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簒奪者の守りびと 第四章 【5,6】

第四章は8シークエンス構成です。4日連続更新。
<3,200文字・目安時間:6分>

簒奪者の守りびと
第四章 ティラスポリス

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【5】

 スミルノフには三人の姪がいる。
 名はウルスラ、ローザ、エマ。いずれも妹の子だった。実子のないスミルノフにとっては我が子同様であり、自らの権力基盤の強化のために活用できる数少ない親族であった。
 長女のウルスラには参謀の末席を与え、最高司令官である大統領を補佐するという名目のもと、常に帯同して身の回りの世話をさせている。ウルスラの瞳は髪とおなじココアブラウン。車椅子を押すうしろ姿は、紺色の軍用ベレーから下がるロングヘアとあわせて人々に記憶されている。
 次女のローザには官製農場の監督官を任せた。その直前まで、芸術家肌で束縛を嫌う彼女のためにロシア留学を許していたが、成人に至ると帰国させた。瞳や髪の色は姉と同じだが、髪型をベリーショートにしている。
 末っ子のエマは中等学校の生徒だ。ローザの農場を手伝っているが、愛馬で走り回ることが好きで、農場はほぼライディングコースと化していた。通学にも週に三度は馬を駆っている。髪は姉たちと同じココアブラウン。瞳の色はそれよりやや薄い。
「我々とエマには異なることがある」
 スミルノフはそう呟く。
「エマは、独立戦争後に生まれたのだ」
 伯父がそう評する通り、エマ・スミルノワは大統領府で唯一、戦後に生まれた。彼女はそれ以前の世界に醸成された空気を吸うことがなく、複雑な背景を知らずに生きてきた。だからこそ世界をシンプルに捉えることができたのかもしれない。伯父と祖国は、敵国ドニエスティアによって侵略を受け、それを退けたあとも圧力を受け続けている。それが彼女の世界だった。
 自然、少年が何者かを知ったエマは、少年が遠巻きに自分を見つめているのを嫌悪するようになった。少年の父は紛れもなく侵略戦争を始めた指導者であり、伯父から自力歩行能力を奪った軍隊の親玉であった。
「……あの」
 出会いから四日後、ミハイはなんら繋がりを持てないことに耐えられなくなり、エマに話しかけた。彼女は大統領府に隣接した厩舎で、あの黒馬にブラシをかけているところだった。
 エマの表情は二転した。慈愛に満ちたものから、汚物を忌避するようなもの、そしてまた温もりのあるものへ。もちろん、ミハイに向けられたのはその真ん中だった。
「あのときは、ありがとう」
「……は?」
 まさに一瞥だった。彼女はすぐにブラッシングを再開する。離れた場所から警護対象を見つめていたゾフは静かに頭を振った。
「……いやあの。路地で」
「……だから?」
「つい好奇心で踏み込んでしまった路地で、暴力事件に遭遇したんだ。だから思わず……」
 エマはブラシを放り投げた。音のしない草の上へ。敏感な馬を気づかい、その鼻筋を撫でた。
「……素敵な馬だね」
 エマはそれには応えず、バケツを持ち上げた。ブーツで地面を叩くように厩舎を出る。黒のポロシャツに、薄いベージュのレギンスを身につけていた。
「名前は……なんていうの?」
「ショルネイジリワ」
「……いい名だ」
「わかるの?」
「わからないけど。響きが素敵だ。どんな意味が?」
「……黒檀」
「なるほど。黒檀か。英語ではエボニーというね。確かにあの毛色は黒檀色だ」
 エマはバケツの水を草むらに捨てた。泥が跳ね上がって彼女のブーツを汚す。エマはバケツを地面に叩きつけた。
「あんたね。ドニエスティアの王子でしょ。パウル一世の息子の。この国を侵略した自覚はないわけ? 攻めてきたわりにあっさり負けて、それで領地に引き返したら、こんどはその領地も家来に奪われたっていうわけでしょ」
 ミハイが答えられずにいると、エマは距離を詰めてきた。
「ジルコフ通り」
 淡いココアブラウンの瞳が鋭く輝いている。
「あんたがつい好奇心で踏み込んでしまうような路地のことを私たちはそう呼んでる。独立戦争の英雄の名前がついている立派な通りなわけ。あんたには薄汚いスラムに見えるかもしれないけど」
 息のかかる距離にあったエマの顔が、急に遠ざかる。
「……栄華を誇る王都に帰ったら?」
 バケツを拾い上げて去っていく彼女の背中を、少年は茫然と見送ることしかできなかった。
 ゾフはそのあいだ、気配を消すことに全力を尽くしていた。

【6】

 大統領府の北には丘陵地帯が広がっている。北上するほど標高を増してゆくのは、その隆起がドニエスティアの北部山岳地帯の東端でもあるからだ。しかしティラスポリスの子どもたちが、勇者アルセニエとバラウルの伝説を寝物語に聞かされることはない。
 遠目にはその丘陵は縞模様に見えた。それは垣根仕立てに並ぶ、ブドウの低木が織りなす紋様であった。
「この大統領府から一望できる農地は、すべて官製農場だ」
 スミルノフが豪語するとおり、この一帯は政府が直接管理する農場であった。
 ブドウ畑からわずかに砂埃が立ち上っている。エマがショルネイジリワを駆っているのだ。丘の曲線をなぜるような黄色い土の道を、少女を乗せた黒馬が駆け、昇って間もない朝陽がその影を縞模様のうえに転写していた。
「エマ! おはよう!」
 頂にほど近い斜面で、その女性は古い石積みの壁に腰掛けていた。エマは足を止める。
「ローザお姉ちゃん、おはよう!」
「今朝は早くない?」
「ショルネが走りたいって。このあたり一周してから学校行くから」
「はいはい。怪我すんなよ」
 ナッツを齧りつつ、ローザは手を振った。ホリゾンブルーのつなぎを着崩して、上半身の白いタンクトップを露出させている。もうすぐ農場の労働員が続々と出勤してくるだろう。エマが走り去ったあと、ローザはココアブラウンのベリーショートをかき上げてから、大きく伸びをした。ブドウ畑のあと、リンゴとシオンベリーの畑をチェックして、労働員たちが出勤するまえに山向こうの施設までバイクで移動しなければならなかった。

 ティラスポリスが重要な工業地帯であったのはもはや過去のことだ。十五年前の戦争で事実上の独立は勝ち取ったものの、経済規模の縮小は隠しようもなく、設備の更新もままならなかった工場群はしだいに沈黙していった。
 現在の主要産業は農業であり、特に果実類の輸出が経済を支えている。ただしそれは表向きのことであり、記録されない輸出品こそがティラスポリスの力の源泉であった。
 おもな非合法輸出品は二種類。「麻薬」と「武器」だ。それらをひとつの権力が掌握することを、スポンサーであるロシアは望まなかった。それぞれの生産権を別の権力に委ね、両者の力を拮抗させるために、繊細ともいえる配慮をし続けた。
 しかし、その均衡が崩れつつある。武器密売組織「タチカ」の総領バトゥコが、大統領府への野心を隠さなくなってきたのだ。
「トゥス。来たぞ」
 見張りに立っていた赤毛の男が言う。トゥスはタバコを投げ捨てて双眼鏡を奪った。
「ふたつ向こうの斜面だ」
「おお。見えた」
 歯を鳴らしてからトゥスは無線を持ち上げ、手下に準備を命じた。
「本当にやるのか?」
「いまさらなに言ってんだ」
「大統領の姪だぜ」
「お前の母親を拐う趣味はねぇぜ」
「軍隊を動かせる相手だって言ってんだよ」
「武器があっての軍隊だろうよ。こっちは武器商人だぜ」
「それならバトゥコに隠しておくこたねぇじゃねぇか。きっちり承諾を取りゃ人手を貸してくれるだろうに。俺らでかき集めた手下なんて質が低いぜ」
「サプライズだよ。驚きの成果を挙げたほうが目立つじゃねぇか」
 エマが丘の隘路にさしかかったとき、伏せられていた白幕が立ち上がった。藪に潜んでいたトゥスの手下たちがロープを引いたのだ。突然の障害物にショルネイジリワは驚き、前脚を高く上げ、主人を振り落とした。
「やっぱ動物相手にはこういう古典的なトラップが効くな」
 トゥスはアッシュグレーの長髪をかき上げ、双眼鏡を赤毛の男に渡した。
「サプライズは成功しそうだ」
 レンズの向こうで、上半身に麻袋をかぶせられたエマが、車両の後部座席に放り込まれていた。

つづく

ヘッダー画像は安良さんの作品です!Special Thanks!!


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