簒奪者の守りびと 第六章 【5,6】
簒奪者の守りびと
第六章 思惑
【5】
ドロキアの領地に入った最初の停車場で、ガネア将軍は予定どおり領主専用列車に乗り込んだ。毛足の長い緑色のカーペットが、軍用ブーツの音を吸う。四脚の革張りソファと、それに身を沈めるふたりの兄弟が彼を迎えた。
「ご苦労さん。一杯やんなよ」
クリスチアンが手に持っていたウィスキーグラスを差し出すと、ガネア将軍は恐縮しつつそれを受け取った。豊富なヒゲをたくわえた大男は、アウレリアンのとなりに腰を下ろした。
ディーゼル機関車が出力を上げ、領主たちを牽引する。
「川の向こうでは、戦が始まったそうですな」
「そのようだな」
退屈そうに返したクリスチアンとは対照的に、アウレリアンは身を乗り出す。
「ガネア将軍、きみはどっちが勝つと思う?」
「バトゥコでしょうなぁ」
「どうしてそう思う?」
「結局あちらのキャスティングボードはロシアが握ってますからな」
「駐留軍は早々に敗退したようだが」
「初戦だけのことでしょう。阻止戦争で我が軍が苦戦したのは、相手がロシア軍だったからです。スミルノフに苦戦させられたわけじゃありませんぞ」
葉の薄くなった樹々が、車窓を次々と流れてゆく。
「どっちが勝っても構わないさ」
グラスを弄びながら、ドロキアの領主はつぶやくように言った。
「俺が望むのは、ミハイが戦禍に巻き込まれて死んでくれることだ」
ガネアは背筋を伸ばす。
「殿下。エディンブルグの山荘で暗殺に失敗したことはお詫びいたします」
「いや、いい。いま思えばあれが最後のチャンスだったが、そんなことはどうでもいい。俺が言いたいのは親父のことだ。ミハイを川の向こうに逃してでも生かそうとしているんだからな。驚いたというか、呆れたというか」
クリスチアンは自分で瓶を傾けた。跳ねるようにこぼれたウィスキーが、サイドテーブルの上でいくつかの円形を描いた。
「兄上は酔ってるんだよ」
「俺は、親父が偉大なのを否定するつもりはないよ」
「それはそうだよ」
「……簒奪なんてまともな神経じゃできないからな」
「ちょっと……兄上」
「事実さ。誰もが知っている。だけどな、アウレリアン。確かに実行したのは偉大なことだが、アイデアそのものは親父のオリジナルじゃない」
「……どういうこと?」
ゴールデンイエローの短髪に指をとおしてから、クリスチアンは弟とガネア将軍の顔をゆっくりと見回す。ふたりの関心をじゅうぶんに惹きつけたことを確認してから、満足そうに口を開いた。
「ネデルグ家に伝わる家訓だよ……実は続きがある」
◇
「なにしてんの?」
棒付きのアイスキャンディーを片手にしたローザが、妹の部屋に足を踏み入れたとき、部屋の主は衣類をベッドに広げ、口の開いたキャリーケースと睨み合いをしていた。
「なにって……」
「どこかへ観光って感じじゃないな」
心当たりはひとつしかない。
「ははぁ、なるほど。……おじさんもさぁ、最高司令官とはいえ、大統領なんだから首都にいりゃいいのに。結局、楽しそうなんだよ。最近なんだか血色が良くなってる」
スミルノフは司令部を南へ移すことに決めていた。明朝、発つ。
「で、あんたもそれに付いてくってわけ」
「後学のためにね」
「おじさんの許可は出たの?」
「そのうち出るでしょ」
「へぇ……」
ミハイはスミルノフに同行することになっていた。
「で、さっきから何を悩んでんの?」
「お姉ちゃん、迷彩柄の服持ってない?」
「なんで?」
「だって軍事でしょ。ミリタリーでしょ。迷彩くらい着ていかないとまずそうじゃん。あたし持ってなくて」
エマはその返事をしばらく待たなければならなかった。姉が、腹を抱えて笑い出してしまったからだ。
【6】
ジュラの前線司令所に入ったミハイは周囲を見回した。どう見てもただの廃倉庫だが、このあたりではもっとも新しく、条件が良い。軍人や技術者が忙しく動き回るたびに、大量のケーブルや電子機器、モニターやアンテナ類が整えられてゆく。
「ひさしぶりの匂いだ」
ウルスラが押す車椅子の上で、スミルノフが深呼吸をした。
「不思議なものだ。前線の匂いは昔と変わらない」
ひとりの技術兵がウルスラに声をかける。彼女がうなずくと、プロジェクターが起動し、倉庫の広い壁が戦略地図に描き変わった。亀裂やカビのあとに重ねられた地図は、白い紙にプリントされたものよりはるかに現実味がある。
「次は君のリクエストどおり、ハラバを攻略しよう」
彼らのいるジュラの南西にその街はある。地図の上ではジュラとハラバはほぼ隣接していた。
「正面から攻めるつもりはなさそうだな」
「そのとおりだ。待ち構えている敵に正面から挑むのは下策だよ」
スミルノフは手振りで、ミハイに意見をうながした。
「兵力はこちらのほうが多い。味方を二手に分けて、半分をハラバに、もう半分は直接コロソバへ向かわせる、というのはどうだろう」
タチカの本拠地があるコロソバの街は、ジュラからまっすぐ南だ。距離はハラバへ向かう道の倍ほどある。
「良いとも。それを採用しよう」
最高司令官は両手を広げた。
「だが私のオリジナリティを足しても構わないかな」
「最初から考えていたんだろう」
「そりゃもちろんだ」
ふたりが声を出して笑いあう。そのとき、兵士が小走りでやってきて、ウルスラに耳打ちをした。ショルネイジリワらしき黒馬が、街道を駆けてきているというのだ。ウルスラは無意識のうちに軍用ベレーを脱ぎ、こめかみを手のひらで押さえた。彼女の「来るなと言ったのに」という呟きは、伯父と少年の耳にも届いた。
◇
スミルノフは、第一軍として主力の戦闘車両をジュラ=ハラバの草原に展開し、横陣を敷いた。そして第二軍として、装輪装甲車を中心した機動力のある自動車化歩兵部隊をジュラ=コロソバに出撃させた。第二軍の後ろには本隊がついてゆく。その規模はもっとも小さく、本隊と呼ばれる所以は、最高司令官が存在していることのみによる。
バトゥコとしてはふたつの街を同時に防衛しなければならなくなった。だが、スミルノフ側も軍を分割しているため、兵力差はそれほど大きくない。あとは地の利を活かして時間を稼ぎ、ロシアからの援助を待つ。バトゥコはそれに賭けることにした。街にあるすべての商品をかき集め、構成員に重武装させる。対戦車兵器はすべて街の正面に配置し、敵が姿をあらわせば直ちに棺桶にしてしまうつもりだった。
スミルノフは第一軍を横陣のまま一歩も動かさない。一方で、第二軍は街道を高速で南下させた。コロソバの迎撃部隊が神経を尖らせたまさにそのとき、第二軍は一斉に転進したのである。新たな進路は西北西。ハラバであった。
ハラバを守るタチカ構成員は動揺した。対戦車兵器はすべてジュラ方面に向けてしまっている。東側の守りは薄い。彼らは半ばパニックになりながらも、重火器を街の東へ移動させようとした。まさにそのタイミングで、正面の第一軍が悠然と南下を開始したのである。タチカの構成員たちは、混乱を煮詰めたような指示を受けることとなった。ある者は前進しろと言い、ある者は戻って来いと言う。結局、それぞれが個々の判断で動かざるを得なくなった。
一方でコロソバのバトゥコには三つの選択肢が生まれている。手元にある主力をハラバへ援軍として送るか、コロソバの防衛に専念させるか、はたまた北上してジュラを奪還するか。バトゥコが腕を組み直したとき、新たな情報が飛び込んできた。敵第二軍が去ったあとのジュラ=コロソバの街道に、ほんのわずかな兵力が残っている。そのなかに、スミルノフがいるというのだ。
その瞬間、バトゥコの迷いは消えた。