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簒奪者の守りびと 第四章 【1,2】

第四章は8シークエンス構成です。4日連続更新。
<3,600文字・目安時間:7分>

簒奪者の守りびと
第四章 ティラスポリス

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【1】

 一同が飼葉に化ける必要があったのは、それほど長い時間でなかった。重々しいコンクリートを積み重ねたような大統領府へは、分乗したメルセデスのSクラスで到着した。
 車寄せを若者たちが徒歩で横切ろうとしている。運転手は二度クラクションを鳴らして警告したが、彼らは一瞥しただけで歩みを早めることもしなかった。運転手にはそれを咎める様子もない。
 二台のメルセデスは、エントランス前にしずかに停車した。
「……ミハイ。ご説明いたします」
「いまさらなんだ、ラドゥよ。想像はついている」
 大統領府から兵士の一団があらわれ、整列してゆく。
「あれらは、父の敵だ」
 ミハイは顎で兵士たちを指す。
「沈黙していたことをお詫びします」
「詫びはいらん」
「どのような罰でもお受けします」
「聞こえなかったか。あれらは父の敵だ。私の敵かどうかは、これから私が判断する」
 軍服の兵士のあいだから、黒スーツを着込んだ男たちが現れ、メルセデスのドアを開けた。最初にラドゥが降り、ミハイ、オリアがアスファルトの上に立つ。風は思いのほか涼やかだった。後続の車両でも同じように、ゾフとリャンカが魔女とともに降車したのが見えた。
「ティラスポリスへようこそ!」
 無骨なコンクリートの構造がその声を反響し、増幅する。
 兵士たちの敬礼を受け、大統領府から現れたのはスキンヘッドの男だった。視線の交わりを妨げない程度の薄いサングラスをかけている。すぐ背後に軍服を着た長髪の女性が立っており、彼の車椅子を押していた。車輪のチューブが、細かい砂礫を踏み潰しながら回転する。
「諸君。よく来られた。ひとまずはご安心されよ。ここにネデルグの馬鹿息子どもの悪知恵は届かんからな」
 男は髭にかこまれた口元を緩め、一同をゆっくりと見回した。
 その視線が、陽光に輝くジョンブリアンの下で止まる。
「……父君によく似ておられる」
 ミハイは応じない。
「君の父君と私は、十五年前までは友人だった。そのあと敵になった。いまでも仲直りしたとは言い難い。だが旧友の息子が立派に成長し、会いにきてくれるのは嬉しいものだ」
 男は右手を差し出す。
「ティラスポリス共和国大統領、イゴール・スミルノフだ」
「握手はしないでおこう」
 ミハイは微笑みを返した。
「貴殿の立場としてはそれで良い。だが、私が握手に応じるとは貴殿も思っていないのではないか」
「ほう。なぜそう思うかな?」
「私が貴殿に臣下の礼を求めないのと同じことだからだ」
 スミルノフは笑った。薄いサングラスでは鋭い光を隠せない。
「では、君はどのような資格でここへ来たというのかな?」
「この土地では滞在客に資格を問うのか?」
「滞在客だと?」
「休息に来たのだ。私というより、警護班の面々の。王宮で甘やかされて育ったせいか、私は手のかかる警護対象のようでね。彼らは実によくやってくれているが、たまには休ませてやりたい」
 ゾフは無意識のうちに頷いてしまい、リャンカに腕を叩かれた。
「ほう。そうすると君たちは、骨休めに来たと言うことかな」
「そうだ。バカンスだ」
「……では客人としてもてなさなくてはならないな」
 スミルノフは上半身を捻るようにして、背後の軍人を振り返った。
「どう思う?」
「前代未聞です。ドニエスティアの王族が入国するときは、捕虜か、対等の外交関係においてのみだと信じていますので」
「そういう意味では問題なかろう。この少年はもはや王族ではない」
「閣下がそうおっしゃるのでしたら」
 軍人の長いココアブラウンのストレートヘアが、頷きに合わせて揺れた。
「では、悪くはなさそうだ」
 ミハイの目を見据えるスミルノフ。
「ここには星つきホテルもない。ビーチもテーマパークもない。飼葉よりは多少肌触りの良いベッドと、それなりにうまいワインを用意できる程度だが、それで良いかね」
「イングリッシュマフィンは?」
 スミルノフの口元が緩む。
「……明日の朝食で良いなら」
「では……世話になる」
 ふたりは握手を交わした。
 勇者アルセニエの子孫がこの地に留まるのは、戦後はじめてのことだった。

【2】

 ティラスポリスを表現する政治的呼称は多くないが、どれを選択するかによって話者の立場が明白になる。「ティラスポリス自治区」と呼べば王国に対し忠実であることがわかり、「ティラスポリス共和国」を選択すればその逆である。もし「特別な法的地位を有するドニエ川東岸自治領域単位」という複雑な呼称を好んだとすれば、王国と国交を結んでいる国際社会の一員ということになるだろう。独立戦争を支援したロシアでさえ、表向きにはそのような態度を採用している。ティラスポリスを独立国として承認している国は、皆無に等しい。
 十五年前の戦争が、話者によって「独立戦争」と「阻止戦争」に二分するのはそのためであった。ティラスポリス側としては、独立を勝ち取った勝利の戦争である。そしてそれはほぼ事実であった。しかし、ドニエスティア王国側としては、独立の法的根拠を与えずに済んだ、やはり勝利の戦争なのであった。双方が勝者の立場を譲らず、だからこそ両立していた。
「もう少しひねくれたことを言うんじゃないかと思ったがね」
 大統領執務室のソファに腰掛けた魔女は、満たされたワイングラスを持ち上げた。その赤はドニエスティア産でもティラスポリス産でもなく、イタリアのものだった。
「そりゃ、どっちのことだ。俺か? 息子か?」
「あんただよ。なんたって息子なんて呼ぶんだい。気持ち悪いね」
「旧友の息子が訪ねてきたのだ。自分の子のように慈しむのは自然ではないかね」
 スミルノフはたちまちグラスを空にし、手酌でふたたびそれを満たした。彼の側にソファはない。車椅子をテーブルに横付けし、右側を魔女に向けている。
「その旧友に戦争を仕掛けておいてよく言うよ」
「仕掛けたのは俺ではない。時の女神のいたずらだ」
 鼻で笑いつつ、髪をかき上げる魔女。
「十五年も昔の話は退屈だね」
「イリーナ。おまえはまだネデルグの使い走りをしているのだな」
「世話になったからね。義理堅いんだよ。あたしゃ」
「あの簒奪はおまえがいなければ実現しなかったろう。もう義理は果たしたのではないか」
「だから隠遁生活してるんだよ。辻褄が合うだろうが」
「隠遁している者が、廃王の息子を庇ってここまで連れてくるかね。ネデルグの意思がなければそんなことはすまい」
「だとしたらどうってんだ」
「もう縁を切れ。ヴィクトル・ネデルグはともかく、その息子ども、あれらはダメだ。そのうち内紛になるぞ。そのまえに俺の国へ来い」
「ずいぶんと自信がありげだけどね。内紛だったらここだってキナ臭い噂話が聞こえてきてるよ。ロシアは本妻から愛人に鞍替えするつもりなんだって?」
 スミルノフは手のひらで、額から頭頂まで撫でた。
「……噂話だ」
「だといいね。ロシアの後ろ盾があってこその大統領職だ。選挙があるとはいえ、結局のところ陰でロシアが支援した候補が当選するんだろう。都合の良い操り人形になってくれる阿呆を据えたいはずさね」
「なにが言いたい?」
「あたしが見たところ、もはやあんたはロシアにとって都合の良い阿呆ではなさそうってことだよ」
 スミルノフは、ほとんど空になったグラスを回した。わずかに残った赤色が、抵抗することなくよろめいている。
「次の選挙までは……まだ間がある」
 そう呟く横顔を見つめながら、魔女はグラスを空にした。

 ホテル・バイカルの建物は大統領府の敷地に隣接している。ティラスポリス最大にして最高級のホテルだったが、欧州の他の都市ではミドルクラスにしか分類されることはないであろう。
 警護班の面々は同じフロアに部屋を用意され、それぞれ個室を与えられた。
「ミハイどのには最上階のペントハウスをご用意できますが、こちらでよろしいので?」
 黒スーツを纏った男の声は驚くほどの低音だった。
「ここのほうがいい。フロアが異なると警護に支障をきたす」
「……バカンスと伺っていますが?」
 ラドゥが返答に詰まっていると、ミハイは「彼は、私が窓から落ちるのを心配しているのさ」と戯けてみせた。男は片頬で笑い、やはり低すぎるほどの声で「ごゆっくり」と残して出て行った。
 その直後、ちょっとした事件が起きた。
 オリアの部屋に侵入者が潜んでいた。赤茶色で六本足のそれはキッチンの壁に張り付いており、全身の毛を逆立てたオリアは反射的に拳銃を抜いた。彼我の距離は約2メートル。この近さが仇となり、集中を欠いた初弾は目標を捉えることができなかった。あろうことか侵入者は彼女に向かって移動を開始した。冷静さを失ったオリアは第二射・第三射を放ち、ゾフが駆けつけるまでに壁、床、天井に合計十二カ所の穴を開けた。最終的に害虫はゾフの靴底で平べったい死骸になった。


つづく

ヘッダー画像は安良さんの作品です!Special Thanks!!


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