「いまはもう、人生を語ろう」#05 中学校の吹奏楽部でデキシーランドストラットというマーチとドラムにシビれたのだった
中学では放課後は吹奏楽部を一生懸命やっていたわけだが、ギターには東海楽器の福島さんという優れたブルーグラスのギタリストである師匠が見つかっていたのでスイスイできるようになったが、トランペットでは結構苦労した。
考えてみれば中学の吹奏楽部って、中学生の先輩が入りたての中学生を教えているわけだから、金管楽器で一番大切なアンブシュアがきちんとしたものになるはずがない。しかもアンブシュアができるまえに曲をどんどんふいてしまうので、ラクに高音が出しやすい、ベルが下向きになって音が暗い感じのものになってしまった。(これがのちのちに苦労のもとになる)
とはいえギターは一人か、せいぜい二、三人で弾くぐらいだったが、吹奏楽の合奏は30人とか40人で楽しかったし、顧問の女性の先生(コロボックルと呼ばれていた小柄な先生だった)も楽しく指導してくれた。
吹奏楽に入った瞬間に合奏していたのがデキシーランド・ストラットというジャズ調のマーチだったのも決定的だった。これがもっとオーケストラチックな曲だったらこんなに吹奏楽が好きにならなかったのかもしれない。
ちなみにジャズの教養を当時から持っていたわけではないが、僕が小学四年の時になくなった父が関係しているので、少し書いておく。
父は野球が好きで、バイクに乗っていて、ジャズが好きだった。煙草も刷ってウィスキーも飲んでいたが、そこは遺伝しなかった。それ以外の野球、バイク、ジャズは僕も今は好きだ。(タバコも前は吸っていたが)
家には小さな古風のオーディオがあってときおり音楽を聴いていたのは知っていたし、なんかぐっとくるなとは思っていた。後年父のレコードコレクションを見ると、10枚程度だったように記憶しているが、南里文夫(日本ジャズ初期のジャズトランペッター)、キッドオーリー楽団などのレコードがあったので、ジャズ好きだったのだろうと思う。
そんな原体験があったからか、吹奏楽部のデキシーランド・ストラットというジャズ調のマーチにはぐっときてしまった。そして吹奏楽の他の曲だったとは思うが、ドラムセットでてきてそれを叩いていた松下先輩がかっこよかたし、ドラムという楽器のかっこよさにも仰天したりしつつ、トランペットはあまり上手くはならず、というのが中学の吹奏楽の記憶だ。
使っていたヤマハのコルネットがボロくて上手くならなかったのかも、という気持ちも少しあるが、それはまあ、しかたのないことだ。
中学の吹奏楽の友人では浜松在住の杉島くんが、いまも浜松でトランペットをバリバリ吹いているのが、素晴らしいと想う。いまもよい仲間だ。
というわけで中学時代はどちらかというとアコースティックギターをメインで、まぁ、あほかというぐらい、毎日ギターを弾いていた。学校にも毎日ギターを持って行ったように思うし、放課後に教室で弾いて歌いまくっていた、と、これはまた別のお話としよう。
さて、ちなみにこちらが、私のアコースティックギターの最終到達点であった、マーティンのD-35。いいギターです。最近全然弾く機会がなくなってしまって、倉庫に入っていたのでもったいないと思い、友人の中古ギターショップに委託販売品としておいてもらっている。売れたら嬉しいが、売れなかったら一緒に燃やしてもらうか。いや、もったいないので、誰かに弾いてもらいたい。響がギターを弾ければ喜んで譲るんだが。
ギターショップ浜松ビレッジにある俺のマーティン D-35
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