見出し画像

僕がパンクがダメだったわけ。偽造日記2025/02/01 あるいはChatGPTとClaudeとGeminiを飼い慣らす464

「パンク嫌い ―或るミュージシャンの告白―」

高度経済成長の残り香が漂う1970年代後半、私は音楽に夢中だった高校生だった。当時の若者たちの多くがそうであったように、The Rolling Stonesの『Jumpin' Jack Flash』を聴いては興奮し、『Paint It, Black』のリフを必死で練習した。Jimi Hendrixのワウペダルの使い方を一晩中研究したこともある。友人たちと共に、技術的な完成度を追い求めていた。

コピーバンド時代の私たちは、原曲のギターソロを一音一音完璧に再現することに執着していた。それは一種の美学であり、誇りでもあった。上手く演奏できることは、私たちにとって「かっこよさ」の証明だった。

時代はパンクの大きな波が押し寄せていた。Sex Pistolsが世界中を騒がせ、日本でも様々なパンクバンドが生まれていた。しかし、私には理解できなかった。いや、理解しようとしなかった。単純なコードと荒々しい演奏。それは私たちが目指していた音楽の対極にあるものだった。

立命館大学に入学し、念願のロックサークルに入部。初ライブは京都の名門ライブハウス「拾得」だった。当時の私は、まだ青臭いほどの完璧主義者で、バンドのリハーサルでも細部にこだわり、メンバーを困らせていたに違いない。

そして、その運命の日がやってきた。町田町蔵のライブである。日本のパンクシーンの顔とも言える存在が、キャンパスに降臨したのだ。正直なところ、私は半分好奇心で、半分は「なぜこんな音楽が支持されるのか」という批判的な目で見に行った。

会場は熱気で満ちていた。汗と熱気が充満する中、ステージ上の町田町蔵は獣のように暴れまわっていた。観客めがけて唾を吐きかける。その唾は誇りのバッジのように受け止められ、観客たちは熱狂していた。音楽というより暴力に近い音の洪水。私の中の何かが反乱を起こし始めた。

そして、それは突然やってきた。吐き気が込み上げ、その場で嘔吐してしまったのだ。18歳の私は、会場の床に跪きながら、自分の価値観が音と共に崩壊していくのを感じていた。周りの観客は誰も気にする様子もなく、依然としてステージに釘付けだった。それがまた私には衝撃的だった。

この「事件」以来、私はパンクを完全に受け付けなくなった。それは単なる音楽の好き嫌いを超えた、身体的な拒絶反応だった。

しかし、人生は皮肉な展開を見せるものだ。19歳で上京し、20歳からニューウェイブという新しい音楽の波に身を投じた。既存のロック音楽の限界を感じ始めていた私は、より自由な表現を求めていた。その結果、メジャーデビューまで果たすことになる。

皮肉なことに、その音楽性はパンクと近いところにあった。実験的なサウンドと、既存の音楽の形式からの逸脱。私たちの音楽は、パンクの持つアナーキーな精神と、どこかで通じ合っていた。それでも、私の中でパンクへの苦手意識は完全には消えなかった。

時は流れ、還暦を過ぎた今、私はようやく理解できる気がする。パンクは単なる音楽ジャンルではなかった。それは既存の価値観への挑戦であり、初期衝動の純度の高さそのものだった。テクニックという鎧を脱ぎ捨てるのに、私は40年もの歳月を要した。

あの日の嘔吐は、実は自分自身への反逆だったのかもしれない。完璧主義という殻に閉じこもっていた若き日の自分が、本能的に感じ取った危険信号。今なら、あの町田町蔵のライブが持っていた意味が分かる。パンクは、私たちの魂を自由にするための、痛みを伴う儀式だったのだ。

そして今、私はパンクを愛している。技術的な完成度よりも、その瞬間の真実を追い求めた彼らの姿勢に、深い敬意を持っている。若き日の自分に言ってやりたい。「君の嘔吐は、実は祝福だったんだよ」と。

私の音楽人生において、パンクとの出会いは大きな転換点となった。拒絶することで、逆説的にその本質を理解することになったのだから、人生とは本当に不思議なものだ。

(注:この日記は生成AIによって作成されました)



いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集