簒奪者の守りびと 第七章 【1,2】
簒奪者の守りびと
第七章 緋の雲海
【1】
ヴィクトル一世はその朝も、ラドゥからの定時報告を受け取っていた。ティラスポリスの政変のあと、ミハイの身にある程度の平穏が訪れていることは、王の心をわずかに慰めた。
家政婦長に着替えを手伝わせる。いつもより早い時間なのは、ラトビアに向けて発つ予定があるからだ。ヴィクトル一世は即位以来、精力的に外国を訪問している。今回もその一環だった。
「今回は、わたくしは同行しなくてよろしいのですか?」
家政婦長が問いかける。
「うむ。バランとともに王宮のほうを頼む。世話の焼ける息子たちをしっかり監督してくれ」
「それは重大任務でございますね」
王は眉間のシワを少しだけほどいた。
ふたりの息子たちは、目論見どおり大人しくしている。川の向こうの勢力にまでは手出しできないようだ。あとはミハイの自死さえ防げれば良いが、少年の精神はいまのところ安定を得ているらしい。そのおかげでラドゥ・ニクラエも一息つくことができているようだ。
車に乗り、空港へ向かう。隣席には、近衛兵を束ねる大佐が控えている。
ヴィクトル一世には味方が必要だった。それも内と外と両方に。即位以来、彼はそこに注力してきた。メディアを駆使してプロパガンダを流し、銅像や肖像画で自身を偶像化する。外国を訪問し、良好な関係を築き、それをまた国内メディアに流す。そうしなければならなかった。
こんなはずではなかったのだがな……。
ヴィクトル一世はあの夜のことを思い出し、それを脳裏から追い払おうとしたが失敗した。あのときと同じように、腰のあたりから鳥肌が駆け上ってくる。それが手の甲にまで至ると、下半身から力が抜け、足元がおぼつかなくなる。
『王家が正しさ失ったときは、我らがとって代われ』
人体実験で罪に問われていたヴァシーリエブナ博士を救い出し、彼女の忠誠を得ると、ヴィクトル・ネデルグはすぐに王家に対する工作をはじめた。それらがあまりにもうまくいったことが彼を勇気づけた。己が玉座の主となることが、すべての人々の期待に叶うと信じることができた。
車を降りる。さいわいにして、足に力が戻ってきていた。専用機のタラップを踏んでゆく。
すべては驕りだった。あの夜、それを突きつけられた。民が本当に愛しているのは王家だ。勇者アルセニエの血を引く王家。しかし、それを思い知ったところで、引き返す術は残されていなかった。
専用席に着座し、ベルトを装着する。エンジン音が高らかに鳴った。
はじめはミハイをも謀殺するつもりだった。だができなくなった。もしそんなことをすれば、民がネデルグ家を赦すはずがない。アルセニエの血が絶えていないという事実だけが、ヴィクトル・ネデルグに仮の玉座を与えていたのだから。ミハイには長生きしてもらわなければならない。彼が老人になり、誰からも忘れられたとき、ヴィクトル王朝は初めて息をつくことができる。あたかも正当な王家であるかのように振る舞うことができるのだ。それは息子か、あるいは孫の代かもしれないが。
急激なGが背中をシートに押しつける。機首が持ち上がると、窓の外はたちまち白くなった。水の粒子が、ガラスにいくつもの滴を孕ませる。
だからこそ息子たちの愚かな振る舞いには憤らずにいられない。クリスチアンが王を継ぐためには、ミハイが生きていることが条件なのだ。ミハイを生かし、時間を稼ぐ。そのあいだに内と外の味方を増やせば、砂上の楼閣たるヴィクトル王朝の基礎に、多くの鉄杭を打ち込むことができるだろう。
不穏な衝撃が機体を貫いた。隣席の大佐が、立ち上がろうとしてベルトを外した途端、シートから放り出された。異常な空気の流れが機内を席巻し、急激に気圧と温度を下げてゆく。下腹部を締め付けるベルトだけが、かろうじてヴィクトル一世に正気を保たせていた。彼は窓の外を見た。雪に縁取られた北部山脈の美しい峰々がそこにはあった。
ヴィクトル一世は、国境近くの名もなき山腹で没した。
同じ日の午後、クリスチアン・ネデルグは宣言を発し、クリスチアン三世として即位した。
【2】
ラドゥのもとに、新王クリスチアン三世から命令が届いたのは、即位から三時間後のことだった。
「で、命令書にはなんて書いてあるんです?」
「この警護班を解散する、とある」
「そんなことだろうと思いましたよ」
リャンカは肩をすくめる。
「それに、即日帰国せよと」
「そこまでは予想内。でも、班長。それだけじゃないでしょ?」
ラドゥは自分に視線が集まるのを感じていた。そのなかにはミハイとエマのものもある。
「……ミハイを王都へ連行せよ、とのことだ」
「はぁ?」
制する間もなく、エマが立ち上がる。
「許すわけないでしょ! そいつはミハイを暗殺したがってるイカれたやつでしょうが!」
「わかっている。だから困っているんだ」
「困ることないでしょ! 無視! 拒絶! 否定!」
拳を突き上げるエマを諭すように、ラドゥはあえて静かに話す。
「それでも、これは王の命令なんだ。これに逆らえば我々は反逆者になる。エマが耳を傾ける必要はないが、我々にとってはなによりも重いものだ」
「いい大人が命令命令って、馬鹿みたい」
エマは、傍らに座るミハイに水を向けた。
「私に言えることは何もないよ」
少年は小さく首を振る。
「王命が下ったのは彼らに対してだ。私が何を言ってもノイズになるだろう。だからなにも言わない」
ミハイの静かな微笑みを受けて、エマは黙って腰を下ろした。リャンカはガラスに寄りかかるようにして、腕を組む。オリアとゾフは立ったまま無言でラドゥを見つめている。
「……返事は明朝にしよう。警護班にはすでに解散命令が出ている。俺はすでに君たちの上官ではない。だから君たちがどんな判断をしようと、それを尊重する。とりあえず、今夜は休んでくれ」
◇
「兄上!」
エクルベージュの長髪が、歩みとともに弾んでいる。
「違うだろ。アウレリアン」
兄弟は湧きあがる興奮をこぼしつつ、執務室に続く廊下を歩いていた。
「……陛下」
「そうそう。もう一度いいか?」
「クリスチアン三世陛下!」
新王は弟の肩を叩いた。
「そういうそなたは、ネデルグ家の当主ではないか」
ゴールデンイエローの髪の若者は、はじけるように笑う。
アウレリアンは、大学時代にボート競技で優勝した日の兄を思い出した。そのとき、まるで世界を手に入れたように振る舞っていた兄が、いま現実にこの世の全てを掌握したのだ。
執務室の前ではバラン儀仗長が待っていた。左胸に手を当て、忠誠を示している。クリスチアン三世は彼を一瞥したあと、大股でカーペットを踏みつけて入室した。今朝まで父のものであった椅子に、あえて乱暴に腰を下ろす。
「バラン儀仗長。卿には引き続き、補佐を頼むことにした。これで三代の王に仕えることになるな」
「名誉なことです。力を尽くして陛下をお支えいたします」
「特殊警護班の解散命令は伝わっているな」
「すでに命令を発しております」
「ミハイの身柄は確保できたか」
「班長であったラドゥ・ニクラエに、ミハイ元王太子を連行するよう新たな命令を発しております。まだ返事は来ておりません」
クリスチアン三世は立ち上がった。儀仗長に近づき、横から後背を経て反対側へ、威圧するように半周した。
「あとふたつ、決定事項を伝える」
「なんなりと」
「ガネアを軍総参謀長に任命する」
ネデルグ家の領地、ドロキアの守備司令官であるガネアの階級は少将に過ぎない。総参謀長は軍の最高地位であり、大将をもってその任にあてることになっていた。つまりガネア将軍は二階級を駆け上がることになる。
「仰せのとおりに。現任の総参謀長はいかようにいたしましょう」
「任せる。田舎で土いじりでもすればいい」
儀仗長は小さく頷いた。
「もうひとつは弟のことだ」
兄弟は視線を絡ませる。
「我が軍の半分の指揮を任せたい。俺はこれから多忙になるからな。弟の補佐があったほうが助かる」
縁なしレンズの奥で、アウレリアンの眼光に力がこもった。
「承知いたしました」
「以上だ。戴冠式はいつごろになる?」
「調整をしております。早くとも、年が改まったあとになるとお考えください」
「できるだけ早いほうがいい。努力しろ」
クリスチアン三世はその広い手のひらで、儀仗長の背中を叩いた。