簒奪者の守りびと 第六章 【3,4】
簒奪者の守りびと
第六章 思惑
【3】
首都の南東に位置するシブカという街。そこに至るおよそ中間地点に、ロシア駐留軍の駐屯地がある。ティラスポリス軍はそれを急襲し、夜間戦闘をしかけた。ハーリン少将の捕縛成功から二十分しか経っていない。
駐留軍の将兵たちは当初、目の前の光景を信じなかった。歩哨ですら、その爆発を事故だと誤認し、消火すべく持ち場を離れる始末であった。攻撃に曝されていると認めたあと、彼らはより狼狽した。この地域において、狩る側であっても狩られる側にまわることはないと信じていたからだ。ところがいま銃口と砲口を向けられているのは紛れもなく駐留軍だった。反撃すべく、掻き集めたプライドを杖にしてどうにか立ち上がる。しかし、司令官と副司令官はどこにもいない。現場レベルで矛盾する指示が飛び交い、右往左往を繰り返した。
やがて朝日が昇ると、完璧な包囲下に置かれていることを認め、駐留軍は抵抗を諦めた。
◇
「それでは予定どおり、武器密売組織タチカ制圧作戦に移ります」
敬礼して去る参謀長の背中を見送ったあと、スミルノフはミハイを振り返った。
「もっともやっかいなシナリオはわかるかね。我々とバトゥコの争いに、駐留軍が介入してくることだよ。平和維持のためとでも言えば、理由はいくらでもつけられる」
「……駐留軍が残っていたらバトゥコの味方をしただろうな」
「そう。バトゥコの勢力地域はご覧のとおり」
地図はティラスポリスの南部地域を指している。おおよそ平坦な土地に数本、ドニエ川の支流が伸びる。そのうちのひとつを跨ぐように広がる街は、このあたりでは目立つ規模だ。
「この街はコロソバという。なかなか歴史のある街だ。古くは製鉄などで栄えたが、この小さすぎる川では重工業に移行できなかった。廃れてからは百年は経つが、それでも町工場などが立ち並んでいるよ」
「そこが敵の本拠地か」
「そう。バトゥコ自身がもとは工場作業員だ」
コロソバの北と北西にふたつの小さな街がある。ジュラとハラバという。倉庫や廃工場の多いこれらの街は、武器密輸の中継地として絶好の条件だった。この三つの街をタチカは支配下に置いている。
「我々が真正面からバトゥコとぶつかれば、駐留軍は我々の背後を衝くことができる。逆に、大統領府に部隊を向かわせることもできる。やつらは実にイヤな位置に駐屯していたのだよ」
「彼らだけで駐屯地を決めたわけじゃないだろう」
「そのとおり。私も決定に関わっている。王国という共通の相手に対しては、私たちは同志だったからな」
スミルノフは過去形を用いた。
「さて、君なら次はどうする?」
ジュラとハラバ、どちらを攻めるべきか問われたミハイは、ハラバを指した。
「なぜそう思う」
「ハラバのほうが街の規模が小さい。ふたつの街は近いので、攻め落とすのに時間をかけると増援が来てしまう」
「ふぅむ」
スミルノフはあごに手を当て、整えられた髭を撫でた。
「それも悪くはない。だが、実はジュラのほうが早く陥せる」
ミハイの瞳が好奇心を返す。
「道路の整備状況が違うのだ。ハラバへ続く道は未舗装が多い。橋も粗末で、重い戦闘車両は通過できない。幹線道路を進軍できるジュラのほうが兵力の集結が容易なのだ。だからジュラを先に攻める」
ミハイは大きく頷いた。
◇
バトゥコの命を受けたタチカの構成員は、商品になるはずだった武器を携えて防衛線を敷いた。だが彼らはあくまで商人であって、軍人ではなかった。軽火器ならともかく、重火器の扱いに慣れている者は少ない。幹部たちは「駐留軍に良い思いをさせてきたのは、このときのためだというのに!」と呪いの言葉を吐いたが、事態の好転にはなんら寄与しなかった。
一部の無鉄砲な男たちの蛮勇が、正規軍に多少の出血を強いたが、波濤を手のひらで止めるようなものだった。彼らが火煙のなかに倒れると、正規軍の悠然とした歩みに同調するかのように、タチカは後退していった。
ジュラはわずか一日で陥落した。
【4】
汗を流したあと、シャワールームで髭を剃っていたら、鏡のなかに老婆が立っていた。ラドゥは警護班長にあるまじき反応をし、魔女はそれを鼻で笑いつつ、バスタオルを投げつけた。
「カギが開いていたよ。無用心だね」
そんなはずはないと思いながらも、ラドゥはそれを腰に巻きつける。
「な……なんのご用で?」
返事の代わりに、釣竿が飛んできた。
官製農場の丘をひとつ超えると、小川が流れている。低緑樹の藪を抜け、苔の生えていない石を選んでふたりは腰を下ろした。ときおり、太陽が背中を温めてくれるが、あまり長くは続かない。水面も、きらびやかな時間と染みつくように静かな時間を繰り返している。
「ずいぶん良い顔になったじゃないか」
「そうでしょうか」
「マリアの息子の話だよ」
「ああ、ですよね」
糸は垂らしているがアタリは来ない。別にそれで構わなかった。
「自死のことばかり考えていた頃よりは、だいぶやりやすくなりました」
「死にたいやつなんていないさ」
「ええ。生きる目的が見つかったのはなによりです」
「生きるのに目的なんか必要じゃないね。生きたいという本能を否定しなくてよくなっただけさ」
岩かげでしぶきが跳ねた。魚が虫を食らったのだろう。
「あの子は生きていること自体が政治利用されてるからね。馬鹿ならよかったんだろうが、なまじっか賢く生まれてきただけに、葛藤が大きいだろうよ。だがいまは、そんなことどうでもよくなったろうね。良いことだよ」
ラドゥは二度頷いた。
「ネデルグはなにか言ってきたかい?」
「状況報告は欠かしていませんが、特には」
「あの男はもうダメだね」
魔女の横顔はいつもと変わらない。
「始めるとき、何度も確認したんだ。後戻りはできないけど良いのかって。そりゃあ良い男っぷりで『もちろんだ』と答えるんだよ、毎回ね。ところがいざとなってみたら厚みのないこと。なにかあるたびに薄皮を剥ぐように神経が鋭敏になっていったね。本人も、もうどうしたら良いのかわかってないんだ」
しなりはじめた竿を無視して、魔女は話を続けた。
「ネデルグ家に伝わる家訓を知ってるだろ?」
「たしか『正しき者の矛となり、盾となれ』ですね」
「そう。その正しき者とは、勇者アルセニエの一族のことだと言われている。だけどね、それには続きがあるんだよ。『強き者は矛をとり、盾を持て』とね。これは代々ネデルグ家の当主にしか伝えられていない」
ラドゥは口の中でそれらを反芻した。
ふたつの文章が一文を成しているが、それほど違和感のある組み合わせではない。隠して伝えるほどのことだろうか。
「正しき者と強き者を別々に定義しているのは新鮮ですが、それにしたって王家とネデルグ家のことでしょうから、別段……」
「ネデルグ家だって、もともとは王族の分家という説もある。ドロキアを領地として、力を蓄えてきたのは何のためか」
ようやく魔女が竿を上げた。小ぶりのチャブが、まるでルアーのようにぶら下がっている。針をはずすと、魔女はそれを水の中へ戻してやった。しかし魚はすぐに腹をさらし、二度三度と尾びれを動かしたのを最後に、流れのままに遠ざかっていった。
「ネデルグ家の家訓は『王家が正しさ失ったときは、我らがとって代われ』と解釈されている」
魚の白い腹は、水面のきらめきに紛れてもう見つけられない。
「中佐……いえ、ヴィクトル一世陛下は家訓に従ったということですか」
「そういうことになる。馬鹿馬鹿しいね。先祖の愚痴をずっと背負わなきゃならなかったんだからね」
「しかし、代々の当主は実行せずに王家を支えてきたはず。なぜ中佐の代になって」
魔女は片方だけ眉毛をもちあげた。
「それはラドゥ、おまえも知っているはずだ」
心当たりといえば、十五年前の戦争しかない。当時、ドニエ川東岸地区に住む人々は、必ずしも独立を望んでいなかった。にもかかわらず、将来の火種になると踏んだパウル一世は軍を差し向け、戦争をはじめた。結局ロシアの介入を招くという皮肉な結果に終わり、ラドゥは終戦の報を、砲弾で穴だらけになったフルシチョフカで聞いた。部隊を率いていたネデルグ中佐はそのとき、ただ西の空を見つめて動かなかった。
「中佐は、王家が正しさを失ったと判断したのか……」
魔女は立ち上がる。
「さて、あたしは家に帰るよ。こっち側に長居しすぎた」
「山荘に戻られるので?」
「実験動物たちの世話をしないとね。餌やりはオートにしてあるが、さすがにそろそろ様子をみてやりたい。そうそう、マリアの息子にはちょっとした土産を置いとくからね。あんたは精々きばりな」
魔女は釣竿をラドゥに押しつけると、振り返らずに去っていった。