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簒奪者の守りびと 第二章 【1,2】

第二章は8シークエンス構成です。4日連続更新。
<3,600文字・目安時間:7分>

簒奪者の守りびと
第二章 交叉


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【1】

 オリアがふたりを見つけたとき、王宮は象牙色を取り戻しつつあった。黒海由来の水蒸気が雲となり、南から北へと流れてゆく。朝陽は、それら雲の底を黄金色に照らしていた。
 ミハイは短いながらも幾度か眠りに落ちたようだが、ラドゥはそうもいかない。緊張感を絶やすことなく、少年を見守り続けた。交代を呼ぶこともできたが、なぜか彼は終始そうする気にならなかった。
「本当に来てくださるとは思いませんでしたよ。ニクラエさん」
 丸眼鏡そのものが微笑んでいるように感じる。「青い日傘亭」の老店主はなにも聞かず、三人をテラスへ案内した。
「お仕事は、やっかいなことにならなかったようですね」
 ラドゥは無意識のうちにミハイの顔色を伺った。
「いやぁ、まあ。順調です」
「それはなにより。では、お焼きしましょう。三人ぶん」
 少し肌寒い。植え込みの枝葉がなめらかさを感じさせるのは、朝露がまだ残っているからだろう。老店主が芝生を踏むと、小さな羽虫が一匹、驚いたように飛び立った。
「良い場所だ」
 ジョンブリアンの輝きはフードに隠されている。朝陽を浴びればさぞかし美しいだろうと、オリアは思った。
「共感していただけて嬉しいかぎりです」
「しかし、こんなにのんびりしていて良いのか」
「ご心配ですか?」
「いや。私が気にすることではないな。たしかに」
「トルコ外相の訪問が予定されています。少なくとも午前中は、襲撃者のことを警戒する必要はありません。むしろ、いまは食事を採っておいたほうが良いのです。ゾフたちにもそのように伝えました」
 ミハイは納得したように頷いたあと、背もたれに体重をあずけた。
「私は食べないぞ」
「そんなこと仰らずに」
 オリアはやや身を乗り出す。
「もうずいぶん長いことなにも召しあがられていませんので、そろそろ。二日前にクラッカーをひとかけら食べただけです」
「それも、無理に口に押し込まれただけだ」
 ミハイは苦笑する。
「私のぶんは不要だ。おまえらは任務があるのだから食べるがいい」
「王太子どの」
 ラドゥは手のひらでオリアを制する。
「その呼び名は、ここではやめよう。誰もいないとはいえ、余計な気を引きたくないし、店に迷惑をかけたくない」
「もっともだ。では廃王の子と呼べ」
「王太子どの」
 ラドゥとオリアの声が重なり、ふたりは顔を見合わせる。たしなめられたミハイは、紺色のパラソルを仰いで笑った。
「都合が悪いなら、そのまま名前で呼ぶがいい。ミハイという名はさして珍しくもない。そこの角のタクシードライバーもミハイで、この店の配管工事をしたのもきっとミハイだ。今後はそう呼べ」
「おまたせしました」
 銀色のトレイを両手で持って、老店主が戻ってきた。
「イングリッシュマフィンと、紅茶です。今朝はアップルティーにしました」
 テーブルが華やかになった。少しだけ焦げたマフィンの表面から小麦が香りたつ。空気を含んだ卵のほの甘さと、添えられたサラダのドレッシングから漂う酸味が混ざって鼻腔をくすぐる。そして紅茶が注がれると、林檎の包容力が彼らをやわらかく抱いた。
「シオンベリーのジャムはこちらに」
 小さな陶器の入れ物を置き、老店主は「ごゆっくりと」と微笑んで去っていった。
「……美味しそうですね」
 オリアの目が輝いている。ラドゥはなぜか誇らしい気持ちになった。
「さぁ、食べましょう。王太……ミハイ、一食くらい召し上がったところで、あなたの信念を疑うものはいません。遠慮は不要です」
「遠慮など……していない。馳走されるのがイヤなんだ」
「馳走だなんて。奢っているつもりはないですよ。私も任務ですから経費として回収します」
 喋りつつ、ラドゥはイングリッシュマフィンの内側にジャムを塗る。その手をミハイの視線が凝視している。
「いくらだ」
「銀貨一枚」
「……貸してくれるか?」
 ミハイは金銭の所持が許されていない。
「……貸したら、食べてくださるので?」
 なにも答えないが、唾を飲み込んだのがわかった。
「では、私のポケットマネーからお貸ししましょう。返済は、任務が終了したあと。そうですね。あなたが無事に独り立ちなされて、私たちが友人になったときで結構です」
 ラドゥから陶器の入れ物を奪い取ったミハイは、シオンベリージャムを自分のマフィンに塗りはじめた。オリアとラドゥはふたたび顔を見合わせた。
 少年は、紅茶の湯気が消えるより先に、皿を空にした。

【2】

 異変に気づいたのはリャンカが早かった。ミハイの脱走劇により、屋根からのアクセスが容易だと知った彼女は、夜のうちに体感センサーを配置していたからだ。聴覚と気配によりゾフが襲撃者の来訪を悟ったのは、リャンカに遅れること六秒だ。
 階下にいたゾフは銃を構えて事務室へ向かった。開いたままのノートブックを抱えたリャンカが立っている。言葉を交わさずに、ハンドサインだけで会話をし、ふたりは頷いた。
 襲撃者にしてみれば、すべてが予想通りになるとは考えていなかったに違いない。どのような不測の事態にも対処できるよう心構えをしていたことだろう。それにしても、自分たちが二階の事務室に降り立った直後に、一面が炎に包まれることまでは覚悟していなかった。
 事務室の四隅に設置されていた仕掛けは、もはや火炎放射器に分類されるべきだった。構造はコンクリートでも内装は木材が多い。炎は床と壁を舐め、天井を炙る。三人の襲撃者にとって、熱から逃れることが最優先課題となった。階段を転げるようにして一階に到達したとき、襲撃者たちは中途半端に開いたシャッターから、アウディとフィアット走り去っていくのを目撃した。

 ラドゥたちは「青い日傘亭」で朝食代を支払っていた。老店主と雑談を交わそうとしたラドゥは、聴き慣れたエンジン音が朝の静けさを破りつつ接近してくるのに気づいた。確認するまでもない。オリアと一瞬だけ視線を交錯させ、ミハイを守りつつ店外に出る。直後、アスファルトをタイヤで押さえつけて、アウディの車体が急停止した。ラドゥはミハイを後部座席へ押し込む。運転席は左側にある。ミハイはゾフの後ろに位置し、その隣にラドゥ。オリアは助手席に飛び乗った。
「リャンカはどうした?」
 背中に強いGを感じつつ、ラドゥは問う。空に黒煙がのぼっている。セーフハウスを処分した証だ。
「おす。別ルートを。分散しました」
「追跡者の数は?」
「こちらは四台。リャンカのほうは不明です」
 ラドゥは振り返る。
「……実にわかりやすいな」
 静かな街並みに不似合いな黒いセダンが続々と追ってくる。トヨタのアベンシスだ。郵便配達人が、駆け抜けていく車列を呆然と眺めている。
「その先でビイロル通りに出ようと思います」
「そのほうが良いな」
 大型車に進行方向を塞がれないよう、複数車線のある通りへ向かう。交差点の信号は赤だが、突っ切るしかない。ゾフはクラクションを連打し、減速する意思がないことを歩行者へ伝えると、さらにアクセルをふかした。
 横断歩道に差し掛かると同時に右にハンドルを切り、ドリフトをかける。白煙を上げながらすべる車両に驚いた女性が、持っていったコーヒーを路上にぶちまけた。片側二車線のビイロル通りはまだ混雑が始まっていない。左から流れてくるトラックとタクシーの間に、アウディが滑り込む。後輪を制御し終えると同時に、ゾフはアクセルを開き、レーンを変えてトラックを追い抜きにかかった。そのころにはアベンシスが姿を見せている。周囲を威嚇しながら、無理矢理に割り込んだため、後方の車列が乱れはじめた。
「ミハイ。頭を低く」
「私はこのままで良い」
 トラックを追い越したあと、元のレーンに戻ったアウディは、さらに銀色のセダンをパスする。次のタクシーに迫ろうとしたとき、後方のトラックが突然蛇行した。運転手が制御しようと努力する姿が見えるが、その甲斐なく街路樹に激突した。替わるようにして、アベンシスが姿を現す。
「タイヤを撃ったようですね」
 オリアが言う。
「荒っぽいな」
「市民に害を及ぼすとは感心せんな」
 ミハイが後方を睨みつける。
「狙いが私ひとりなら、市民を巻き添えにする必要はあるまい。ラドゥ、車を止めろ」
「そういうわけには参りません。任務ですからお守りします」
「それを言うなら私にも任務がある。この国の民を守ることだ」
 ラドゥは反論しそうになり、慌てて口をつぐんだ。
「追ってくるのもこの国の民なら、傷つけるわけにはいかない。私が降りれば済むことだ」
「あれはこの国の民ではありませんよ」
 バックミラーを見やりつつ、オリアが言った。
「雇われた者たちだと思われます。一種の傭兵です」
 目を見開くミハイ。
「傭兵が民を傷つけているのか!」
 そのとき、ラドゥの携帯がリャンカからの着信を知らせた。


つづく

ヘッダー画像は安良さんの作品です!Special Thanks!!


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城戸 圭一郎
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