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蓄音機の音に感動する
ずっと前に体験したことですが、レコードの元祖、蓄音機の音を聴いて感動したことを書いておきます。
以前書いたイケヤブログからの転載
blog.goo.ne.jp/hoboike_diary/e/e875dfa46530c2aa8f48f4617a716565
音楽・音響に関連している仕事から、最高級と言われるようなオーディオの音も日常的に耳にしているにもかかわらず、自分自身はHi-Fiと言われるオーディオには興味がなく、使っているスピーカーもアンプ内蔵型のデスクトップ用のものだったりする(ただし音はすごくいい)。
そんな私が、とある事情で明治時代に作られた蓄音機の音を聴いた。
川崎で行われた「レコードの日」というイベントだ。
もちろん期待はしていなかった。テレビや映画でよくみるあの機械から、いわゆるあの手の蓄音機の音が出てくるんだろうと思っていた。
電蓄ではなく、蓄音機はすべてバネ仕掛けであり、再生するためにはゼンマイのネジを回すのだった。そしてSP盤に針を落とす。きこえてくるのは、もちろんいわゆる蓄音機の音だ。
しかし、不覚にも落涙するぐらいに私は感動してしまったのだった。どうしてなのだろうか。たぶん、それはその音があまりにダイレクトだったから。
明治時代に一本のマイクで録音された音声が、セラックを素材とするSP盤で、複製はされこそすれ、ほとんど、そのまま。なんの加工もせず、セラックのSP盤の溝に刻まれた。それを平成17年に今、SP盤に針を落としゼンマイでSPを回すことで、再生させる。その全ての所為の中に、この音の本質はある。そして弾いた人、歌った人の音と気持ちは、一度も電気に変換されることなく、溝に閉じ込められた。それがまるで目の前でまざまざと浮き上がる。その音楽の魂の鮮明さ、時空を超えた近さに私は落涙してしまったのだった。
オーディオというと周波数特性、高音が上まで出る、重低音がでる、歪みが少ない、ハイレゾなどと喧しいが、再生能力のスペックうんぬんよりも大事なのは、音楽の実在性、演奏家のリアルがどこまで感じられるか、それが聴き手の魂とどこまで交歓できるのか、にあるように思う。
明治時代の演奏家や歌手の音と魂が、一度も電気に変換されることなく溝に刻まれ、その溝から電気を介することなく直接音になり、蓄音機のラッパから再生される(あのラッパは完全に楽器だ)。現代のオーディオからみれば、ひどく音の悪い電話機のような音響特性だが、この電気もミキサーもエフェクターも通さないプロセスでスポイルされるものは最小となったのかもしれない。
ちなみに電気を使わないゼンマイ仕掛けのこの蓄音機だが、驚くことに音はかなり大きい。商店街のノイズがはいる40人ぐらいのキャパの通り沿いの部屋で充分にきこえる音量。普通の家のリビングでは大きすぎるぐらいの音量だ。しかも電気ではないので音量調整はできない。そのくらい蓄音機はカッコイイのだよ。
お金と暇があったらSPや蓄音機を収集したいけど、音楽をやっているうちはまぁ無理かなとも思うのだった。