簒奪者の守りびと 第七章 【7,8】
簒奪者の守りびと
第七章 緋の雲海
【7】
王都より南には大穀倉地帯が広がっている。芒洋とした平地と、東西ふたつの大河によってもたらされる水資源が、農業に適した土地をつくっていた。ネデルグ家の領地であるドロキアが、古くから西の隣国との交易で栄えたのと同じように、黒海経由の交易によって名を上げた都市がいくつもあった。
南部ソフィア地方に属する都市クロクシュナは、それら交易都市のうちのひとつだった。対岸のセベリノヴカと一体となって発展し、十五年前の戦争で分断されるまでは、国内第三の規模を誇っていた。存在感がやや低下したとはいえ、現在でも重要な貿易港であることは変わりない。
そのクロクシュナの守備隊司令部に、ミハイたちはいた。手錠こそかけられていないが、武装は解除され、男女別に拘禁されている。
「……必ずなんとかします」
その決意を否定するかのように、コンクリートの壁がラドゥの声を跳ね返す。夜明けを待って東岸に上陸すべきだったと後悔したが、時はすでに遅い。
「エマたちは無事だろうか」
ミハイは壁に背をつけたが、すぐに離した。あまりにも冷たかったのだ。
「スミルノフ大統領の身内だと告げたので、ひとまずは安全でしょう。強力な交渉カードになりますから」
「オリアと、私たちはそうもいかんが」
「……はい。反逆者ですからね」
監視の兵士が扉を開け、上官の到着を告げる。
その人物が姿を現したとき、ミハイはまず茜色の髪に目をひかれた。毛量の多いそれが高い位置で束ねられている。次に、左目の下から耳にかけての大きな傷痕に視線が移った。最後に、直線的な眉の下にある瞳を見た。それは強い光をたくわえていたが、少年の視線を受け止めると同時に、ほどけるように柔らかくなった。
「いやぁ、びっくりしたよ。向こう側にいるとばかり思ってたもんで。まさかうちの守備兵に捕まるとはねぇ。迎えにいく手間が省けたのかもね」
ラドゥはミハイと顔を見合わせた。
「申し訳ないが……その、貴官はどういう立場で」
「シモナ・マリア・ブルンザ中佐。このクロクシュナの守備司令官を務めている。今をときめくクリスチアン三世陛下の御親兵ってことですよ。立場上はね」
中佐は、片目だけつぶってみせた。
「戦争をやる王様ってのはとかく臣民から人気がないもんでね。この南部では反感を持つやつが多いんだ。もともと西のネデルグ家とは反りが合わない土地だから余計にね」
ラドゥは脳細胞をフル回転させる。
「……すると、貴官は私たちの味方なのか」
ブルンザ中佐は大口を開けて笑い出した。
「そりゃあいい質問だ!」
笑いがおさまったとき、彼女はミハイに向き直った。澄んだ瞳で少年を見つめる。その手は自身の左胸にあてられていた。
「王太子殿下、お帰りをお待ちしておりました。我々は勇者アルセニエの子孫に忠誠を誓う者です」
ミハイは懐かしさを感じ、少し戸惑った。忠誠心という言葉では表現しきれない。もっと別のなにかが、中佐の声には含まれていた。
「……母を、知っているのか」
「このあたりで知らない者はいないでしょう。マリア妃は本当によくしてくだいましたから。戦争のあと、ここら一帯はひどい有様で」
ひとつの都市だったクロクシュナとセベリノヴカは、その性質上、激戦地にならざるを得なかった。両岸を支配下に置こうと、両陣営は一進一退し、それを繰り返すごとに街が破壊されていった。たまたま暮らす場所が東西に分かれていたというだけで、親兄弟で銃弾を交わした兵士たちもいた。
だがより深刻な問題は、農地が踏み荒らされたことだった。川の東西に広がる農園が住民たちを潤していたが、軍用車両はそれらを踏み潰してしまった。また、敵に利用されるのを恐れて、すべての漁船を沈めてしまっていた。
戦争終結後、いち早く平和を享受しはじめた王都の輝きは、南部の人々にとって眩しすぎたに違いない。地面に鍬をいれ、金属片が見つかれば取り除き、種を蒔く。水辺にただよう油を吸いとり、あたらしい漁網を編む。瓦礫のなかに割れていないレンガを見つければそれを集め、建物の穴を塞ぐ。彼らにはやるべきことが多くあった。
「私らがくじけなかったのは、マリア妃が南部を見捨てなかったからです」
ミハイは、指先が暖かくなるのを感じていた。
【8】
「ほら、挨拶しなさい」
ブルンザ中佐の腰裏から、九歳の女の子が姿を見せた。恥ずかしそうに小さな声で「こんばんわ」と呟く。
「この子は末っ子でね。照れ屋なんだよ」
中佐の自宅はクロクシュナの港から坂を登ったところにある。一階の食堂を賑わしているのは、大半が海の男たち、残りが農夫たちだった。
守備司令部でミハイを匿い続けるのは無理があると、中佐は一行を自宅に招いていた。
ダイニングテーブルに次々と料理が並ぶ。エマとオリアは目の輝きを隠すことができなかった。運んでいるのはブルンザ中佐の息子たち。十八歳の長男はもう父親とならんで厨房に立っていると語った。
「じゃあ、この料理も君がつくったのか?」
「いえ、大事なお客様にお出しする料理だからって、作らせてもらえませんでした」
唇を尖らせる長男を尻目に、次男はグラスを並べてゆく。そして三男がワインを注ぎにやって来た。次男は茶化すように弟に声をかける。
「こぼすなよ。ミハイ」
茜色の髪の少年に、全員の視線が集まった。
「……そんなに見られたら緊張するよ」
「……すまない。気にしないでくれ」
ミハイと呼ばれた少年は、ワインボトルを傾けてラドゥのグラスを満たした。
子どもたちが下がったあとで、ブルンザ中佐は打ち明けた。戦後の復興がようやく落ち着きをみせたころ、三番目の子どもを身ごもったこと。ちょうど同じころ、マリア妃の懐妊が発表され、無事に生まれたら同じ名前をつけようと決めたこと。
「慕っていたんですね」
オリーブの実をつまみながら、ローザが言った。
「そりゃあもう。学校、病院、保育所、施設だけじゃなくて仕事まで与えてくださった。私らに必要だったのは、子どもを育てていける未来だったから。あの方はそれをわかってた」
窓から、坂の下に広がるクロクシュナの街並みがよく見える。
「だから、みんな同じ気持ちだった……あの夜は」
マリア妃が力尽きたという知らせが、クロクシュナに届いた。多くの者は、いつかこの日が来ると覚悟していた。しかし、実際に彼女の去った世界に取り残されてみると、その喪失感は凄まじかった。人々は、自分の胸だけではそれを抱えることができないと悟り、悲しみを共有しようとした。
最初に蝋燭を手にしたのは誰だろうか。石畳を照らすその弔いの火は、次第に数を増やしていった。人々は火が照らす見知った顔を見て、安心し、悲しみを語り合い、そして蝋燭を持ち、歩いた。ひとつ大きな通りに出ると、たくさんの顔がある。扉が開き、新しい顔と新しい火が増える。そうして街にいる全ての人々が通りに出た。
そのときだった。クロクシュナの街全体が停電したのは。王都の電力供給を優先するために南部が遮断されたのだ。街は暗闇に包まれる、かと思われた。しかし、そうはならなかった。
蝋燭が照らしていた。それを持つ人と、隣にたたずむ人の顔を。家々を、道を、街路樹を。
その夜、クロクシュナに地図は不要だった。あらゆる道が光になって浮かび上がっていたからだ。大通りから路地に至るまで、街に息づくすべての人々が、想いを光に託していた。
「あのときは曇り空だったんだよ。だから本当は空は真っ暗のはず。だけど見上げるとね、うっすらと見えるんだよ。オレンジ色に。街中の蝋燭のあかりが、空に届いていたんだろうね」
ミハイは理解した。
ヴィクトル・ネデルグはそれを見たのだ。
あの男が恐れたのはバラウルの背骨などではない。人々だ。人々の想いを恐れたのだ。これほど愚かなことがあるだろうか。人とともにあるべき王が、人に恐怖するとは。
空には、星が出ている。クロクシュナの空気は澄んでいた。
第七章 完