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簒奪者の守りびと 第五章 【7,8】

第五章は8シークエンス構成です。4日連続更新。
<3,900文字・目安時間:8分>

簒奪者の守りびと
第五章 対敵

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【7】

 今夜の月はよほど内気なのだろう。顔を出したかと思えばすぐに雲に隠れてしまう。おぼろげな星明かりと、前をゆくショルネイジリワの尾をたよりに、少年は山道を進んだ。
「寒いね」
「まぁね」
 馬上で交わす会話がそれほど盛り上がるわけではない。八本の蹄の音を、林の木々は吸収しつつ、そしらぬ顔で静寂を保っていた。
 最後の収穫期を迎えるシオンベリーの畑を越えたさらに奥。畑が途絶えたああとも道は続いている。谷筋に沿って縫うようにうねるその道は、舗装こそされていないが、踏み固められ、雑草が伸びるいとまがないように見えた。頻繁にタイヤに踏まれているのだろう。
「ここからは、山に入るから」
 小さな橋を渡ったところで、ふたりと二頭は斜面を登った。ミハイは枝に頭をぶつけないよう身を低くする。新しい落葉が乾いた音をたて、四つの呼吸器からはリズミカルに湯気が立ち昇っている。エマは傾斜のゆるやかなルートを選んでいるはずだが、それでもミハイにとっては引力の見えない手で背中を引かれている気持ちだった。
「着いたよ」
 頂の近くに岩石が突き出している。それはまるで焦げたカヌレのようだった。エマは愛馬を木に留めると、跳ねるようにして岩を登ってゆく。ミハイも同じようにした。
「見える?」
 エマの白い息はすぐに消える。言葉を発していないにもかかわらず、ミハイの吐息は彼女のそれよりもずっと長くただよった。
「これが官製農場の本体だよ」
 眼下に広がるのは森林ではなかった。
「……温室?」
「そう。大統領府の力の源泉」
 いくつもの大規模な屋根が見える。山間の盆地にはあきらかに不似合いな光景だった。フェンロー型のそれは日光を通すように作られ、カマボコ型のそれは金属製のように見える。
「……あまり公然と言えるような施設ではなさそうだ」
「公然の秘密ってやつ。アサとかケシとかって植物を育ててるわけ」
「それらを育てるには寒すぎる土地だと思うけど」
「涙ぐましい努力で暖かくしてんのよ。それだけじゃ名産地には勝てないから、化学的なほうの工場もあるよ。いわゆる特殊医薬品」
 それらを監督しているのが次女のローザだった。
「この国の輸出の主力が果物類っていうのはウソじゃないけどね。でも農夫たちの生活の糧にはなっても、大統領府の権力を維持するにはそれじゃ足りない」
 もうエマの吐息に色はついていない。
「私も同罪。官製農場を手伝うっていうのは、そういうことだから」
「エマもローザも、好んでやっているようには思えないけど」
「好んでないもの。でも仕方ない」
「どうして?」
「あんたには……」
 わからないでしょうと言いかけて、少女はそれを飲み込んだ。目の前の少年は、故国を奪われて逃れてきた。いまでも命を狙っている者がいる。エマの想像する自分自身の未来像に近かった。
「あんたみたいに……なりたくないから」
 ショルネイジリワが鼻息を鳴らす音がきこえた。
「それなら、私の逆をやればいい」
 ミハイは視線を動かさない。エマは彼の横顔を見つめる格好になった。
「……私のようになるのは簡単さ。逃げれば良いのだ。何事にも向き合わず、ひとのせいにして逃げる。ヴィクトル・ネデルグが父になにかを囁いても、クリスチアンが傭兵を雇って殺しに来ても、ラドゥが必死に戦っても、自分自身はなにもしなければ良いのだ。ただ周りの大人たちに任せてなにもしない。そうすれば……誰だって私になれる」
 少年の瞳が光っているのは、月が顔を出したせいだけではない。
「エマ。君はさっき、仕方ないと言った」
「……うん」
「私もずっと自分にそう言い聞かせていたんだ。仕方ないと」
 ふたりの視線が交わる。
「いま、それに気づいたよ」
「……おそくない?」
「少しね。でもきっと、まだ間に合う」
 弱い月光のしたで、二頭の馬がおなじ草を食んでいた。

 ミハイが寝室を抜け出したことはわかっていた。阻止するのは簡単のはずだ。ただ廊下に立ち塞がればいい。しかしラドゥはそれをしなかった。彼の辞書にも野暮という言葉があったからだ。
「……とはいえ、任務ですので」
 警護対象の様子がおかしいことに気づかないラドゥではなかった。その夜、ミハイのシャワーが終わったあと、魔女から拝借したマグライトのスプレーを少年の襟足に噴霧しておいたのだ。試作品かつ欠陥品とは思えないほど追跡用マグライトはよく機能していた。暗い廊下にホタル色の帯が浮かび、それは給仕係の使う裏口から外に出て、厩舎を経由して官製農場へ伸びていた。
 ラドゥにとっての問題は、追跡対象とおなじ移動手段を使えないことだった。彼はいまだに乗馬に慣れない。いや、馬が彼に慣れないのだ。彼はやむをえず徒歩を選択した。
 官製農場のゆるやかな斜面を、ホタル色の帯がうすい巻雲のように漂っている。ライトの角度を変えるとそれが丘の裏側へ続いているのがよくわかった。星明かりがほとんどないことにも助けられたかもしれない。ラドゥは闇夜をジョギングをするように農場の奥へ進んでいった。
 途中、最後の収穫を待つシオンベリーの畑に出たときは冷や汗をかいた。マグライトに反応し、一粒一粒の果実が力強く発光しているのだ。それはホタル色などという生やさしいものではなく、クリスマスイルミネーションに匹敵する眩しさだった。日中に作業員が残した足跡まで光っている。そのおかげで農道自体が鈍く発光し、ミハイが残した光跡などは溶け込んでしまっていた。一本道でなければ見失っていたかもしれない。
 谷筋に沿ってうねる道を進み、ホタル色の帯は山の斜面へとラドゥを導いていく。乾いた落ち葉を踏まないよう慎重に登ると、頂のほど近くに、二頭の馬が繋がれていた。黒馬がラドゥを睨んでいる。
「そんなに嫌うなよ」
 音が空気に乗らない程度に呟く。
「お互い主人を守りたいだけだろ。俺とおまえは同志さ」
 ショルネイジリワが鼻息を鳴らし、上唇をめくって歯茎を見せた。
 山頂にある焦げたカヌレのような岩の上に、互いの主人はいた。弱い月明かりが、ふたつの背中を闇に浮かびあがらせている。ラドゥは木に身体を寄せて月光の影に入り、薄明かりのジョンブリアンを見守った。

【8】

「老いたな」
 ライ麦パンをふたつに裂こうとしていた手が止まった。
「それは老いだ。スミルノフよ」
 ティーカップを口元に運びつつも、ミハイの眼光は向かいの権力者を見据えている。スミルノフは構わずに動作を再開した。
「老いか。君になくて私にあるものだな。羨んでも分けてやらんぞ」
「人間はみな老いる」
「よくわかっているではないか」
「だから恥じることはない。スミルノフよ。貴殿は老いた」
 バターナイフを置く音がいつもより高い。隣にいるエマはすぐに気づいた。
「なにが言いたい」
「十五年前の英気に満ちた貴殿だったらどうしたかと思ってな。ドニエスティア王国軍すら苦戦させた司令官が、バトゥコのようなヤクザくずれに怯えているとは。時は残酷だ」
 スミルノフはナプキンを丸めて、テーブルの隅に放り投げる。
「……お父上から薫陶を受ける時間が短かったことは残念だ。君はもっと物事の側面を見る練習をするべきだな」
「ロシアの支援がなんだというのだ。結果的にティラスポリスは、麻薬の生産と武器の横流し窓口になっているだけだろう」
「小国が生き残る知恵とは思わんか」
 自身の横顔にエマの視線を感じつつ、スミルノフは言った。
「そんなことをしなければ生き残れない国なら、滅んだほうが良い」
 伯父の目に怒りの炎が灯るのを見てとったエマは、腰を上げた。
「アイスランドやジョージアだって、小国なのに立派に自立しています。ティラスポリスは黒海に面しているメリットをもっと活かせるはずです」
「貿易はいまもしている。果実類が最大の輸出品だ」
「輸出先は、結局はロシアでしょう?」
「買い手がつかんのでな。法的にはドニエスティア王国産を名乗らなければならんが、それは受け入れられない」
 エマはふたたび席に座り、上半身をやや伯父に近づけた。
「伯父さま。私たちは最も近くにいる貿易相手を見過ごしてると思いませんか?」
 ミハイが小さく頷いたのを、スミルノフは見逃さなかった。
「……まさか、王国と貿易しろと?」
 持ち上がった眉間が、彼の額に三本のシワを刻む。
「とても良いアイデアだが、いくつか乗り越えなければならんハードルがあるな。まず第一に、我々に経済封鎖を強いているのは王国だ。彼らがそれを解除しなければ貿易相手にはなれん。第二に、国交を正常化させるためには彼らが我々の独立を承認しなければならん。歴史的経緯からみて不可能だろう。第三に、それらを決めるのは我々ではない。ヴィクトル・ネデルグだよ」
「貴殿はいま、三つの課題を挙げたが……」
 ミハイの表情は涼やかだった。
「それらは全て、ひとつの方法で解決できる」
 沈黙が流れる。
 両者とも、ぶつかりあう視線を逸らそうとしない。
 雲に隠れた太陽がふたたび姿を見せたころ、スミルノフが呟くように言った。
「……決意したか」
「だが、そこに至るには貴殿にやってもらわねばならないことがある。バトゥコなる者に権力者になってもらっては困るのだ。バトゥコと戦え、スミルノフ。私の父と戦ったように。そして自分の国を守れ」
 ジョンブリアンが朝陽を浴びて輝く。
 スミルノフはウルスラを呼び、戦略地図を用意するよう命じた。

 第五章 完

 第六章へつづく
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