簒奪者の守りびと 第六章 【1,2】
簒奪者の守りびと
第六章 思惑
【1】
現王が野心を抱きはじめたのが果たしていつからだったか、バラン儀仗長は思い出すことができない。近衛と侍従を兼ねる立場でありながら、ヴィクトル・ネデルグの策謀を見抜けなかった自身の不甲斐なさに身悶えがする。
中ほどより下は、まだパウル一世に仕えていたときのものだろうか。鏡に映るモスグリーンの長い頭髪を眺めつつ、彼はそんなことを思った。
「パウル一世陛下のお加減はいかがでしょうか」
そう問いかけてくるネデルグ卿の笑顔を、バラン儀仗長はすぐに思い出せる。回復を信じる臣下のそれと、友への気遣いと、王国の将来への憂いが絶妙なバランスで混合されていた。それでいて、後年からは考えられないほど溌剌としていた。振り返ればあの頃こそが、ネデルグ卿のピークだったのかもしれない。
調べはついている。パウル一世の衰えが急速に進んだことにも、王妃マリアが難病を発したことにも、ヴィクトル・ネデルグが関わっていた。ナスカの地上絵は、地面に立つとその存在に気づくことすら難しいらしい。遠く見下ろしてはじめてそれを認識できる。それと同じだ。渦中にある者たちは、バラン自身も含めて、誰も気づかなかった。
丸眼鏡を外し、クロスで拭う。鏡に映る自身の姿がぼやける。
しかし、それにしても。王と王妃、ふたり同時に魔手を伸ばしていたとは。
パウル一世を衰えさせれば、側近であり友人であるネデルグ卿がそれを補佐するのは自然だ。さらに聡明なる王妃も病に倒れれば、王国の未来を案じる人々はネデルグ卿を宰相に推すに違いなく、現にそうなった。
振り返ってしまえばシンプルだが、その実行には周到な準備が必要だ。ネデルグ卿は手下のヴァシーリエブナ博士の頭脳を利用した。いちど始めてしまえば後戻りはできない。パウル一世の「衰え」を周囲が感じるようになるずっと以前から、それはスタートしていたのだろう。
順調のはずだった謀略に誤算が生じたのはいつか。バラン儀仗長の記憶のなかで、ネデルグ卿の溌剌さが褪せはじめた頃合いははっきりしている。マリア妃の崩御がそれだった。その時期、全臣民のうちでバラン儀仗長とネデルグ卿がもっとも多忙だったが、疲労とは異なる色合いを、宰相の表情筋は帯びていた。
パイロットの世界には離陸決心速度という概念があるらしい。離陸には様々な危険が伴う。わずかでも懸念があれば中止の決断が求められるが、ある一定の速度を超えると止めるほうが危険になる。それを超えた航空機は、どのような異常が発見されても離陸するしかない。マリア妃の死をもって、離陸決心速度を超えたのではなかったか。躊躇や後悔が生じていたとしても、止めることはできなかったに違いない。
全国民がマリア妃の死を悼んだ。いかに彼女が愛されていたか、肺腑にしみて知らされることとなったその数日間のことは忘れられない。ネデルグ卿にとってもそうであったろうが、もはや純粋な涙など流れようはずもない。彼から溌剌さを奪ったものは、なんのことはない、彼自身の愚かな振る舞いだったのだ。
それ以降、ネデルグ卿の笑顔には翳がさすようになった。
「失礼いたします」
家政婦長の声だ。
「陛下がお呼びでございます」
いつもより時間をかけて眼鏡をかけなおし、表情を隠す。
「そうか。わかった」
ヴィクトル一世となったネデルグ卿にとって、儀仗長の首をすげ替えることなど容易い。いまは傅いておいたほうが良いと、バラン儀仗長は考えていた。
機会はなんらかのかたちで訪れるだろう。それまで、怪しまれないよう懐ちかくに居続けることが大切なのだ。
【2】
ティラスポリスにはロシア軍が駐留している。
十五年前の独立戦争は、自前の兵力だけでは到底戦い得なかった。スミルノフ率いるティラスポリス軍と、ロシアからの援軍とは、ほぼ連合軍と呼んで差し支えないほど緊密に連携した。
戦後も、ドニエスティア王国との軍事バランスを保つために、ロシア駐留軍の存在は不可欠だった。現在でも「ドニエ川東岸地域ロシア平和維持部隊」という名称で駐屯している。
「このようところにお招きして申し訳ない。ハーリン少将閣下」
スミルノフは両手を広げて歓迎してみせた。相手は長身で、軍人のわりにはやや痩せていた。
「大統領閣下。しばらく連絡が乏しかったので、友情が消えかけているんじゃないかと心配しましたよ」
「いやいや、なにを。私のような凡人は雑務から解放されることがありませんでな。忙しくしているだけです」
「ほう」
この夜、スミルノフがロシア駐留軍の司令官を招いたのは、大統領府ではなかった。小ぶりなホテルの外観をしたこの建物は高級娼館であり、最上階スイートルームのさらに上階、限られた者しかアクセスできない部屋にふたりはいた。ホストに葉巻を勧められた少将はゆっくりとそれに火をつける。部屋は薄暗い。
「……ドニエスティアの元王太子が逃げ込んできたのを雑務と呼べるとは、さすがの胆力と言うべきでしょうな」
「なに、年齢を重ねて鈍くなっただけですよ。若い頃のように慌てふためくことがなくなりましてね」
「老け込むようなことを言われては困りますな。私も閣下と歳はそう変わらない」
終戦直後に二個旅団を数えたロシア駐留軍も、時代がくだっていまや千人程度の小規模なものになっている。仮に出世コースから外れた地位だとしても、将官のポストが減ることは高級軍人にとって歓迎すべきことではない。そのため、いまでもロシア駐留軍司令官には少将があてられていた。出世を遠望するだけとなったハーリン少将にとって、残された愉楽は私欲を満たすことだけだった。
「副司令官どのもお招きしたはずですが、お姿が見えませんな」
「彼はまだ若い。下で楽しんでいるよ」
「なるほど。ご招待した甲斐がありました」
「で。今夜の主題はなんですかな」
「おわかりでしょう、少将閣下。少し心配事があるのです」
「選挙のことでしょうな」
スミルノフは曲者だがバトゥコなら御し易い。ハーリン少将はそう考えていた。ティラスポリスの政権を入れ替え、バトゥコに全てを握らせる。そして自分が裏で糸を引く。この半独立の中途半端な土地だからこそ、影の王として君臨することができるかもしれない。
「選挙はバトゥコ氏が優勢と伺っておりますが、違いますかな」
少将の口角がわざとらしく左右にのびる。
「それはどうでしょうな。しかし、バトゥコの最大の支援者である少将が仰るのですから、真実なのでしょう」
「私の立場は中立ですよ。選挙に対してなんの影響力も持っていない」
少将の吐き出した煙が、スミルノフの顔面にあたって複雑な渦を巻く。天井の小さな直接照明がそこに縞模様を書き加えた。
「その言葉、前半には賛成できませんが、後半には同意します」
煙の縞模様が消えた。少将のくわえる葉巻の火だけが、彼の混乱をあらわすように暗闇のなかで左右に行き来している。照明が落ちている時間はわずか四秒に満たなかったが、その間にハーリン少将は兵士に囲まれていた。
「大統領、これは?」
「あなたを拘束します」
葉巻が床に落ちる。
「そんなことが許されるとでも?」
「もちろん。警察権を行使するだけです」
「罪状は!」
「買春……ですかな」
駐留軍司令官は罠に落ちたことを悟り、文字どおり吼えた。
「これからは選挙に対する影響力を持てない場所でお過ごしください」
その夜、高級娼館そのものが摘発され、建物内にいた全員が捕縛された。