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論理学とはいったい何なのか

 前原昭二著『記号論理入門』(日本評論社、新装版、2005年)、実はかなり良心的な入門書なのでは・・・と思い始めているところ。

 野矢氏、戸田山氏らの入門書では、まず具体的事例や具体的命題をあげながら、∨、∧、→などの論理記号、それに伴う真理値について説明がなされる。そうすると一見わかりやすそうに感じるのだが、実は論理学(とくに命題論理)という学問を誤解させる原因にもなりかねない。

 命題論理はあくまで”人工言語”であることがわかりにくくなっているのだ。

 具体的事例、つまり日常的事実における真偽判断と関連づけて考えれば初心者がとっつきやすいように思われるかもしれないが、実は論理学に対する根本的な誤解を植え付けているのではないか(特に野矢茂樹氏の『入門!論理学』中公新書、のような入門書)。

 論理学とは、命題論理における論理記号のあり方と真理値の”初期設定”からいかに様々な命題論理が形成されどのような法則や定理が導かれるのか、その世界の広がりについて検証していくものではないのだろうか(そしてそれが何かの役に立つのかどうかはまた別の話である)。

 もちろん前原氏の見解に問題がないわけではない。

 命題の真偽がわれわれとは独立に定まっているのに反し、演繹法というのは,まったく人工的なものであります.命題の真偽は,いわば神の定めたものでありますが,演繹法は人間の作ったものであります.

前畑『記号論理入門』、83ページ

・・・しかし命題の真偽というものも”まったく人工的なもの”なのである。

((A∨B)∧(A→C)∧(B→C))→Cも
(A∧(A→B))→Bも
((A→B)∧(B→C))→(A→C)も
A、B、CあるいはA→BやB→CやA→Cがそれぞれ真(正しい)ときにのみ成立するものであって、もともと論理学的トートロジーというものとはかかわりのない論理規則なのである。

それをわざわざA、B、Cが偽の場合も含めて「正しい」とする論理体系を作るわけである。これは私たちの日常的真偽判断(日常言語的真偽判断)とは全く異なる人為的な体系だと言える。
 前原氏は、

真理値というのは,いわば,命題につけられた<目じるし>

ここでは,それを割り切って,真偽というものを単に命題につけられた目じるしとしてのみ考えることにします.

(前原、前掲書、61ページ)

・・・とした上で、「真偽の概念がどのように演繹法と関連して現れてくるかということにだけ着目する」(前原、前掲書、61~62ページ)と述べられている。

 私は以前、演繹論理から真理値を逆算するのは循環論理だと批判したことがあるのだが、命題論理における真理値を人工論理の”初期設定”と捉えれば循環論理ではなくなる。

 つまり命題論理における真理値は、私たちの日常的な正しさの判断、さらには科学的事実認識における正しさの判断における真偽とは全く別物と考えた方が良いのである。電流学(電流が流れるか流れないか学)によりそのことをより明確にビュジュアル的に理解することができるのではと思う。




(※7/23追加)
 「命題の真偽は,いわば神の定めたもの」という前原氏の見解は、単純命題の真偽、具体的に言語で表現された単純命題の真偽、たとえば「犬は動物である」とかいったものは人間が恣意的に真偽を定めることができない、与えられたものである・・・という意味合いなのだと思います。そういう意味で”人工物”ではないという見解はしごく当然のものでしょう。
 ただ、ここでも説明しましたが、一つの命題も、その命題を支える論理空間を変更してしまえば真にでも偽にでもなってしまうのです。そしてその論理空間を選び取るのは人間です。「犬は動物である」は現実世界では真ですが、犬が”人種”の一つとして考えられるような虚構の世界を想定すれば(現実世界とは異なる論理空間)その命題は偽となります。



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