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6/1 幸せに生きたいんじゃない、楽に生きたいんだ。

感情日記 6月1日。

これから自分はどうやって生きていくんだろうって思ってた。
色んな事に絶望して、もう全てがどうでもよくなって、ただ死にたくはなくて。

自分の容姿も性格も技術も、好きだなって思えることは何一つないのに
生きてたいって思う自分がいて。



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今日、ようやく病院に行ってきた。
何とかしてくれるんだろうと思った。
薬は使いたくないけど、安全基地になってくれる人を探すのにいい手掛かりにはなるだろうと思った。

先生は意外とサバサバしていた。同情したり、話をめちゃくちゃ親身に聞いてくれるわけでもなく、淡々としていた。私はどんな症状なのかとか、自分のことを話そうとするだけで勝手に涙が出てきて、その涙を抑えることに必死だった。それでも先生はあっさりとしていたので、その時に悟った。

「あ、ここが自分の安全基地になることはないんだ」と。
一瞬絶望というか、また心が閉じた感じがしたけれど

でも、先生の意図はくみ取った。


ここが安心安全の場所になるわけではなく、
自分自身で安心安全の場所を作れるように
手助けしようとしていたんだと。



ずっとその病院を
安心安全の場所にできるわけじゃないと。

何処に行っても自分で
安心安全の場所を作れるようになることが

本当の回復なのかもしれない。


そこで先生に言われたのは
そのために、まずは自分の身体を作ること。

食べて、動いて、寝る。


もう誰もが耳にタコができるくらいに聞いた話だ。


でも、今の私は、久々に素直にそれを聞けた気がした。
ある意味自分でこの数年色々やってみて上手く行かなかった。

食べたいものを食べることこそが健康で、それがジャンキーだろうと健康食だろうと関係ない。眠たくなったら寝ればいいし、動きたくなったら動けばいいと。

これが今までの私の考え方だった。

でもそれをこの2,3年続けてきて、あまりうまくできなかった。
だから何より先生の話で納得した自分がいたし
こっちの方法も試してみようと思った。

そしたらもう帰りには、
健康的な食堂で野菜ばかり食べている自分がいた。

スーパーでフルーツや発酵食品を買ってる自分がいた。

朝起きるリズムをつけようとする自分がいた。




やっぱ私

自分が楽に生きられるくらいに

生きたいんだな。




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それともう1つ、今日はできごとがあった。

半年ぶりくらいに、ある友人(以後S)と電話をした。

前のどっかの記事にも書いていた二人のうちの一人。
夢に向かって頑張ってて、着々とこなしている。(ように見える)

私は電話は最初めちゃくちゃ緊張するクセに話し始めたら2,3時間は軽く超えてしまうから、自分でもよくわからないけど

Sとも余裕で話した。というか、ちゃんとした電話は初めてだったし、色々掘り下げて話したのも何気に初めてだった気がする。
初めて出会ったとき、絶対に私とは合わないタイプだなって思った。私から見れば ザ・陽キャでしかなくて、色んな人を相手にしてはスパパパパっと相手のコンフォートゾーンにすんなりと入っていく。そんなイメージだった。

でも、実際今日色々話してみたら、意外と同じ側の人間だった。人に嫌われることが怖くて、場の空気の読み取りとか、自分に絶望するとことか、結構似てる部分がいっぱいあった。ただ彼女は、絶望しまくった自分から開き直っただけの人間だった。

「全てがどうでもいい」と思えた時
ある意味それは新境地に立っているのかもしれない。
何をも期待せず、好かれるとか嫌われるとか、売れるとか売れないとかも期待しない。


Sに、この1週間当たりのことをそれとなく話してみた。自分は既に厚い皮を被っているし、多分これが開くことはこの先相当大きなことがある限りはないだろう。ただ、今の現状は知っといてもらってもいいと思った。そしたら、自分でも言語化できなかったところと、予想外の答えが返ってきた。


「お母さんには理論で話してほしいんじゃなくて、こんなダメダメな自分でも受け入れてほしいって言う感情で話してほしかったんだよね」

「別にこれを言ったからって心を開け!っていうわけじゃないけどさ、うちはその唯和のネガティブなところとか、そういう所も全部ひっくるめて好きだって言える自信あるよ」

と。


なんだこいつは…と思った。平気でそんなことをさらっというから、こっちが「いやいやいや…」と思ってしまった。


今はまあ心を開く時間は長いことかかるにしろ、私が本当に彼女に対して心を開けるかどうかは別にしろ、その言葉をもらえたのは予想外だった。

やっぱり1回絶望の淵に立って高いマンションから飛び降りた風(気持ちだけね)の人は、強いというか、
あっけないしカラカラしてるんだなって思った。




「どうせ死ぬんじゃん」


この言葉を本当に受け入れられたら、
どれだけ楽になるだろうか。

本当の意味で理解して、死ぬことさえも受け入れられたら
多分この世で怖いものなんて本当にないんだと思う。


Sも「うちも色々悩んだりするけど、『1回意識的に死んでるし、どうせ死ぬし、何悩んでんだよ自分!』って思うんだよね」って言ってた。

強いわあ。



まだ友達に嫌われたくないとか、学校の成績が下がるとか、大学受験に失敗したらどうしようとか、そういうことで悩んだりしてる時点で、

うちらはまだ「死」に対して向き合ったことが無いんだと思う。私も含めて。


友達に嫌われるのが怖かったり、失敗したくなかったり、恥をかきたくなかったり、悪口言われたくなかったり

そうやって守りに入って悩んでる時点で、
きちんと「死」について向き合った事なんてないんだと思う。

別にだからと言って
「死に向き合え」って提唱するつもりはさらさらないけれど




こう書いてみてやっぱり私は、

死ぬのが怖いんだなあと思った。

生きたいんだなあと思った。



でも幸せになりたいとかはない。
夢を叶えたいとか、希望を持ちたいとか


なんかもうその言葉を使うだけで

吐き気がしそうになる。飽き飽きした。



絶望の隅っこで一人暮らして、
それとなくなんとなく生きてるくらいの方が
今の自分には丁度いいやって思った。



幸せに生きたいんじゃない。楽に生きたいんだ。





それを彼女に伝えたら、「いーじゃんいーじゃん」と言っていた。



…やっぱり「死」に向き合った人は強いと思った。



今日の彼女との電話は、色んな意味で凄く良かった。ありがたかったし、気持ちがよくわからないけど少し変わった。

良い方向になのか悪い方向になのか、それともそれでもない方向になのかもわからないけど、確かに変わった。それだけはわかった。




そんな、ちょっとよくわからずとも確かに変化があった日でした。




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