ソクラテス「不知の自覚」の問題点 ~ プラトン「ソクラテスの弁明」分析
ソクラテス「不知の自覚」の問題点 ~プラトン「ソクラテスの弁明」分析http://miya.aki.gs/miya/miya_report48.pdf
できました! 過去の2つの記事
100か0思考に基づく自己否定からの洗脳プロセス|カピ哲!
知っていなければ主張もできないし議論もできない|カピ哲!
に「『クリトン』解題」への私の見解を加えたものです。
本記事では、第3章を掲載します。
(はじめに)
本稿は、プラトン著『ソクラテスの弁明・クリトン』(三嶋輝夫・田中享英訳、1998年)における、プラトン「ソクラテスの弁明」(9~102ページ)および田中享英著「『クリトン』解題」(174~199ページ)の分析をとおして、ソクラテスの議論の進め方の問題点を指摘するものである。
なお、以下の拙著
「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証 ( http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf )
・・・ではソクラテスの議論における問題点、“個々の美しいものではなく「美しいものそれ自体とは何か」”を探ろうとする倒錯について、
価値・理念について議論するとはどういうことなのか ~「なんのための」社会学か? の批判的検証を中心に ( http://miya.aki.gs/miya/shakaigaku1.pdf )
・・・では、理念について論理的に考えると言うことは実質的にどういうことなのか説明しているので、参考にしていただければ幸いである。
<目次>
()内はページ
1.100か0思考に基づく自己否定からの洗脳プロセス (2)
2.知っていなければ主張もできないし議論もできない (4)
3.最終的に行きつくところは神託か:田中享英著「『クリトン』解題」分析 (6)
3.1. 「よく生きる」という言語表現の拡大解釈による見せかけの普遍化
3.2. 最終的には神託に行きつく?
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3.最終的に行きつくところは神託か:田中享英著「『クリトン』解題」分析
最後に、田中享英著「『クリトン』解題」(174~199ページ)について私なりの見解を述べておく。
3.1. 「よく生きる」という言語表現の拡大解釈による見せかけの普遍化
・・・これも様々な反例を挙げることができるような見解である。” のみ”と言い切る根拠は何なのであろうか?
・・・これでは「よく生きる」という言葉が”なんでもあり”状態になってしまっていないか? 不正に生きていること=よく生きること、と考える人が実際いるのだろうか? 「普遍的」(田中、183ページ)というより、言葉の意味の拡大解釈なのではなかろうか。
つまり
・・・という説明と齟齬をきたしてしまっている。「ソクラテスは、これに同意する人間はむしろ少数であることをよく知って」(田中、185ページ)いるとかいう問題ではなく、単なる言語表現の間の矛盾でしかない。
いずれにせよ、ソクラテスは話を極端に単純化しすぎているのである。「正義しく生きる」と「幸福に生きる」という二つの事柄が、二つの要素だけで単純につながっているわけではない。様々な場面があり、様々な要因があり、様々な人たちがいる。これを、言葉の拡大解釈によって(見せかけの)普遍化をしたところで、単なる言葉の遊びにしかならないのである。
3.2. 最終的には神託に行きつく?
・・・いったい“本物の国家”とは何なのであろうか? 日本政府は偽の国家なのであろうか? ここでも田中氏の恣意的な解釈が入り込んでいる。おそらくであるが、田中氏が「登山隊とか極地探検隊とかいったグループ」(田中、190ページ)といった事例を挙げているところから見ると、国民と国家とが近い、国民が政府へ直接関与する可能性の高いような小さな国家(あるいはグループ)というものを考えているのだと推測できる。
つまり一人一人が政府の運営に対しより強い責任感やら義務感やらを感じざるをえないような状況なのだろう。そういうシチュエーションの方が問題をより明確に捉えやすくなる。一方、国が大きくなると一人一人の責任感が薄れたりする、そういった説明は可能だ。ただ、それにしても田中氏の「本物」という表現は誤解を招くし、国家が大きくなったからといって責任感や義務感の問題が消滅するわけでもない。
その上で、
・・・結局のところ、ソクラテスがそう判断した、という事実のみが明らかなのであって、ここから何ら”普遍的”な結論はもたらされない。
・・・では、従うか従わないかの基準は何なのか。「正義しい」「よい」という言葉は様々に解釈できる。言葉の拡大解釈により(見せかけの)普遍化を行ったところで、普遍的行動基準など明らかにはならないのだ。
・・・結局は、神託(現代で言えば、ただ降りて来る・現れて来る言葉や行為、情念)次第なのではなかろうか。「論理的に考えてみていちばんよいと思われる言論にのみ従う」(プラトン「クリトン」、131ページ)というのは、結局後付けの理屈付けにすぎない。
・・・理屈云々ではなく、言葉が浮かんでしまった、そういうふうに行動してしまった、話さざるをえなかった、あるいは話すのをやめてしまった、そういったいやおうなしに現れた具体的経験に行きつくのである。
ソクラテスが繰り出す論理(多くは詭弁的論理)とは、それらの行為やら情念を後付けで理屈付けした事後的解釈なのである。私たちの行為をすべて「論理的に考えてみていちばんよいと思われる言論にのみ従う」形で説明できるわけがない。それらを無理やり論理的に説明しようとしても、前章で示したような不整合が現れてしまう。不知の自覚においても、政治的姿勢においても、論理的矛盾や齟齬がどうしても現れてしまうのだ。
法の決定に従うか従わないか・・・選択の場面において何を規準に判断したのか、仮に明確な基準を持って選択したとその時は思っていたとしても、その原因は考えれば考えるほど疑う余地が出て来る。選択した事実は明確だけれども、原因というものには究極的に謎の部分が残ってしまうのである。その時できることは、後付けの正当化しかない(それが”完全に”間違っているとも言えないのであるが)。
死期が迫ったソクラテスの“幸福”の理由も、「正義の証し」(田中、197ページ)だけで説明できるのか(「幸福」と決めつけて良いのかという問題も)。彼の生得的な性質やら、死後の世界についての興味やら、その他さまざまな要因も考えられうるのだ。