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簒奪者の守りびと 第七章 【5,6】
第七章は8シークエンス構成です。4日連続更新。
<3,100文字・目安時間:6分>
簒奪者の守りびと
第七章 緋の雲海
【5】
アウレリアン親王軍がドニエ川の西岸に布陣したころ、夜闇に紛れて、一隻の漁船が静かに岸を離れた。ラドゥ、オリア、ミハイ、エマの四人に加えて、スミルノフの指示でローザが乗り込んでいる。舵輪を握るのは、漁村出身の若い軍曹だ。
敵が動いたと知らせを受けた直後から、スミルノフは迎え撃つための手を次々と打った。クリスチアン三世が力づくで少年を奪いに来ることはわかっていたから、防戦の準備は整えてあった。スミルノフにしてみればプログラムを起動する感覚とあまりかわらない。
だが、解決すべき課題があった。
「敵の目的はふたつある。ひとつは我が共和国を占領すること。もうひとつはアルセニエの血を絶やすことだ。ふたつの攻撃目標がひとつの街に集約していることは、敵を利することになる」
アウレリアンからすれば、街を破壊する過程でミハイが死ねば一挙両得となる。街を包囲して大暴れするだけで良いのだ。そうなれば市民の犠牲は計り知れない。勇者の血を引く少年は、スミルノフの言葉に同意した。しかし、どこへ行くのが望ましいのか。
「ドニエ川を下るのだ」
河口付近にある港町を目指せという。
「南部はいいところだぞ」
スミルノフは白い歯を見せ、笑った。
闇のなか、船首がゆっくりと水を割ってゆく。軍曹の視線は前方に、ラドゥのそれは西岸に注がれていた。エマは東岸を見つめている。
「大丈夫だよ。きっと帰ってこれる」
ミハイの言葉が白い吐息に乗り、
「……ショルネが心配なだけ」
と、エマのそれが追いかけていった。
ドニエ川は、黒海にそそぐことでその長い旅路を終える。終着点である河口には特徴があった。東西それぞれに街が発展しているのだ。東岸の街をセベリノヴカ、西岸をクロクシュナという。戦前はブダペストのようなひとつの都市だったが、十五年前の戦争が両者を別った。とはいえ、境界線が川の中央に引かれた今となっても、住民の日々の暮らしを分断することはできていない。街同士をつなぐ橋は、両端に検問があるものの、人々の往来を制限してはいなかった。
「ちょっと問題が起きました」
河口が近づいてきた頃、軍曹が申し訳なさそうに報告した。
「街が停電しているようです」
目的地である東岸のセベリノヴカはほとんど闇に溶けたまま、その存在を知ることも困難だった。対照的に、西岸のクロクシュナからは人の営みが感じられる。
「何事かあったのか?」
「いやぁ、南部では珍しくないですよ。電力供給は首都のほうが優先されてますからね。王国もこちらも、電力事情は似たようなものですから。月に二度はどこかの街が停電してるんです」
軍曹は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「しかし、困りました。岸に近づくのが危険ですね。夜が明けるのを待ちますか」
「あまり時間をかけたくはないな」
情勢の変化も心配だが、なにより水上の気温が低すぎた。明け方はさらに寒くなるだろう。
「やむを得ない。対岸の街につけてくれ」
ふたつの街の往来が禁止されていないなら、陸路でティラスポリス側に戻ることも難しくはない。ラドゥはそう考え、上陸を優先した。
船がクロクシュナに近づく。漁港から外れたところでゴムボートを降ろし、一同は軍曹を残してそれに乗り込んだ。漕ぎ出してすぐに丸い石の感触が伝わってきた。ラドゥが膝まで水に入り、ゴムボートを引っ張る。漁船のほうへ目をやると、ちょうど転回を終えて川を遡りはじめるところだった。ラドゥは軍曹の帰路の無事を祈った。
「さぁ、足元に気をつけて、ひとりづつ降りて」
足首を濡らしつつ、全員が岸にあがる。枯れかけた草とぬめる石、滞留するゴミが彼らを出迎えた。
「ちょっとミハイ。なんで笑ってんのよ」
「いや、ちょっと干し飼葉のことを思い出してた」
この日、ドニエスティア王国に勇者アルセニエの子孫が帰還した。出国のときがそうであったように、それを知る者も、伴する者も、ごく僅かしかいない。
【6】
「覚悟はよろしいか。泰然としていることが肝要ですぞ」
司令所として接収したアパートメントの一室で、ガネア大将は気焔を上げている。アウレリアンは出てもいない唾液を飲み込んだ。
「もちろんだ」
「では、御命令を。総司令官閣下」
「……攻撃を開始せよ」
出力を上げた無数のエンジンが空気を振動させる。軍団は、それ全体がひとつの有機体であるかのように脈動した。心臓が末端まで血液を送るように、総司令官の命令が隅々まで行き渡る。ドニエスティア王国軍は十五年ぶりに目を覚ました。
先頭は戦車部隊。ドニエ川に架かる橋を縦列で進む。中央にある検問所でティラスポリス側の兵士が停止を命じたが、戦車は意に介さず、詰所を踏み潰した。
「さぁ、坊っちゃん。司令車で向こう側へ乗り込みましょう。スミルノフから領土を奪い返したら、きっと坊ちゃんの領地になりますぞ!」
高笑いするガネア大将に背中を叩かれ、押し出されるようにアウレリアンが部屋を出る。同じ頃ティラスポリスでは、大統領府のスミルノフのもとにウルスラやってきていた。表情こそ変わらないが、いつもより歩数が多い。
「始めたか」
「はい。敵は中央の橋のほか、レガッタコース方面の二本、植物園方面の二本、合計五本の橋を渡って同時に侵入してきました」
スミルノフは顎に指をあて、髭を撫でた。
「ここから先はタイミングだ」
「いずれも、準備はできております」
「大通りは閉鎖したか?」
「さきほど、一般車の出入りを禁じました」
「よろしい」
書類にペンを走らせる。
「ガネアとは十五年前にやりあったことがある。平和なドロキアの守備隊長がようやく務まるくらいの凡才だ。大軍の指揮など重荷だろうから、なるべくはやく解放してやろうじゃないか」
書類を受け取ったウルスラは、敬礼で応えた。
◇
上陸してすぐ、ミハイたちは使われていない漁師小屋に身を隠した。
黒海からのぼってきた水蒸気が、朝靄となって揺蕩っている。それは不法入国者たちにとって絶好の目隠しだった。ラドゥとローザが周辺を探り、無事に戻ってこられたのは靄に助けられたところが大きい。
「状況はあまりよくない」
ラドゥの声は低い。
「橋の手前の検問所には兵士が詰めている。おまけにローザが言うには、兵士たちの宿舎もここからそう遠くないようだ」
頷くローザ。
「三人くらいの兵士が談笑しながら歩いてたからね。ありゃ休憩中だよ」
「検問所くらいなら俺とオリアでなんとかできるんだが」
「宿舎が近いのはまずいですね。人数が多すぎます」
「やっぱり、王国側にいるのは危険すぎない?」
そのとき、エマの腰掛けていたプラスチック製のフロートが割れた。バランスを崩したエマがミハイの肩を掴み、ふたりはそのまま角材の上に倒れ込む。
「ごめん」
「大丈夫だ……大したことはない」
ふたりに怪我はなかった。大人たちは胸を撫で下ろしたが、全身の毛を逆立てている者がひとりだけいた。角材の下から這い出したフナムシが、オリアに向かって一直線にその多足を動かしていたのだ。オリアの右手はすでにホルスターから銃を抜いていた。
朝靄を払うかのように轟く連続した銃声。明らかに殺意の込められたそれは、早朝のジョギングをしていた兵士たちに、ミハイたちの存在を教えた。
「これは……参ったな」
文字どおり頭を抱えるラドゥ。残りの三人は目を丸くしている。
肩で息をするオリアが落ち着きを取り戻したころには、兵士たちが漁師小屋の包囲を始めていた。
ヘッダー画像は安良さんの作品です!Special Thanks!!
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