雪虫の踊るころ #むつぎ大賞2023
まるで木々から生命力を奪おうとするかのように、冷えた空気が一陣の風となって草木を揺らす。活力に満ちた季節は終わりを告げようとしている。この大都市に人が溢れていたのが過去であるように、植物が主役であったことも振り返るべきものになるだろう。ただし、緑の季節はまた巡ってくるのだが。
シキの視線の先には雪兎がいた。シキがゆっくりと拳を握ると、藪は冬枯れの準備を取り消すかのように成長し、彼女の姿を隠した。と同時に、足元の雑草がひれ伏すように割れて、一筋の道ができあがる。彼女は音を立てないように慎重に足を運んだ。シキの力であっても落ち葉までは指示が通らないのだ。
雪兎は上体を持ち上げ、耳をしきりに動かしはじめた。
――警戒している。
シキは外套から左手を突き出し、目の高さに掲げた。
――やや遠いけど、やるしかないか。
藪の中からツタを一気に伸ばす。雪兎は前足を地面につけて跳躍の姿勢をとっている。ツタの先端がその冬毛に触れようとした瞬間、後ろ足が地を蹴った。そしてツタはまさにその足に絡んだ。
「やった!」
シキは藪の中で声を上げた。二日ぶりの食材であった。
身動きの取れなくなった獲物に駆け寄る。そこでシキは気づいた。雪兎の腹に弓矢が刺さっていることに。
「おい」
木立の裏から声がした。シキは身構える。
「人の獲物に手を出すな」
現れたのは少年だった。小ぶりな弓を引き絞り、その先端をシキに向けている。獣の皮をなめした外套を羽織り、頭には布を幾重にも巻いている。
「これはアタシの獲物」
「図々しいことを言うやつだな。その横っ腹に刺さっている矢が見えないか」
「アタシが捕まえたあとにあんたが打ち込んだ矢でしょ」
「その雪兎はツタに足を取られて動きが鈍った。間抜けなやつだが、おまえが現れたのは俺が仕留めたあとだ。あまりいい加減なことを言うと、おまえの腹も同じようにするからな」
少年は腕に力を込め、あえて弓を軋ませた。
「……わかったよ」
シキは両手を上げてゆっくりと離れた。念のため、小さな小枝を親指の内側に隠しておいた。いざとなれば、これを盾にして矢を受けるつもりだったが、少年は思いのほかあっさりと弓をしまった。
「血抜きをする。手伝え」
「は?」
「早くしろ。肉が痛む」
「分け前をもらえるなら」
「前足を一本やる」
「それだけ?」
「いらないのならそこで見てればいい。俺一人でもできる」
「せめて後ろ足!」
少年はなにも言わず、石刃を獲物の下腹部に突き刺した。
「じゃあ、前足でいいから二本!」
「皮を引っ張ってくれ。そのほうが裂きやすい」
「いいってこと?」
「やるのかやらないのか」
「やるやる」
まだ文明が成り立っていた頃、ここは大きな公園だった。都市の北地区と南地区を分ける役割を持っていたためか、木々の枝のすぐ先に、古い建物を見上げることができる。コンクリートとガラスで作られたそれらは大都市の存在感を今に伝えている。だが金属の腐食が進んでおり、建物の突出部が大音響を立てて落下することも珍しくない。
「名前はあるの?」
問われた少年は不思議そうな顔をして、左手にぶらさげた雪兎を持ち上げた。内臓と頭はすでに鳥たちに捧げたあとだ。
「こいつのことか?」
「違うよ。あんたの」
「あるよ。イタル」
「ふーん。良い響きだね」
「そりゃ、どうも」
「アタシはシキ」
「おまえに聞きたいことがある」
「名前は聞こうとしないのに?」
「おまえの目はなぜ赤いんだ」
シキの虹彩は、光の差し込む角度によって暗赤色に光る。
「生まれたときからこうだよ」
「母親もか」
「会ったことないからわかんないな。どうして?」
「いや……雪兎みたいだなと思っただけ」
シキは思わず視線をやった。イタルの左手の通ったあとが、赤黒い点線となって地面に残っている。
「……そりゃどうも」
「もうすぐ見えてくる」
「なにが?」
「村だよ。俺の」
「こんなところに?」
イタルは答えず、顎で前方を指す。まだしがみつくように残る落葉樹の葉の向こう側に、塔としか形容できない建築物があった。シキは思わず立ち止まり、それを見上げた。
「なに、これ」
おそらく鉄骨を組み上げているのだろう。明らかに旧時代の技術で建てられたものだった。先端は四角柱の巨大な柱のようであり、位置を下げるにつれて太さが増していく。鉄骨の柱は途中で四本に分かれ、それぞれが地面に張っている。大股開きで力強く立つ大男のようでもあり、枝を失った巨木のようでもあった。
「建物自体は父親と呼ばれている。由来は知らない」
「村の守り神かなんか?」
「あれそのものが村だよ」
なるほど。よく目を凝らせば、すべてが骨組みというわけではなかった。塔を大男だとすれば、喉のあたりと、腰のあたりに人が生活を営めそうな構造物がある。特に腰のあたりは、旧文明によくある建物を横に寝かせたような、複数層の居住空間があるように見えた。
「あんたすごいところに住んでるんだね」
「すごいのかな。俺はここしか知らないから」
木立の間を抜けると、視界が開けた。近づいたぶんだけ、見上げる塔は高くなる。首に疲労を感じて視線を下げたシキは、今度はそこにある景色に心奪われた。
塔の足元。そこには無数のバラックが交錯し、複雑な立体構造を成していた。建物の上に無理やり増築した二層目と、そこに登るためのハシゴ、屋根から屋根へと行き来するために渡された橋。所々の傾いた煙突からは、煙が登っている。
「お! イタルがなんか獲って来たぞ!」
「ありゃ雪兎だ! やったな!」
バラックの段差に腰掛けていた男たちが囃立てる。
「一緒にいるのは誰だありゃ?」
「見かけたことねぇな。上のやつか?」
「ばか、上層のやつがあんなナリするかよ。麻の袋みてぇなの着てるじゃねぇか。俺らよりひでぇ」
好奇と警戒の混じった視線は初めてではなかった。だが、慣れるものではない。シキは親指の内側に隠したままの小枝を少しだけ強く握った。
「ロム兄、ヨシ兄。今日は獲れたよ」
「おう。珍しいこともあるもんだ。雪兎の方から矢に当たりに来てくれたんだろう。それはそうとおめぇ、そいつは誰だ」
「シキだよ。そこで会った」
「女か?」
丸くなった目玉が、日焼けと汚れの定着した顔のうえで余計に目立った。
「よく生きて来れたな。よほど運のいいやつだ」
「スイ兄はいる? この雪兎を届けたいんだ」
「まだ市は立ってる。店にいるだろうよ」
イタルは礼を言ってバラック街の奥へと進んでいった。シキはあとをついていく。背中に男たちの視線が突き刺さるのを感じていたが、それよりも、得体の知れない配管や、どこにもつながらない階段に興味を注ぐのに忙しく、それどころではなかった。
着いたのは、バラック街の中心あたりかと思われた。初めて来た場所でも間違いようがないのは、父親と呼ばれる塔の真下だったからだ。四本のどの足からも同じくらいの距離がある。普段は広場のような使われ方をしているようだが、いまは露天が立ち並んでいた。どの店にも屋根や庇がないのは、父親が守ってくれるからだろう。雨も雪もここへは届かない。
「スイ兄」
細面を上げた男は、イタルの姿を目に留めるなり頬を緩めた。
「仕留めたか」
「言ったろ。今日こそって」
「何日続けてボウズだったかな。どれ、見せてみろ」
「巡り合わせが悪かっただけだい。どうかな」
「よく血抜きできている。大丈夫だ」
「やった」
「ひとりでやったわけじゃ、なさそうだな」
男はシキには一瞥もくれずに、刃物で肉を解体しはじめた。
「手伝ってもらった」
「お礼はちゃんと言ったのかい」
「必要ないよ。どちらかというと泥棒なんだぜ、こいつ」
「ちょっと! 泥棒なんてひどい」
「他人の獲物を横取りするやつは泥棒だろ」
「横取りなんてしてない。それに捌くの手伝ったでしょ」
「前足二本はその代金だ。だから礼を言う必要なんてない」
ふたりの会話を聞き流しながら、スイ兄と呼ばれた男は手を休めることなく、たちまちに肉の解体を終えた。
「さぁ焼くぞ。イタル、呼び込みして来てくれ」
「わかった」
金属の串に刺したそれを木炭の周りで炙る。たちまち魅力的な匂いが立ちのぼった。これならイタルが声を張り上げなくても、客が吸い寄せられて来るに違いなかった。シキは焼き上がっていく肉をじっと見ていた。
「あげるよ」
一串がシキの前に突き出される。
「イタルが世話になったようだね」
「いいんですか!」
「他の客に買われる前に、食べなさい」
「急ぎます!」
シキは脇目も振らず、二日ぶりの食糧を頬張った。親指に隠した小枝のことなど、もう忘れていた。
つづく
〈3,450字〉
これはなんですか?
これは、むつぎ大賞2023のエントリー作品です。とても楽しい企画なので、どうぞ見ていってください。なんなら参加するといいですよ!
電子書籍の表紙制作費などに充てさせていただきます(・∀・)