
彼女は中学2年生、私は高校3年生。
最初は、私が人に対してぎすぎすと脂っこい否定の感情を持っていたので、怖がられていましたが、二度目、2011年のミヤジックというフェスでは、少しだけ、打ち解けてもらった気がします。

その子は、本質的に、天才でした。
音楽としてでも、芸術家としてでもなく、人間として。

私の「平和台」という曲が良いと褒めてくれたことも、宣伝してくれたことも。
私が紹介するお友達と仲良くなってくれたことも。
文章を度々褒めてくれたことも。

相手の立場によって態度を変えることなく、いいものはいいときちんと伝えてくれる人は、実はこの世の中そんなにいないのではないかなと思います。

そのお友達は、豊洲の楽器屋でバイトをしているとき、自分のリリイベを抜け出して遊びに来てくれました。
こっそり平和台を引いてくれたときの、ニヤッとしてるいたずらっぽい笑顔が印象的だった。

少しして、こっそりサイン会に行きました。
連絡さえ取りあえば、きっとすぐに会えるのに。
おたがいににやにやしていた気がします。

この間、何度か、焼き肉や居酒屋に別のお友達と遊びに行った気がします。
小食な彼女は、いつも「たくさん食べます」と言っては、根をあげていたな。

仕事でも、ちょくちょく会いました。
去年は、謎に結構会う機会が増えて、はじめてのサシ飲みをした。
下北沢にむかって、ふたりで走り出すとき、異世界感があって楽しかった。

今年は会う機会はなかったけれど、それでもお互いのお誕生日に物を贈りあったりした。
たまにSNSでもいいね、がきた。

話は飛び飛びになるけれど、彼女は私が理不尽な目にあったとき、
「代わりに戦いますよ」
と、拳を握りしめる、優しい子でもありました。

きっと、彼女も同じようなことがあったに違いないのに、私はなぜその一言がでなかったのだろう。
多分、自分に自信がなかったからなのかな。
ひととの距離感を適切に取りながらも、すっと入ってくることのできるあの子は本当にすごかった。

彼女のキネマ倶楽部のワンマンに招待されたことがあります。
「綾香さんに聞いてほしい曲ができました」

最後にうたった曲は、birthday songという曲でした。
あの時は、ピンとこなかったけれど、
「私は生きるってこういうことだと思うよ」
というメッセージだったのかな、と考えています。

彼女がいなくなって、たくさんの人たちの言葉を見ました。
それぞれの行動を見ました。
後ろ指をさす人もいるけれど、多分、彼女はそういったことに対して興味がないだろうなと思います。
すべて正しいことなので、それぞれ、好きなように手を合わせればいいのではないでしょうか。
後悔がないように。

去年、豪徳寺のバーで、彼女に教えてもらいました。
「人に嫌われることがそんなに怖いですか?」
少しだけ、イライラしたような彼女に
「怖いよ」
と答えると、にやっとしながら
「当たって砕けろ、ですよ」
という言葉を、知らないカクテル越しにくれました。

全ての人が、後悔をしないようになさっているのであれば、多分、大丈夫です。
評価はあくまでも他者ですが、他者の視線ありきの自分自身より、日々変わっていく自分自身を優先していいのではないでしょうか。

さて、私が彼女で一番好きなところは、誰のものも自分のものとしないところでした。

私の言葉や考えを話しても、それを丸っとパクられることはなかったし、上手に咀嚼して彼女の作品の一部にしてくれるから、安心して話ができました。

当たり前だと言われるかもしれないけれど、世の中、仕事で簡単に考えを盗む人は当たり前にいるし、日常生活の中ですら、自分の言葉や考えを、数分後に自分のものとして話してくる人なんてざらにいます。
私はそういう人たちに対して、不信感を抱いて心が限界に達してしまうので、盗まない人、という存在がいてくれたことは、とてもありがたかったです。

そんな甘えてばかりいた年下のお友達は、「いなくなった」と書いたように、先日亡くなりました。

彼女の死を伝えるポストのインプレッションに億が付いたとき、私は随分すごい人と遊んでもらっていたんだなあと思いました。

恐縮極まりないことを言うと、私たちは少しだけ重なる部分があったから、苦しいなって思いました。

それでも、彼女はいないから、自分で考えるしかできない。
あくまで、彼女と私は別人だから、私は私の方法を生命力を底上げして考えなければならない。
そうして、今日、彼女が好きだといった文章という形を試しています。

死者ビジネスと言われますが、発信には願いとか祈りとかが込められているはずです。
それを後ろ指指すのも自由ですが、あなた方が、そんなことで心をすり減らす必要もない。
私の文章もそういう目で見られるのでしょうか。
数日経ったから、もう誰も意識をしていないでしょうか。
発信はエゴです。ただ、当たって砕けろ、だとも思うのです。

意図や意味は、それぞれが多重に多様に受け止めてくださいね。

散文ではありましたが、私のお友達はとても素敵な方だったので伝えたかった。
酸欠少女 さユり、という子です。

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