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簒奪者の守りびと 第五章 【5,6】

第五章は8シークエンス構成です。4日連続更新。
<3,100文字・目安時間:6分>

簒奪者の守りびと
第五章 対敵

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【5】

 食堂は広いだけの空間だった。食卓にあたるものはもはやない。壁に沿って残るいくつかの残骸だけが、兵士たちが集っていた往時を思い起こさせた。
 エマはその中央にいる。ふたりの男に挟まれるようにして立っていた。
「逃げるなんて正気じゃないぜ。じっと部屋で待ってりゃよかったのによ」
 手首までタトゥを掘り込んだ男がエマを睨む。
「……退屈だから」
「そうかい。お祭り騒ぎが始まってよかったな」
 前歯のない男が神経質そうに片頬で笑った。
「俺はさ、おまえの伯父さんはおまえを見捨てると思ったね」
「は? なに言ってんの?」
「スミルノフにバトゥコと争う覚悟なんてねぇよ。ただの麻薬屋だろ」
 エマに睨まれても、男は気に留めない。
「たとえ戦争になってもうちの首領が勝つに決まってんだ。ロシアはもうこっちについてるからな」
 エマは男の足を蹴りつけた。男は「おいおい、よせよ」と笑いながら彼女を平手打ちした。エマはその場に尻もちをつく。
 そのとき、奥から物音がした。そこには厨房として使われていた空間があるはずだった。ただし奥までは光が届かず、暗い。
「おい。見てこいよ」
「俺が? しょうがねぇな」
 前歯のない男が向かう。銃を構え、生唾を飲み込み、慎重に近づいていく。やがて男の前に現れたのは、アッシュグレーの長髪だった。
「トゥス! 無事だったか」
 言ってから男は後悔した。無事と呼べるような要素はどこにもなかったからだ。トゥスの上半身は赤黒く染まり、口角からは絶えず唾液まじりの血が流れている。足はふらつき、まっすぐ立つことができない。ただ、愛用の拳銃を二丁、両手に握りしめていた。
「ひょっとして煙突穴から降りてきたのか。ずいぶん無茶したな」
 肩を貸そうとした前歯のない男は、しかしトゥスに触れることはできなかった。二丁拳銃の乱射によって心臓を吹き飛ばされたからだ。
「よせ! トゥス!」
 タトゥの男が大声を発する。トゥスの目はどこにも焦点を結んでいない。ほとんど視力が失われているのだろう。聴力も似たようなものかもしれなかった。
「味方だ! 撃つな!」
 しかしなお連射は続き、男の顔面に銃弾がめり込んだあとでようやく発砲は止まった。
 酸素量の低下したトゥスの脳は、もはや意識を維持することはできなくなっていた。ただ本能のままに立ち、気配を察した方向へ引き金を引くだけだった。エマが最初の銃撃で死なずに済んだのは、単にしゃがみ込んでいたからに過ぎない。そのエマが、血濡れた獣から遠ざかろうと必死に足を動かしたのも自然な反応だと言える。そして、死にかけの男がそれを察知した。
 エマは見上げた。ふらつきながら、一歩づつ近づいてくる男を。
 後ろ手に縛られたままの彼女は、立ち上がることもできない。
 男の口角からあふれた赤黒い泡が、エマの足を汚した。
 ふたつの銃口が向けられ、少女は目を閉じる。
 少年がたどり着いたのは、まさにその瞬間だった。
 泥まみれのジョンブリアン。その持ち主は、ゾフから受けとった拳銃を両手で握り、トゥスに照準を合わせていた。
 引き金を絞る。少年にとって初めての動作だった。
 初弾がトゥスの鳩尾に吸い込まれる。二発目は左胸に。三発目は右鎖骨に。トゥスは後退りしてゆく。四発目、五発目。銃弾が次々にエマの頭上を飛び越える。六発目、七発目。トゥスの両手から拳銃が滑り落ちた。八発目、九発目。弾倉が空になっても、少年は指に力を込める。
 もはや沈黙した銃口。ミハイはそれでも動作を続ける。トゥスを殺さなければならない。その意識だけが少年を突き動かしていた。
 彼がそれをやめたのは温度を感じたからだ。少年の手に、大きな手のひらが添えられた。太く力強い指が、やさしく、銃をおろさせる。
「じゅうぶんです。ミハイ」
 肩にも同じ温度を感じる。
「ヤツはもう死んでいますよ。立ったまま」
 ラドゥの声で、ミハイは自分を取り戻した。
 死者と生者しかいないこの部屋で、少年はもうひとりの生者に向かって駆け出した。地面に転がったゾフの拳銃をラドゥが拾いあげたとき、警官隊が堰を切るようにしてなだれこんできた。

【6】

 武器密売組織「タチカ」の総領バトゥコは、トゥス一味による誘拐事件について、遺憾の意を表明した。彼はトゥスらの遺族たちにじゅうぶんな金銭を与えて弔意を示す一方、殉職した警官たちの遺族にも見舞金を支払った。
「余裕があるね」
 魔女の言葉を、スミルノフは否定しなかった。
「ヤツには国家運営の重荷がないからな」
「警察の上層部にだって厚い封筒を送ってるだろうよ」
 防弾ガラスの車窓を、古ぼけた建物が流れていく。
「あんたの姪っ子が無事だったのは結構なことだ。トゥスとかいう若造は確かに跳ねっ返りだったんだろう」
「ふむ」
「マリアの息子が助けにいかなかったら、どうするつもりだったんだい。あの子が動いたからこそ、警護班も動いたんだ」
「誘拐事件は警察の領分だ」
「つまり、三姉妹が二姉妹になってた、ってことだね」
 スミルノフの横顔は変化しなかった。
「……私が恐れているのはヘビではない。ヘビ使いだ」
 魔女は視線を外す。窓の外には、モニュメントとして保存されたT34型戦車が砲身を空に向けていた。その向こうにあるアパートメントでは、ひび割れたベランダで、洗濯物が弱い日差しを浴びている。

          ◇

 ミハイの行動の変化は歓迎すべきことだったが、ラドゥは新たな問題に直面することとなった。彼は乗馬ができないのである。
「しょうがないなぁ、班長。あたしが代わりますよ」
 リャンカが手綱を引くと鹿毛馬たちまち素直になった。
「毎度、すまない」
 リズミカルに揺れる浅緋色のボブカットを見送りつつ、ラドゥは首を捻った。どの馬も彼を拒絶するのである。もちろんいまに始まったことではなく、陸軍時代からラドゥの乗馬下手は有名だった。
 エマから手ほどきを受けたミハイにもあっという間に追い越され、ラドゥの乗馬スキルでは遠乗りの警護ができなくなった。そのため、他の警護班員たちの出番が多くなった。
「まぁいいじゃありませんか。バカンスなんですから」
 オリアはそう言って笑うが、ラドゥはそこまで割り切れない。
「警護班長が警護対象に追いつけないというのはどうも……」
「そうおっしゃるのは、メンツの問題ではないのですよね?」
 面白そうなオリアの微笑みに、ラドゥは頭を搔くしかない。ミハイがもっとも楽しそうにしている瞬間に立ち会えないのが悔しいのだ。
「肩の荷を下ろせる時間だと思うことにしよう」
 そう言いつつも、練習用の老馬に近づいていく上司を、オリアは声を出さずに笑って見送った。
 風が、冬を運んでくる。ある者は、そこに火薬の匂いを感じ取ったかもしれない。暖かい季節が来るまえに選挙が執り行われ、見渡す限りの官製農場と、大統領府の所有者は交代するに違いなかった。
 これまで「武器」と「麻薬」という二種類の生産権を、同一の権力者が握ったことはない。力を分散させたいロシアの意図によるものだ。しかし、麻薬の権力者であるスミルノフは切り捨てられようとしている。バトゥコが大統領に就任すれば、初めてそのふたつを統べる実力者が誕生することになるだろう。それはロシアが望まなければ起こり得ないが、東欧の羅針盤は確実にその方向を指し示していた。

つづく

ヘッダー画像は安良さんの作品です!Special Thanks!!


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