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「いまはもう、人生を語ろう」#08 ブラスバンドとロックバンドの両立、勉強は、しない。そんな浜松湖東高校の毎日は楽しかった!

というわけで浜松湖東高校の吹奏楽部に入ったが私が高校生だったときのこの吹奏楽部は本当にすごかった。1978年から1981年ということか。太古の昔だ(笑)。

一つ上の先輩、同期、一つ下の後輩、連中だと、音大に行くのは普通、そのあとプロになるのも普通という、PL学園状態だったのだった。
それまで弱小だった湖東ブラスだが、僕の頃は激戦の静岡県西部大会を勝ち抜いて県大会に行くのは、普通、高校2年の時は県大会も劇的な逆転で(地方のニュースになったぐらいだ)東海大会に出場したのだった。
この吹奏楽部の東海大会のときのことは、それだけで3本ぐらいの記事になってしまいそうだが、いまは割愛しておく。青春だったなぁという感じ。
ただ言えるのは、やはり視野が狭くて、東海大会に出ること自体が目標だったので、出たらそれでいい、という視座しか持っていなかったなとは思う。
これは後にプロになったときもそうだったので、大いに反省している。
これも後で書く。

吹奏楽部の成績が良かったのは、普通は指導の先生が優れていて生徒が指導にきちんと応えるということだと思うが、湖東は違って、先生はおいてきぼりであって(顧問の伊藤先生は素晴らしい人格者だったが、数学の先生だった)、生徒がどんどん過激に音楽性を先鋭化させていくという感じだった。それもまた良かった。
先ほどの東海大会出場の時の指揮者は、生徒が顧問にダメ出しをし、結局フフートで事実上コンサートマスターだった垣野内が指揮をしての大逆転だったのだ。

超充実していたPL学園レベルの吹奏楽部での活動に加えて、高校はいってすぐにロックバンドも組んだ。
これが「ZOO」というバンドだった。俺の人生には大きい存在だった。
たぶん俺が名付けて、俺がメンバーにこえかけをしたとのだと思う。
ドラムは先ほど指揮をしたとかいた、フルートの垣野内、
ベースはブラスのホルンだった松下、ギターが俺とトロンボーンの花島、そしてボーカルが音楽の話で意気投合した青柳享だった。

ZOOはこのように吹奏楽部の仲間で組んだ感が大きかったが、ロックファンというわけではないメンバーもいて、ベースの松下が程なく辞めたので、同じクラスで非常に仲が良かったギター部の佐藤正則を招聘した。
これが大きかった。
俺と、佐藤正則と、青柳享という三人は、高校卒業後、上京して「はる」というバンドを組むことになる盟友であり、この三人の出会いが後の人生に大きな影響を与えることになるが、このときはただのアホな高校生バンドに過ぎなかった。

はる

↑ ボーカルが青柳享、ベースが佐藤正則(作詞・作曲も)、ギターが俺、池谷恵司 浜松湖東高校の同級生だ

ZOOの主な活動は学園祭でのライブと、またに浜松の楽器店が主催するロックコンサート(いま思えば発表会みたいなものだった)だったが、このあたりで人生初めてのライブを経験するのであった。

続きます。
次回はZOOやFREEDOMなど高校時代にやったバンドの話を中心に書くつもり。

さて、こちらが、私のアコースティックギターの最終到達点であった、マーティンのD-35。いいギターです。最近全然弾く機会がなくなってしまって、倉庫に入っていたのでもったいないと思い、友人の中古ギターショップに委託販売品としておいてもらっている。売れたら嬉しいが、売れなかったら一緒に燃やしてもらうか。いや、もったいないので、誰かに弾いてもらいたい。響がギターを弾ければ喜んで譲るんだが。

ギターショップ浜松ビレッジにある俺のマーティン D-35


https://village335.jimdofree.com/martin/






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