簒奪者の守りびと 第七章 【3,4】
簒奪者の守りびと
第七章 緋の雲海
【3】
日中は晴れ間も見えたというのに、ちらついている雪がまた存在感を増してきた。夜闇の手前で、雪片が窓枠を通過するときだけ光を返す。それが余計に印象を残すのかもしれない。
ラドゥはずっと押し黙っている。ミハイもまた、同じようにしていた。
王都に連れて行けばミハイは殺されるだろう。傭兵を雇ってまで執拗に追いかけてきた張本人が、いまや玉座の主となったのだから。ヴィクトル一世の命で組織された特殊警護班には、存在を支える法的根拠はもはやない。
どれくらいの時が流れただろうか。
「……鐘の音か」
ミハイがつぶやいた。
「ああ……ときどき聞こえてきますね」
「そうだったか。あまりに気にしたことがなかった」
「今夜は空気が澄んでいるので、よく聞こえるのかもしれませんね」
「そうかもしれないな」
ふたたび沈黙の帳がおりるのをおそれて、ラドゥは意を決した。
「ずっと考えていましたが、良い方法が見つかりません」
少年は聞いている。
「さしあたって、我々はミハイに逃げられたことにしようと思います。新王からの命令を受け取ったのは、その直後であったことに」
「だが、おまえたちには帰国が命じられている」
「そうです。我々だけが帰ります」
「さすがに誰も信じないだろう。つい昨日まで保護していた対象に、今日急に逃げられたというのは。おまえたちが逃したとしか考えられない」
「そこは、うまいこと誤魔化します」
ミハイは苦笑するしかなかった。駆け引きの類をラドゥが苦手としていることを知っていたからだ。
「うまくはいかないだろうな」
「では、スミルノフ大統領に人質に取られたことにしましょう」
「なぜ彼が人質を取るのだ」
「それはティラスポリスの完全独立を要求するためです」
「人質は殺されたくないから価値があるのだろう。クリスチアンは私を殺したいのだぞ」
ラドゥは頭をかきむしる。
「良い方法が思いつきません」
「私を連れて王都へ戻れ」
「それは……できません」
「もともとは死のうとしていたのだ。だから辻褄はあう」
「そんな辻褄はあわせなくていいでしょう」
「ずっと逃げてきた」
ミハイは自分の足元を見た。
「もう逃げ道が残っていなくても、不思議ではない」
「そんなことはありません」
「ただの地方領主が敵だったころとは事情が違うのだ。もはやひとつの国が私の死を望んでいる。私の存在は災厄を呼ぶだろう」
ジョンブリアンが表情を隠そうとしている。
「……まだ探しましょう。道を」
◇
昇ったばかりの冬の太陽が、ティラスポリスを照らしてゆく。弱々しい陽光はそれでも、出番の終わった脇役を舞台袖へ追い払うように、主役の魅力で世界を染めていった。
大統領府の中庭で、枯色になった芝生を四足の靴が踏んでいる。この朝、ラドゥは警護班に集合をかけていた。小さな鳥が二羽、彼らの頭上でしきりに弧を描いている。
「このメンツだけが揃うのって初めてじゃないですか」
リャンカが言うとおり、ここには警護すべき対象がいない。
「すでに班は解散した。みんなも理解しているとおりだ」
全員がラドゥに視線を注ぐ。
「だから俺は君たちに同意を求めない。君たちも俺に同調する必要はない。ただ決めたことがある。これは極めて個人的なことだ」
リャンカは首を振り、ゾフは直立を保った。オリアはわずかに眉根を寄せる。
「俺は王都へ戻らない」
それは王命に逆らうという宣言だった。
「お気持ちは痛いほどよくわかります」
オリアの口調は柔らかい。
「しかしそれでは、反逆行為ととらえられても仕方がありません」
「紛れもなく反逆行為だ。俺はそれをする。ミハイは渡さない」
「反逆者に対するもっとも重い刑罰は……」
「わかっている。捕まったら命がないのはミハイも同じだ」
ラドゥの視線に射抜き返され、オリアは沈黙した。
「……班長には悪いけど、あたしは帰りますよ」
リャンカの口調はいつもと変わらない。浅緋色の髪に朝日が射している。
「あたしは国に仕えている身ですから。国王が代わったのなら、新しい国王の命に従うだけです」
「臣民としても職業人としても、それが正しい」
力強く頷くラドゥから、リャンカは視線を外した。
「ゾフ、あんたはどうするの?」
「俺は……」
全身がこわばっている。いつものしなやかな筋肉が嘘のようだ。
「……俺も残れない……すみません」
「いいんだ。それでいい」
鳥たちの囀りが耳に触れる。しばらく芝を見つめていたオリアの視線が持ち上がった。
「私は、残ります」
「無理をしなくていい」
「そんなこと言わないでください。私は自分の意思でここに残ります。ミハイを連れていくことも置いていくこともしたくありません」
ラドゥは深く息を吸い込んでから、頷いた。
太陽が昨晩の雪を溶かすころには発たなければならない。別れを惜しむ時間は短かった。四人は交互に抱擁を交わし、互いの前途を祈りあった。
ふたりの反逆者は、王都に帰る者たちの背中を静かに見送った。
【4】
クリスチアン三世の戴冠式は、歴代の王がそうであったように、王宮内の特別な場所で執り行われた。その空間は、石壁に囲まれた完璧な円形をしており、ドーム型の天井まではおよそ30メートルを数える。装飾の類は見当たらないが、人の身長の倍ほどの高さに周歩廊が設けられている。地上と二階の二層構造を成していると言えるだろう。円の中心には土でできた台座がある。観察眼に優れた者であれば、それが盛り土ではなく、そこだけを残して他が掘り下げられたのだと気づくはずだ。腰ほどの高さのそれはやはり円形をしており、表面には石化した骨が露出していた。
バラウルの背骨を安置するこの空間は、ホールと呼ばれている。もっとも神聖な場所であり、王族にまつわる儀式の多くはここで執り行われる。
文官、武官、貴族たちに見守られつつ、クリスチアン三世は王冠をその頭上に戴いた。
バラン儀仗長が左胸に手をあて、跪く。残りの者たちも一斉にそれに続いた。涙を浮かべたアウレリアンも、片膝をついて臣従を誓う。この空間で立っているのは唯一人となった。蝋燭の無数の輝きが、王冠とゴールデンイエローの短髪を照らしている。
「余はここに宣言する!」
石造りの壁が、クリスチアン三世の若々しい声を響かせた。
「ドニエ川の東を専領する輩から、神聖なる我が領土を取り戻すと。歴代の王が遂げられなかったことを余がやろう。ドニエスティアは再び、その姿を正しくするであろう!」
バラウルの背骨が、若者の言葉を静かに聞いていた。
◇
王命によって、ドニエスティア軍は動き出した。
すでに合流している西部方面軍と中央軍によって、ティラスポリス攻略のための軍団が再編成された。これは全戦力の半分にあたる。
司令官は王弟アウレリアン。総参謀長ガネア大将がそれを補佐する。
この軍団の正式名称は別にあったが、名もなき一兵卒が呼びはじめた「アウレリアン親王軍」との表現が的を射ていたことから、それが浸透していった。
「遅かったな。ガネア大将」
総参謀長が司令車に乗り込んだとき、すでに総司令官は彼を待っていた。
「おお。坊っちゃん……いえ、司令官閣下。よくお似合いです」
王族専用の軍服に身を包んだアウレリアンは照れ臭そうに俯いた。臙脂色のジャケットにエクルベージュの長髪がよく映えている。
「遅参のほうはお詫びします。こいつを用意したほうがいいと思いましてな」
ガネアは木箱を叩いた。
「それは?」
「景気づけというやつです」
ウィスキーの瓶が並んでいる。
「あきれたな。これから戦争に行くというのに」
「だからこそですぞ。坊っちゃんはなにも心配することはありません。十五年前に取れなかったスミルノフの首を、このガネアが献上しますからな。それまでこの司令車で酒でも飲んで待っていてください」
「そういうわけにはいかないと思うが」
「なぁに、この戦争は勝ちますぞ。スミルノフはロシアに見限られて味方がいないのです。空軍すらありませんからな。我がほうはまず陸上戦力で力押しをし、敵をじゅうぶんに引きつけたうえで空軍を投入。一両づつ撃破していけばよいのです。もう勝ちは決まっておりますぞ」
大男は豪快に笑った。
「では参りましょう! 進軍開始!」
総参謀長の命令を受け、全車両のエンジンが唸りを上げる。木箱のなかでウィスキーの瓶同士がぶつかり、甲高い音を立てた。アウレリアンは総司令官としての最初の命令を発する機会を逸したが、あまりに上機嫌なガネアに気兼ねして、なにも言わないことにした。