カササギは薄明に謡う 第三話
少年の家は、この集落のなかでは新しい部類に入るだろう。私道なのかガレージなのか判らない空間に軽自動車が二台停まっている。玄関の周りだけコンクリートで一段高くなっていて、表札の下にNHKのマークと「犬」のシールが貼ってある。庇の向こうの樹は柿だろう。
「……ただいま」
引き戸を滑らせる。俺と瑠華は身構えるが、上がり框の向こう側にはなにもいなかった。
結果的に俺たちがヒロトの家で発見したのは、彼が望むものではなかった。居間の中心の床材が捲れ上がっており、そこに大穴が空いていた。見えるはずの地表はなく、ただただ暗闇が口を開けているだけで底は窺い知れない。そして住人はどこにもいない。このような場合、俺たちの経験上おおよその想像はつくのだが、あまりにも残酷なので黙っていることにした。
「小学校に避難したのかもしれない」
その可能性は低いと思ったが、俺たちはヒロトに付き合うことにした。私道を出て、砂利の多い舗装道路を歩く。角をひとつ曲がっただけで、校舎が目に入った。
小学校は広域避難場所に指定されていた。だからヒロトの言うこともあながち的外れではない。災害が起これば、住民たちはここを目指すはずだからだ。
しかし、彼の願いは届いていなかった。
◇
校庭の端に、いくつかの遊具が並んでいる。すべり台、シーソー、ブランコ、雲梯、登り棒。ヒロトは駆け出すようにしてジャングルジムに向かった。そして金属棒に手をかけてから、わずか数秒で最上段に腰掛けてみせた。
「速くない?」
瑠華はまだ二段目に脚を掛けたままだ。
「毎日登ってたから」
ヒロトは少しだけ得意げな表情をみせた。
「好きなんだ?」
「うーん。俺、高いところが苦手だったんだ」
「そうなの?」
ようやくたどり着いた瑠華が、ヒロトと同じ高さに顔を出す。
「うん。なんか足元に地面見えるし、怖いじゃん。だから三段目くらいで体が動かなくなっちゃってさ。いつも」
「うん」
瑠華はヒロトの隣に腰掛けると、足をぶらぶらさせた。
「そしたら姉ちゃんがさ、特訓しようって言うんだよ。俺と姉ちゃんは六歳違うから、俺が小一のとき、姉ちゃん小六なわけ。で、いったん家に帰ってさ、誰もいなくなったころにまた来てさ。毎日毎日登ってた」
「すごいね。お姉さん」
「うん。すごいっていうか。強引なんだよ」
ヒロトは棒を蹴る。錆の匂いがした。
「それで、いまは得意になったんだ?」
「そりゃなるよ。毎日だよ。毎日。俺、めちゃくちゃイヤだったんだから。観たいテレビあるしさ」
「そりゃあイヤになるねぇ。でも、苦手がひとつ消えて、気持ちがラクになったんじゃない?」
「まあ、友達にからかわれてたからね。そういうのがなくなって、よかったよ。確かに」
ヒロトは不貞腐れたような表情を維持しているが、もちろん瑠華はその複雑な感情を見抜いている。
人は大きな喪失に見舞われたとき、防衛本能が起動し、心が鈍麻する。脳は知っているのだ。現実を受け止めてしまえば精神が耐えられないと。少年の場合も同じだ。リビングに大穴が空き、家族の姿は見えなくなった。それでいてなお、家族はどこかで安全に生きているという可能性を捨てていない。それは本能による作用だ。
「ねぇ、巽ちゃん」
突然呼ばれたせいで反応が遅れた。間抜けな面をしていたかもしれない。
「なんだ?」
「ちょっとゆっくりお喋りしすぎたかも」
瑠華の視線を辿ると、川向こうの県道を二台のバイクが走っている。あの濃緑色は陸自の偵察用バイクだ。あの位置から向かう先といえば、この小学校しかない。
「見つかっちゃったね」
「ふたりとも、とりあえず降りてこい」
降りるときはさらに早かった。ヒロトは猫のように美しい着地を決め、瑠華は左手をついた。その手の土を払っているとき、自衛隊のバイクが校庭に乗り入れてきた。砂埃が、俺たちの前で止まる。
「やあやあ。相変わらず神出鬼没ですね。あなたがたは」
車体を跨いだ中年男が、口元だけで笑いながら言った。
「へぇ。これは珍しいものを見た。みずからバイクに騎乗とは」
こいつは俺に対して悪印象を持っている。だからそれに拍車をかけるべく、俺は出来るだけ無礼でいることにした。
「バイクは嫌いじゃないですよ。あなたのトラディショナルなフランス車も悪くありませんがね」
片頬で笑う中年男の隣で、もうひとりの若い自衛官が、ヒロトの姿を認めるなり拳銃を抜いた。上官が手のひらで制したため、それはすぐホルスターに収まった。
「どうせなら群長と話したいな。ゴリラ一佐は元気か?」
「もう彼は群長じゃありませんよ」
現場の自衛官とは思えない、デスクワーカーのような銀縁メガネが光っている。
「ほう。そうなのか」
「転属になりました。まぁ、左遷ですね。あなたがたが余りにも邪魔をするもんですから」
「一応聞いてやるが、後任は誰だ」
「一応答えて差し上げますが、私ですよ。一佐になりました」
「昇進おめでとう。名取一佐」
「どうも。社交辞令が言える良識が残っていて安心しました」
「ところで質問なんだが、あんたの左遷先はどこになる予定だ?」
名取一佐の視線は俺の顔に固定された。瞳孔の奥で、色が変わっていくのがわかる。となりで表情を凍らせた部下が上官の横顔を見つめている。
「巽……天外」
名取一佐は銀縁メガネを両手でゆっくりと外した。
「おまえ、今夜中に死ぬぞ」
「ほう。自衛官が国民を殺すのか。そりゃ左遷じゃすまないな」
「我々が殺すわけないだろ。媒介者に喰われると言っているんだ」
「俺の知るかぎり、いままで媒介者に喰われたのはお前の部下だけだろ。なぁ」
ちょっとした嗜虐心で、俺は部下のほうに視線を向けてみた。そいつは迂闊にもぎょっとした表情を隠すのに失敗し、上官に睨まれた。
「巽。媒介者を見つけるところまでは、目的は一緒だな。それまでは共闘してやる。集落内の移動を許可してやるから、情報は共有しようじゃないか」
「それはつまり、俺たちに探させようってことだろ。昇進早々、手を抜くんじゃないよ」
名取一佐は口元だけで笑いながら、銀縁メガネを戻した。
「いずれにしろ本番は日没からです。それまではお互い頑張りましょう」
ふたりの自衛官は、それぞれバイクに跨った。
「食事に事欠くようなら、戦闘糧食に予備がありますから、取りに来てください。提供しますよ」
ふたつの後輪が砂埃を立てると、彼らの姿は遠ざかっていった。
名取一佐と俺たちの利害は、途中まで一致し、途中から分離する。
一致している点は、この災害を限られた範囲内に抑え込むこと。これに関しては、共闘という彼の表現はあながち間違いではない。俺たちには拡大を防止する力はないのだから。
しかしその先は異なる。俺たちは地中から出てきたものを再び地中に還す。それだけだ。だがSDIRの目的は根本的解決だ。地中から出てくるヤツらの起点を自分たちで管理し、研究し、攻略すること。すなわち抜本的駆除を目指している。
ベクターとは媒介する者を指す言葉だ。マラリアの媒介者は羽斑蚊。ペストの媒介者はネズミ。つまりはそういうことだ。地中から湧き上がってきた黒い粉末は、近くにいる生命体を侵食する。特に好まれるのは人間の女だ。妙齢のそれを取り込んだあとは、胎を借りるようにして次々とヤツらを産み出していく。つまり、ヤツらを産む状態になった元人間のことを、媒介者と呼んでいるわけだ。
そして、その扱いを巡って両者の利害は決定的に対立する。SDIRは媒介者を捕獲することを目指し、俺たちは地中に還すことを目的とする。
「地中に還すって、どうやって?」
ヒロトが首を捻る。俺は愛車を小学校の校門あたりに移していた。名取一佐が許可を出したので、隠れている必要が無くなったからだ。
「瑠華がな、それをやるんだ」
「他の人にはできないってこと?」
「そうだな。瑠華だけができる。正確には、瑠華の家系だけが代々できる」
「あの武器を使って?」
「武器で地中に還せるのは胎から出てきたヤツらだけだ。媒介者には別の方法を使う」
アルタートゥム・クラレとノインシュヴァンツ・パイチェが白銀色をしているのは理由がある。ある河川だけで採れる特殊鉱物を使っているからだ。神流川と呼ばれるその川は、瑠華の家系の発祥地でもある。
その鉱物を使って武器を造りあげたのは、瑠華の母親である恵子さんだ。武器の名称がドイツ語なのは、それらを完成させたのがハーメルン市内だったからだ。協力者もバルト系ドイツ人だ。
ところが数年前、その鉱物の採れる神流川流域は立入禁止区域になってしまった。表向きは公的施設の建設予定地だからとなっているが、要するに自衛隊が一枚噛んでいるのだ。SDIRの使っている白銀弾はこの鉱物の合金だし、消化剤のように噴霧しているのもそれを溶かした溶液だ。ただし質が低すぎて、俺たちの武器とは比べ物にならない。
「おまたせ! 食料もらってきたよ!」
スポーツバッグを重そうに抱えて、瑠華が戻ってきた。
「ヒロトくん。お腹すいたでしょ!」
やたらと得意げな顔をしている。
「あ、うん。ありがとう」
「ね。昨日からなにも食べてないもんねー」
バッグからゴロゴロと缶詰が出てきた。いわゆるミリメシだ。
「ヒロトくんにはこれがいいよ。鶏めしに、ソーセージに、味付きマグロ」
「うわぁ、なんか美味しそう!」
「たっぷり食べてよ。育ち盛り」
「瑠華さんはどれにしたの?」
「ううん。私はいらないんだ」
「そうなの?」
「うん。そして巽ちゃんには、はい。白米」
「……俺は白飯だけか?」
「あと福神漬けもあるよ」
「なるほど。カレーか」
「カレーはないから」
「ないのか」
「ないよ。福神漬けご飯」
「どうしてそういう組み合わせに?」
「名取一佐がそうしろって」
「……あの野郎」
太陽が西に傾いてきた。山あいの集落は、日没が早い。
第四話へつづく