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簒奪者の守りびと 第五章 【3,4】

第五章は8シークエンス構成です。4日連続更新。
<3,100文字・目安時間:6分>

簒奪者の守りびと
第五章 対敵

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【3】

 トゥスの手下たちにとって、子どもが子どもを助けに来るのは想定外だった。よって敏捷に動き回る小さい影を認知するのが遅れた。
 その昔、医務室として使われていた小部屋にエマはいた。後ろ手に縛られ、腰縄を結び付けられているが、あぐらのように足を組み、寝具のないベッドに乗っている。対面の椅子にはアフロヘアーの女。ふたりは会話を交わしているようだが、内容は聞き取れない。
 ミハイは周囲を見回す。他に気配はしない。銃のグリップが汗で湿り、何度も握り直す必要があった。この位置からなら女の後頭部を容易に撃ち抜けるはずだ。絶好の機会であることを思えば思うほど、指が慄える。その振動が指先から手首へ、そして肘へ至ったとき、彼は銃を諦めた。
 足元に転がっていた木材を手に取る。すでに腐っているのは触れた瞬間にわかった。ミハイはそれを振りかぶり、女に駆け寄った。
「うやっ!」
 拍子抜けするほど情けない声だと、ミハイ自身が思った。殴打された女は、自慢のアフロヘアーを泥にまみれさせて悶絶しているが、気を失ってはいない。
「なんでこんなところに?」
 エマが目を丸くする。
「助けにキ……助けに来たんだ」
 声が裏返ったので言い直した。
「行こう」
「ちょっと待ってよ。縛られているんだから」
 腰縄をほどいたところで、アフロヘアーが動き出した。ミハイは後ろ手に縛られたままのエマを連れて部屋を飛び出す。女が放った銃弾はふたりの影にしか命中しなかったが、この銃声は仲間たちへの合図になった。
「どこへ向かうの?」
「地上だ。どこから行けば良い?」
「は? なんであたしに聞くの」
「ここに来たんだから往路を知っているだろう」
「拉致事件の被害者がどうして道を知っていると思えるの? そもそもあんたはどうやってここに来たのよ」
「私は落下してきた。そのルートは復路に使えない」
「……行き当たりばったりで進むしかないってことね」
 そうして、いくつめかの角を曲がったとき、赤毛の男に行き当たった。
「いけませんねぇ、エマ嬢。探したよ」
 咄嗟にミハイがエマの前に立つ。その顔面に、赤毛の男の拳がめり込んだ。ミハイは地面に転がる。
「ちょっと!」
「怒るなよ、エマ嬢。こいつはあんたの代わりに殴られたんだぜ」
「なんてこと……」
 後方からアフロヘアーの女が追いついた。ほぼ時を同じくして手下たちが集まってくる。赤毛の男が「エマを食堂へ連れて行け」と指示すると、前歯のない男と全身にタトゥーを刻んだ男が、エマを奥へ連れ去った。
 赤毛の男は泥まみれになったジョンブリアンを掴み、持ち上げる。
「おい。おまえ」
 喉をつぶすようにして壁に押し付ける。少年の足は宙に浮いていた。
「ジルコフ通りのことを覚えてねぇか」
 ミハイは答えられない。呼吸すら不可能だった。
「忘れててもいいが、俺は仕返しするからな。おまえのキンタマを潰してジビエ料理にする。そんでエマに食わせてやる」
 手下たちが一斉に笑う。
 ミハイの口元から唾液が溢れ、前頭部の怪我から血が流れ落ちる。赤毛の男の腕にも滴り、赤黒い紋様を描くが、男は気にする様子はない。血濡れた前腕がさらに膨らみ、少年の頸部がいっそう圧迫される。ミハイの意識がなくなる、まさにその直前だった。スプレー画のように血の紋様が上書きされたのだ。ゾフの放った銃弾が、赤毛の男の頸部を貫いていた。
 男の指から力がなくなり、少年のつま先が地面につく。ミハイの肺胞はひさしぶりに酸素を受け取った。代償を払うかのように、赤毛の男は泥土に沈んだ。
 一瞬の静寂をおいて銃撃戦が開始された。しゃがみこんだ少年の眼前で火線が行き交う。少年は息を吸うことに精一杯で、自分の銃が足元に転がっているのを眺めることしかできなかった。

【4】

 ラドゥは潮目が変わったことを肌で感じていた。遭遇するトゥスの手下たちの動揺が増しているのだ。オリアとふたり、互いの背中を守り合いながら着実に進んでゆく。
 死角からまたひとり現れた。赤茶けたヒゲの男だ。ラドゥはトリガーを絞ろうとして躊躇した。男は両手をだらりと下げ、まるで夢遊病のように歩いているのだ。よく見れば、腹が血で染まっている。
「どうやら警官隊が突入したようだな」
 ラドゥの言葉が終わるより早く、男の側頭部に追撃の一発が突き刺さった。幼児が戯れに崩した積木のように、男の肉体は重力の生贄になった。
 銃弾を放った者が死角から現れる。その姿を見て、ラドゥは思わず息を飲んだ。白いタンクトップにショートデニム。そしてココアブラウンの短髪。
「あれ。お客人?」
 ローザは銃を引っ込める。
「ごめんごめん。撃つところだった」
「いや、どうしてこんなところに?」
「あんたらが開けたんでしょ、穴。そこを通ってきた」
「まさか単身でか?」
「そんなわけないっしょ。お姉ちゃんも一緒。ほら」
 現れたウルスラの姿に、ラドゥは一瞬任務を忘れた。鮮やかなアイビーグリーンのワンピース。Aラインのスカートは足首まで丈がある。ノースリーブの肩に下げているのが短機関銃でなければ、ここが戦場であることを疑うところだった。
「……大統領は軍を動かさないと決定したのでは?」
 ラドゥの問いに、ウルスラは首をかしげる。
「これが軍服に見えますか?」
「いえ……とても」
「あくまでプライベートですので」
 ただ妹を救出しにきただけで軍務とは関係ない、とウルスラは主張する。
「午後から半休を申請し、認められています」
 ココアブラウンの瞳にためらいの色はない。
「とはいえ……ひとつだけ」
 ウルスラはラドゥの耳に唇を寄せると「ヒールだと危ないので、靴だけは軍用ブーツのままなんです。伯父にはどうかご内密に」とささやいた。
 背後でオリアが弾倉を交換する音がしたが、それはいつもより荒っぽく聞こえた。

 肺は、全身の細胞の要求に応えたはずだった。それでもミハイの身体は重く、動かない。ゾフと目が合う。銃撃戦の最中にもかかわらず、ゾフは彼に伏せていることを求めた。
 少年は死の扉に触れた。
 境界線を越えずに済んだのは、ゾフが駆けつけたからにすぎない。
 死ぬ覚悟はとうにできていた。銃を咥えることも、地上6階から身を投げることも、食事を絶って衰弱することも勇気を動員する必要はなかった。その先にはただ、母が待っているはずだからだ。
 だが今回は違っていた。酸素を失った身体が悲鳴をあげ、肺と心臓が最大出力でそれに応えようとしたとき、少年の心に暗緑色の液体が染み出した。それは心臓が拍をうつごとに噴出量を増し、精神を冠水させた。恐怖と呼ばれ、後悔と呼ばれるものがそれだった。
 溢れ出した液体は、死が遠ざかっても消えなかった。少年は戸惑いつつ、その奔流に身を委ねるしかなかった。
 ゾフが弾を撃ち尽くし、弾倉を交換をする。その隙をついてトゥスの手下たちが距離を詰めた。少年の眼前をいくつもの靴が横切る。放心している哀れな少年に誰も関心を払わない。ゾフがふたたび銃撃を始めると、手下たちはミハイに背を向けたまま応戦した。
 このまま座っていれば、ゾフが全てを片付けてくれるかもしれない。ラドゥたちが駆けつけるかもしれない。警官隊に救われるかもしれない。それを望むかどうか、少年は自分に問うた。答えはすぐに出た。
 ミハイは銃を拾い、立ち上がった。
「エマのところへ……」
 少年の呟きは、銃撃音にかき消されて誰の耳に届くこともなかった。ただ、彼は歩きだした。
 暗緑色の液体に沈むことを、少年は拒絶した。

つづく

ヘッダー画像は安良さんの作品です!Special Thanks!!


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