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カササギは薄明に謡う 第一話

 その災害は、深夜に発生した。
 俺のもとに連絡が来たのは、1時を少し回ったころだ。現場はここから60キロほど南にある田舎街だそうだ。発生から20分。ちょうど住民たちのパニックも最高潮だろう。
 俺はひとまず仕事道具をトランクに積んだ。愛車の傍らに立ち、タバコに火をつける。煙はすぐ闇に溶けていく。
 遠く、ヘリのローター音が聞こえる。重みのある双発のそれはCH-47だろう。南へ向かっている。陸上自衛隊の部隊を積んでいるはずだ。いつもならば後手に回るはずのあいつらが、今回はなぜか手際が良い。

 吸いガラを靴底ですり潰して事務所に戻る。プレハブに毛の生えたような建物だが、俺のような稼業にはちょうどいい。
「ちょっと。私、試験勉強中なんだけど」
 薄暗い部屋に、相棒が立っていた。俺は少々面食らった。
「なんだ。着いたならすぐ言えよ」
「着いたよ」
「おせぇよ」
「こんな時間の呼び出しから15分で対応してるのってすごいと思わない?」
「別に好きでこんな時間に呼んだわけじゃない」
「当たり前でしょ。好きで呼ばれたらキモい」
「キモいとかいうな」
「でもさぁ。タイミング最悪だよ。相手が相手だから仕方ないんだけどさぁ、あさって期末試験なんだよね」
 相棒は前髪をかき上げるようにして頭を抱えた。
「学校のほうは恵子さんがなんとかしてくれるだろうよ。別に気にすんな」
 彼女の母親は、俺の元相棒だ。
 元相棒であると同時に、俺の師匠でもある。代々この家系には女児しか生まれない。そして、それによってこの仕事を継承してゆく。

 幹線道路のほうから地響きが聞こえてきた。おそらくこれも陸自だ。災害派遣の垂れ幕をつけた73式トラックが列をなしているに違いない。彼らはこれから道路を封鎖する。外からの進入を制限するためではなく、被災地の内側から人々を逃さないためにだ。
「瑠華。お前も仕事道具を積め。これ以上遅れるとやっかいだ」
「まぁ……そうだね」
「試験のことはいったん忘れろ」
 彼女の視線は、雑にぶら下げてあるだけの壁掛け時計に向いた。
「……大丈夫。24時間で終わらせて帰るから」
 荷物を後部座席に放り込み、瑠華は助手席に身体を滑り込ませた。
 プジョー206のサスペンションが年老いた音を立てる。あまりメンテナンスに精を出しているとは言えないが、こいつも俺の相棒には違いない。それに商売上、多少の改造をしている。
「巽ちゃん。どれくらいかかりそう?」
「普通に飛ばせば一時間くらいだ。だが今回は」
「なに?」
「自衛隊の反応が早い。途中から幹線道路は使えなくなるだろう。抜け道を使う」
 エンジンが車体を揺らし、ライトが正面を照らす。ガードレールが浮かび上がり、電柱に括られた眼科の看板がこちらを睨みつけてくる。ここは小さな町工場が集まる、住宅街から外れた区画だ。
「抜け道って?」
「わからない。たぶん、農道かな」
 タイヤに踏みしめられ、砂利が抗議の音を発する。
 ハンドルを回して舗装道路に出ると、レンガ壁やトタン壁が両側に迫る狭い直線だ。こんな時間に出歩く人間はいない。俺は遠慮なくアクセルを吹かすことにした。

 いつ災害が発生するかの明確な予測は立てられない。しかし、次の発生地がどこなのかはおおよそ見当がつく。それは俺たちのような稼業が蓄積してきた知見に他ならないが、まとめ上げ、予知システム化したのは恵子さんの功績だ。
 今回の災害をそのシステムが予測したのは10ヶ月ほど前だ。俺と瑠華が九州のこの地に移り住んだのは去年の秋。俺は錆の目立つ小屋をみつけてそこを借り、事務所兼住居にした。瑠華のほうは大変だ。転校しなければならないし、一人暮らしを強いられる。もっとも、中学生のころからこんな生活を続けているから、慣れてしまったのだろうが。

 多少の信号無視は大目に見てもらいたくなるくらい、空いている幹線道路は走りやすい。
「ちょっと寒くない?」
 助手席で、二の腕をさすりながら瑠華が言う。
「そうか?」
「暖房入れてよ」
「もうすぐ七月だぞ。梅雨明け前とはいえ、大げさな」
「けっこうさ、朝晩は冷えるよね」
「年寄りみたいなこと言うな」
「いいじゃん。薄着で来ちゃったんだから」
「エアコン調子悪いんだよ。冷房しか入らなくてな」
 小学生のころ、紫陽花の根元にナメクジを見つけたときと同じ顔をした。
「でもさ、私えらくない?」
「なにが?」
「ちゃんと持ってきたんだよ。羽織るやつ」
 後部座席に上半身を伸ばしてスポーツバッグをまさぐる。ライトグレーのロングカーディガンが出てきた。
「前に帰省したときにお母さんにもらったんだ。お守りになるかなと思って詰め込んだんだけど、むしろ本来の用途で活躍するとは」
「入れっぱなしにしてただけだろ」
「そんなことないし」
 袖を通しながら、早口でつぶやく。
 暗くて気づかなかったが、たしかに瑠華は薄着だ。白っぽいTシャツ。カーキ色のショートパンツは、ももが半分隠れるくらいの短さだ。それにスニーカー。そして。
「お……おまえ。それ」
「え? なに? へん? 似合わない?」
「そうじゃない。そうじゃなくて」
「丈が長いのはそういうつくりだからだよ」
「いやいやいや、服の話じゃなくて、髪だよ髪!」
 俺は途端に忙しくなった。瑠華の顔を見て、進行方向を見て、視線がひとつでは足りない。おまけに会話が噛み合わないから脳の電気信号が右往左往している。
「ああ。これ?」
 瑠華は呑気に毛先を手のひらで弾ませている。心なしか頬が上気しているように見えるのは、気のせいだと思いたい。
「気づくの遅くない?」
「切ったのか……」
「切ったよ。どう?」
 まっすぐに揃えられた後ろ髪を、撫ぜるように指を動かす。
「おまえ……なに考えて……」
「長めのボブだから大丈夫だよ。ギリ見えないでしょ」
「ギリ見えなきゃいいってもんじゃ……」
 俺は慌ててハンドルを切った。いつの間にかセンターラインを跨いで走行していたのだ。対向車がなかったのは幸いだった。
「気分くらい変えたかったんだもん。いいじゃん別に」
「恵子さんは知っているのか?」
「知らないんじゃない? 言ってないから」
「おまえな……」
 彼女の家系には代々女児しか生まれない。そしてすべからく麗しい黒髪を持つ美女に成長する。しかし重要なのは髪そのものではない。
 瑠華の首には、黒いベルトが巻いてある。何も知らない者が見れば、単なるファッションアイテムにしか見えない。いわゆるチョーカーだ。しかし彼女の母親もそれを身につけていたし、祖母も、似たような首飾りを手放さなかった。もちろん時代によってその形状は変化する。古くは勾玉を用いていたらしい。
「お役目は果たしたい。オシャレもしたい。どちらも守らなきゃいけないのが、女子高生の辛いところですよね」
 短くなった髪がいっせいに揺れる。俺はもう見ないことにした。いまさら考えても仕方のないことだったし、それにもう雑談している暇はなくなった。前方に濃緑色の幌が見えてきたからだ。
「あ、追いついたみたいだね」
 そのとおりだ。あのカマボコ型は陸自に違いない。

 目的地は山間の小さな街だ。街と呼ぶのも躊躇われるくらいの、いわゆる集落らしい。いまでこそ市域に組み込まれているが、合併したからといって住民が増えるわけでもなく、商店は小さなものがふたつあるだけの静かな土地だ。
 そこに至る道路は三本しかない。川に沿って東西に走る県道と、峠を北に抜ける旧村道。それらが交わるところが集落の中心地になっている。丁字路の交差点にある村役場の跡地は、いまでも盆踊りなどに使われていると聞く。そこから旧村道に入って少し登ったところに小さな神社があるらしい。
「このまま追い越すの?」
 助手席の瑠華の視線がこちらを向く。
「いや、悟られないように集落に入りたい。次の交差点で左へ折れる」
 アクセルをやや開く。背中で感じるGが心地よい。
 カマボコ型をした濃緑色の幌が近くなってきた。いすゞ自動車製73式トラック。東日本大震災では津波にさらされた他種が使用不能になる中、唯一稼働し続けたという耐久性の高さを誇る。それゆえ災害派遣時には輸送の主役となることが多い。今回も例外ではない。
「次の交差点って、あれじゃないよね」
 瑠華が前方を指差す。そこには黄信号が点滅している。
「あれだよ」
「え。左右に道ないよね?」
「道のない場所に交差点があるわけないだろ」
「じゃあなに、あれ、道なの?」
 俺はガードレールの途切れた隙間を狙って、ハンドルを切った。後輪がやや滑る。急な下り坂になっていたせいで、俺たちの体重は瞬間的に軽くなった。隣で瑠華が息を飲んだのがわかった。幹線道路より1mほど低い位置に道が続いている。かろうじて舗装されているが、これは農耕用の道だ。
「なにこれ……せま」
「だから農道を走るって言ったろ」
「こんな道であいつらに勝てるの?」
「このまま進んでも意味はない。もう一度右へ曲がらないとな。並走しないと追い越せないだろ」
 センターコンソールからナビゲーションを呼び出す。モーター音とともに、液晶モニターが姿を現した。もともとはカーナビとして搭載していたものだが、今はほかの役割を担ってもらっている。
「それ起動するの?」
「こんな煌々とライトを照らしてたら、バレちゃうだろ。隠密行動」
「こんなスピードで使ったことある?」
「ないよ」
「ちょっと待ってよ」
「おまえを安全に運ぶ。自衛隊よりも先に到着する。どちらもやらなければいけないのが、相棒の辛いところだよな」
 ハロゲンライトを落とし、ナイトビジョンに移行する。瞬時に肉眼からあらゆる像が消えた。モニターだけが、緑色の景色を闇のなかに浮かび上がらせている。
「ここだ」
 右へ急転回。さらに一段低く下がったその道は、もはや舗装されていない。膝丈くらいの雑草が生い茂り、耕運機のタイヤに踏みしめられた部分だけが、轍になって地面を露出させている。
「……ちょっと、うそでしょ」
 いつの間にか、瑠華は窓上のアシストグリップを両手で握りしめている。無理もない。モニターを見ていない彼女にとって、あたり一面は単なる闇だ。
「なんにも見えないんだけど!」
「見えなくていい。両サイドは水田だ。どうせ見えたところで不安になるだけだ」
 稲穂が風に揺れているのだろうか。カエルが合唱でもしているのだろうか。昼間に散歩すればさぞかし長閑な景色だろう。俺は幹線道路のほうを見遣った。
 自衛隊の車列が進んでいる。前をゆく車両の尻をライトで照らしつつ、寸分違わぬ車間距離を保って。
 俺はアクセルを踏み込んだ。畦道の草花を潰しながら、プジョーが加速する。隣からちょうどいいBGMが聞こえると思ったら、それは瑠華の悲鳴だった。

 旧村道を選択したのは正解だった。
 自衛隊の車列を抜き去った俺たちは、そのまま幹線道路を離れ、北回りに旧村道から集落へ入ることができた。東西に横切る県道のほうは、すでに簡易検問が設けられているだろう。CH-47に乗っていた先行部隊が主要道を抑えているはずだからだ。
「間に合った感じだよね」
 瑠華が視線を走らせながら言う。
「ああ。検問があるとしたら峠のてっぺんだったろうからな。県道を優先して、こっちは後回しにしたんだろう。それとも単なる人手不足か」
「よかった」
「油断はするな。ヤツらと鉢合わせするかもしれない」
「ヤツらって、どっちの?」
 俺はちらりと瑠華の横顔を見る。涼しげだった。
「どっちもだ」
 畝るように続く峠道を下っていく。ライトが杉の縦割れた幹を照らす。禁猟区を示すダイヤ型の看板がほとんど朽ちて、誰に向かって主張しているのかわからなくなっていた。汚れがこびりつき、白いとは形容し難いガードレールが、かろうじてカーブの半径を教えてくれる。
 傾斜が次第にゆるやかになってきた。
「もうすぐ集落の中心地だな」
「なんにもないね」
「なんにもないルートを選んだからな」
 そのカーブを曲がり終えたところだった。ほんのわずかの直線に、街灯が一本だけ立っている。その理由はすぐわかった。神社の入り口なのだ。左手の山側に細い石段があって、それを少し登ったところに石造りの鳥居が見える。
 しかし、俺がブレーキを踏んだ理由は、それではなかった。
 最初は道路標識かと思った。形状が似ていたのだ。だが、そんなものが道路の中央に建っているわけがない。それに縮尺がおかしい。支柱部分の太さに対して、丸い標識部分が大きすぎるのだ。異常といっていい。
 気がついた時には、瑠華がドアを開けていた。
「とりあえず、行ってくる」
 ドアを開けっ放しにして、瑠華は歩いて行った。
「……ああ」
 俺の間抜けな返事が彼女に届いたかはわからない。瑠華の後ろ姿がヘッドライトの中へ入ると、ロングカーディガンが白く輝いて見える。その向こうで、縮尺のおかしい道路標識が揺らいでいる。ライトを浴びているというのに、まるで影のような紫紺色をしていた。
「こんばんわ~」
 瑠華の声は、ご近所の飼い犬に話しかけているかのように優しく、慎重だ。
「おひとり?」
 紫紺の道路標識は答えない。
「そう。でもいい夜だね」
 答えずに、ゆっくりと揺れている。
「気持ちはわかるよ」
 ゆっくりと揺れている。
「怖かったんだよね」
 揺れが止まる。
「でもね。もう大丈夫」
 止まっている。
「還ろう」
 道路標識はその支柱をゆっくりとひねった。つまり、振り返ったのだ。
「……大丈夫だからね」
 見えたのは穴だ。頭部全体が穴だった。紫紺よりも濃く、重い、漆黒の穴だ。ヘッドライトでも照らせない、それは絶望的な暗さだった。

 瑠華の右手は巨大だ。いや、その表現には語弊がある。
 俺からは、いまの瑠華の右手が巨大に見えるということだ。
 彼女は車から降りるとき、すでにそれを身につけていた。後部座席に積んだ仕事道具だ。恵子さんがドイツ遊学中に胡散臭い男と作り出した武器。娘のためにしつらえた特別な爪。
 瑠華の手からは三本の巨大な鉤爪が伸びている。存在感を際立たせているのは中央の一本で、それは彼女の前腕とほぼ同じ長さと太さを持っていた。直立している彼女のふくらはぎまでゆうにある。両隣の二本はやや短く、補うように寄り添っている。

 古代の鉤爪アルタートゥム・クラレ

 白亜紀後期に生息した恐竜、テリジノサウルス「鎌をもつ爬虫類」に由来する爪が、街灯とヘッドライトを浴びて白銀色に輝いていた。瑠華はそれを無造作にぶらさげまま、ただ立っている。
 穴は、振り返りの動作を終えた。あらゆる明かりを飲み込んで、瑠華の正面を向いた。
 風が吹き、杉の葉がこすれる。
 小さな枝が折れて、ヒビの入ったアスファルトに落下した。
 突如として穴が、その支配領域を広げた。よく見れば、支柱に当たる部分は紫紺の繊維の集合体だった。その繊維が蠢き、巨大化する頭部を支えるために太くなろうとする。穴はたちまち倍に膨らみ、瑠華を飲み込もうとした。
 だが、遅い。
 すでに瑠華はそこにいない。
 彼女が横を通過したとき、もう支柱の繊維は寸断されていた。支えを失った穴が路面へ触れるよりもはやく、アルタートゥム・クラレの鉤爪が背後から切り裂く。振り抜いた彼女の腕が穴の先をゆき、短くなった髪と長い衣服の裾がたなびいた。
 三本の鉤爪が通過したそれは、もう現世に止まることができなかった。
 積み上げた箱をうっかり崩してしまったときのように、分割された紫紺の塊は路面に散らばる。たちまち砂状になり、そして粉末になり、粒子になり、地面に染み込んでいった。
「お見事」
 俺の言葉が耳に届いたのか、瑠華はこちらに視線を送り、少しだけ口角を上げた。それが終了の合図だ。彼女はその場にしゃがみ込むと、路面を指先で撫でる。さっき粒子が染み込んだあたりだ。
「ゆっくりおやすみ……」
 つぶやく瑠華の背中を街灯が照らしている。
 その街灯の様子がおかしい。
 俺は慌てて後部座席の仕事道具に手を伸ばした。
 街灯の光の裏側。カサの部分になにかが凭れている。よく見ればでかい。なぜ気づかなかったのだろうか。紫紺の繊維で結ったような、巨大な蚯蚓だ。俺は車を降りた。
 瑠華も気づいたようだ。彼女が視線を上げたとき、蚯蚓は体を波打たせ、カサから飛び降りた。
 俺は右腕を振るう。上腕で運び、肘を起点に前腕で加速する。手首をひねって意思を先端に送ると、それは自分の身体よりも素直に動いた。

 九尾の鞭ノインシュヴァンツ・パイチェ

 特別なファイバーを編んだ白銀色の鞭。先端が九つに岐れ、それぞれが刃を成している。そして刃のぶんだけ長さが異なる。つまり、こいつは俺の意思によって、一本の長尺な刃物にもなれば、九つの細かいナイフにもなってくれる。
 もちろん、こいつを生み出したのも俺の師匠だ。
 瑠華にのしかかる直前、ノインシュヴァンツ・パイチェは紫紺の蚯蚓を刻んだ。細かく寸断され、十個のパーツに分かれた蚯蚓は、弾け飛ぶように空中に散らばった。

 森に視野を遮られていても、自衛隊の車列が到着したことはわかる。おそらく、ここからそう遠くない村役場跡地に展開したのだろう。これから三方向に伸びる道路を封鎖するはずだ。となれば、この峠道にも奴らがやってくる
 ところで、蚯蚓を地面に染み込ませたあと、俺たちはある拾い物をした。神社の鳥居に隠れていた中学生だ。
「名前は?」
「ヒロト」
「では、ヒロトくん。君はここでなにをしていた?」
「逃げてきたんだよ。怖いのが追いかけてきたから」
「足が速いんだな」
「途中までは自転車で……コケたから乗り捨てて」
「ヤツらとはどこで遭遇した?」
「最初からだよ」
「最初とは?」
「颯太んち。友達の」
「こんな時間に遊びに行くとは感心しないな」
「いや、行ったというか。うちに姉ちゃんが帰ってきてて、それで、なんていうか、邪魔だから出かけたんだ。颯太はまだ起きてるだろうと思って」
 要約するとこういうことだ。隣県の信用金庫に就職した十九歳の姉が帰省している。風呂上がりにバスタオル一枚でうろつくのを抗議したところ、思春期をからかわれて腹が立った。家を飛び出し、自転車で颯太の家に向かったのが夜11時ごろ。颯太と合流し、自販機でドリンクを買って、小学校のジャングルジムの上でひとしきり過ごした。話し込んで遅くなってしまったことに気づき、こっそり颯太の家に戻ってみた。寝静まっているようで、颯太は無事に家に戻ったが、いつもなら部屋の窓から手を振ってくれるはずなのに現れない。しばらく待っても現れない。不思議に思って目をこらすと、窓辺になにか黒いものが立っている。それは人間ではなかった。
「それで……自転車で逃げてきたら、途中でまた変なものが向かってきて、やばいと思ってこっちに登ったら、途中でコケて、それで……」
「この鳥居に隠れてたわけか」
 ヒロトの興奮はいくらかおさまってきたようだ。それまで早口で要領を得なかった話し方が、次第にトーンダウンしてきた。
「あの……助けてくれて、ありがとうございます」
 短パンの両脇で小さく拳を握りながら、ヒロトは頭を下げた。
「ねぇ、ヒロトくん」
 それまで蚯蚓の染み込んだ路面を撫でていた瑠華が立ち上がった。
「抜け道、知らないかな?」
「え? 抜け道?」
「そう。この峠道を下っちゃうと、自衛隊とバッティングしちゃうんだよね。別の道で集落の中に入りたいなぁ、なんて」
 瑠華が首をかしげると、ミディアムボブがさらりと揺れた。

 未舗装の道に入り、使われなくなったビニールハウスの脇に車を隠した。頭上まで木の葉が覆うような深い森が背後に迫っている。U字型の小さな水路が足元を流れていて、そこにコンクリートの蓋が被せてある。俺はそれを通路として使い、田畑の間を縫うようにして中心地に出た。瑠華とヒロトは車に残してある。つまり偵察だ
 巻いたノインシュヴァンツ・パイチェを右手で握り、身を低くして移動する。ヤツらとヤツら、どちらとも遭遇したくはない。
 村営の給油所だったのだろうか。ブロック塀に囲まれたL字型の区画に、燃油タンクが設置してある。錆がひどく、使われていないのは一目瞭然だ。俺はそのタンクの隙間に身を潜ませて、ブロック塀から顔を出した。
 そこはもう村役場跡地だ。73式トラックが二台しかない。残りは封鎖に出ているのだろう。
「予定より少し遅れたか」
 聞き覚えのある声がする。
「ヘリで先着した部隊からは、検問と接触した対象者はいないとのことです」
「そうか。なら騒ぎはこれからか」
「はっ。深夜だったことが幸いしました」
 あの眼鏡ヅラは名取二佐だ。相変わらずいけ好かない。上官のゴリラ群長の姿は見えないが、あっちのほうがまだ人間味がある。
「あいつらは侵入してないだろうな」
「巽一派ですか」
「一派か。まぁ、ふたりだがな。巽天外たつみてんがい神流瑠華かんなるか
「少なくとも先着部隊から目撃報告はありません」
 名取二佐が頷くと、隊員は敬礼して去っていった。
 こいつらは陸上自衛隊に所属する特殊部隊のひとつだ。大層にも特殊奇禍即応群などという名前がついている。Special Disaster Immediate Rescue teamの頭文字をとって、SDIRと自称している。特に笑えないのは、Rescueという言葉を選んでいることだ。
 ヤツらは俺たちに仕事を邪魔されていると思っている。もちろん、こちらもそう思っているわけだが。要するに相性が悪いのだ。

 一台の軽自動車が県道をやってきた。道幅を考えればスピードを出しすぎている。すぐさま隊員たちが停車させ、照明を浴びせる。運転手は手のひらで眩しすぎるライトを遮りながら、ドアウィンドウを開いた。
「どうされましたか?」
 隊員が、拍子抜けするほどの優しい声で尋ねる。
「救急へ運ぶんです。息子の様子が……あの、おかしくて!」
 日に焼けた肌の、白髪混じりのその女性は、縋りつきたいのを我慢しているという体だった。運転席の後ろになにかが見える。元は人間の手だろうか。遠目にも、すでに変わってしまったことが見てとれた。
 後部座席を一瞬だけ覗き込んだ隊員は、すぐさま距離を取って同僚たちへ合図を送る。
黒い粉末ブラックトナーの影響対象一体。影響可能性対象一体。計二体です」
 一同はヘルメットから特殊奇禍用シールドを降ろし、20式自動小銃を構えた。
 通常弾が一発。フロントガラスを貫いて、女性の眉間に着弾した。
 続いて、白銀弾が十五発。後部ドアを串刺しにしつつ、中身に命中した。たちまち車内に黒い粉末が満ちる。弾痕から漏れ出るそれに触れないよう、隊員たちは距離を取った。直後に消化剤のような白い泡を撒き、一連の作業を終えた。
「お次は徒歩だぞ」
 誰かが言う。
 見れば、川沿いの県道を走ってくる人の姿がある。今にも転びそうなほど前のめりだ。その後ろから二人。さらにそれを追っているのは……。
「影響可能性対象三体接近中。その後背に影響対象一体を確認」
 SDIRの隊員たちは、再びシールドを下ろし、銃を構えた。

 気がつけば、東の山あいからも、西の川沿いからも、銃声が聞こえている。

 第二話へつづく

 こちらはジャンププラス原作大賞応募用に再投稿したものです

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城戸 圭一郎
電子書籍の表紙制作費などに充てさせていただきます(・∀・)