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油粘土がくさかった話

幼稚園、小学校に通っていた頃、お道具箱のそばにはいつも油粘土があった。

雨が降る今のような季節、教室で暴れてケガをすることのないように、先生は本を読みましょう、粘土遊びをしましょうなどと口にしていたことを思い出す。

粘土を丸めてお団子を作る友達。
猫を作る友達。
図書室に行って本を読む友達。

私は何をして過ごしていたのだろう?
何となく、みんなが何をしているのか眺めていたような気がする。
誘われれば、誘われるままに図書室に行ったり、粘土を出していた気がする。
自分の意思はないのか?
そう。ないの。相手に合わせている方が楽なの。

でも、どうしても油粘土だけは好きになれなかった。自分が友達に合わせて遊んでいたとしても。
なぜならくさいから。くさすぎる。
どうしても我慢できない。だけど、友達に言われたらしょうがなく出す。何かを形作る。何を作っていたか全く覚えていないけど。
だけどくさい、と言えなかった。友達は喜んで遊んでいたから。そんなこと言えなかった。

もちろん休み時間終わりの頃には喜んで片付けて、さっさと手を洗うのが常だったけど。

油粘土が嫌いな私は、嫌いな物を触っていて上手に形作れるわけもなく、まんまるのお団子さえ下手くそだった。まんまるにならない。どこかひび割れてきたりして。何が悪いのかその時は分からなかったけど、きっと悪いのは私の気持ちだね。嫌な気持ちがこんな形になってたんだね。
おかしい。

そんな記憶を思い出したのは、凪良ゆうさんの『流浪の月』を読んだから。

この1週間、私の心の中は『流浪の月』によって心を抉られ、支配されていた。この話しはまた別に書けたらな、と思うのだけど、何度も何度も読み返して、主人公の更紗がまだ両親と過ごしていた頃の話に油粘土があった。

―わたしもいつか、やばいひとになるのかな?
リビングのローテーブルで粘土をこねながら考えるけど、集中できない。油粘土が臭すぎるのだ。しかめっ面でああでもない、こうでもないとネコの顔を作っていると、臭い、とお母さんが言った。お母さんはキッチンカウンターの向こうで鼻をつまんでいる。

凪良ゆう『流浪の月』より

親近感を覚えて、嫌いだった油粘土を思い出した。

粘土遊びはとてもいいということは知っているけど、でもこのにおいのせいで嫌いだった私。

みんなどうして平気で触っているんだろう?
私ほどくさく感じていないのかなぁ、なんて思っていたな。

でも、こんなところに味方がいた。
更紗が。更紗のお母さんが。

どうでもいい話しすぎて、きっと誰にも嫌いなこと話したことないと思う。

おかしいよね。ほんと、どうでもいいよね。
でも、本当に嫌いだったんだぁ。あれだけは。

ふふふっ。






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