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論理式を否定できるときとできないときがある

AならばB(A→B)の論理学的真理値設定が現実世界により根拠づけられるのは、あくまで前件が真の場合のみである|カピ哲!|note

両立的選言か排反的選言か|カピ哲!|note

の続きです。

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 次に、論理式の否定について考えてみたい。

・・・上記の事例において、¬(A→B)、「A→Bではない」とはいったいどういう具体的状況を示すものなのであろうか? 「2等辺三角形である→2つの低角が等しい」を否定するということは、この世のあり方を否定するということである。真偽として問えば偽になるということであるが、この事例においいて 否定は矛盾・ナンセンスとなる。(※ この部分についてはコメントでの指摘もあり訂正しました)
 論理学の意味論においては、¬は命題や論理式の真理値表における真・偽(あるいは1や0という記号)をひっくり返すだけである。しかしそれが可能になるためには、上記のような事例は除く・・・などの様々な条件が背後にある。真偽を¬記号によってひっくり返すためには条件がある、その条件を無視して“形式的に”真偽を操作することなどできないのだ。(※ このあたりの表現も説明が足らない気がしますので、後日改めてまとめようと思います)

 では、決まり・ルールによって変更可能なものの真偽についてはどうだろうか。たとえば明日遠足の日で、「明日雨が降らなければ遠足に行く」ということが決定事項となっていたとする。そういう前提のもとで「明日雨が降らなくても遠足に行かない」という言及は(今日時点における)事実に反していると言えよう。真理値表は以下のようになると思われる(論理学的真理値設定どおりにならないことに注意)。

・・・これならば、ルール変更により真偽の転換が可能となる。「雨が降らなければ遠足に行く」を変更して、「雨が降ったら遠足に行く」「雨が降らなかったら遠足に行かない」とする場合である。

ここで(A∧¬B)≡(A→¬B)となる。しかしこれはあくまで事実関係に基づくものであって、論理学的真理値設定に基づくものではないことに注意(とくに上から三行目)。
 (A∧¬B)≡¬(A→B)の両辺に¬をつけ(¬A▽B)≡(A→B)と導くとしても、単なる真偽の反転ではなく、そこに前提となるルールの変更があるのだ。そして、これも前件が偽ならばA→Bが真となる論理学的真理値設定の根拠とはならない。

 ・・・(A→B)を否定し¬(A→B)にしたり、¬(A→B)の否定を外し(A→B)としたりするとは、いかなることかご理解いただけたであろうか。単に真偽(あるいは1や0、⋎や⋏といった記号)をひっくり返すだけの作業ではないのだ。真偽関係が導かれる特定のルールを変更する作業なのである。そしてそれが不可能なケースもある。

 野矢氏は、「日常表現と真理関数とのズレ」(野矢、25ページ)を認められてはいる。しかし、それは私たちの日常生活における事実認識のあり方とかけ離れていても良いということではない。私たちの日常生活において、どういった状況を抽出して論理として示すのか、そこなのである。
 論理学で採用される論理語が指し示す具体的事態・事実が私たちの日常的感覚と異なっていたとしても、それはやはり何らかの具体的事態・事実を指し示しうるものである必要があるのだ。なぜならばそうでなければ真偽判断が不可能になってしまうからだ。
 論理語が日常表現とズレているとはそういうことであって、具体的事実認識を捻じ曲げても、あるいは無視しても良いという話にはならないのである。論理学・分析哲学においてここが混同されているところなのである。
「両立的選言」「排反的選言」のどちらを選んでも良い。どちらもある特定の事実関係を示すものだからだ。しかしどちらを選ぶかでそれにより形成される論理(空間)というものも異なってくる。
 しかし、具体的事実関係、日常生活における事実認識と全く関わりを持たない真理値設定をトートロジーと言い得るのであろうか? 本来真か偽か判断のつかないものを、恣意的・人為的に真と“設定”することはトートロジーと言えるのであろうか?

<引用・参考文献>
野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会、1994 年)
瀬山士郎著『数学にとって証明とはなにか』(講談社、2019年)

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