つつがないワクチン接種と、安心の話。

昨日、ワクチン接種の1回目を新宿で打ってきた。東京都庁の南展望台。草間彌生デザインのピアノが置かれていたところが今は東京都の大規模接種会場になっている。住所は埼玉で、通学先は神奈川なのだけれど、一応都内にもキャンパスがある大学に通っているため、今回は打つ資格を得ることができた。

接種はつつがなく行われた。多くの人が接種会場を訪れ、そこそこ長い列もできていたが、特に目立ったトラブル等々は会場からは一切感じられなかった。もちろんそれは東京都のスタッフをはじめとする様々な人の尽力によるものだと思う。準備期間もたいして無い中で未体験の業務を行って、大勢の人をつつがなく誘導する。これって結構すごいよね。
「大規模接種会場」というと、医療的なかしこまったイメージだったけれど、実際行ってみるとディズニーランドのアトラクションに乗る感覚に近かった。並びながら5歩ずつくらい進んでいく列とか、展望台へ上がる2台しかないエレベーターを待つ感じとかもそうだけど、エレベーターのドアが閉まる寸前に「いってらっしゃいませ」とか頭下げて言われたら、都のスタッフとしてではなく、夢の国のキャストとして見てしまうでしょうに。

問診の時の医師の方も若くてかっこいい清潔感のある人だったし、接種をしてくれた方も気さくに話しかけてくれるフレンドリーな人だった。これは単純に運かもしれないが、ワクチンに不安感を持つ人も、実際の現場を見てそこで働く人とコミュニケーションを取る中で、多少なりとも不安感は軽減できると思う。
帰り際の新宿駅、西口側でも東口側でも反ワクチン派のスピーチが大音量で流れていた。彼らの言っていることは間違っていると思うし、別に耳を傾ける気もないけれど、そこに根付く「国」や「メディア」など、大きなものへの不信感は少し分かる。

この一年で「安心・安全」という言葉の信頼性はすっかりなくなった。そもそも、安心が来れば安全が来るわけでもなく、逆もまた然りなので、この二語を並列に並べること自体が間違っている。
ただ、安心の話だけをするならば、身近な人と一対一で対話をすることで、もしくは人の誠意に触れることで見出すことができると思う。ここで重要なのは、「大勢の市民のうちの一人の私」に話しかけているのではなく、「今、目の前にいるたった一人の私」に話しかけてくれている、働きかけてくれている、という意識を持てるかどうかだ。
多分「安心」と「安全」を保証する存在は、一緒ではない。

昨日の経験で少しばかり安心な心を持つことができたから、今日腕が上がらなくても、体温が少し上がろうとも、冷静でいられる。
今、自分の中にある「安心」はスピーチではなく、経験によって作られる気がした。

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