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百億の昼と千億の夜

ここでは『百億の昼と千億の夜』について語りたいと思います。

(本編の重要な内容に触れていますので未読の方はご注意ください。)

『百億の昼と千億の夜』は、日本のSF作家、光瀬龍が1967年に発表したSF小説です。非常に希有な作品で、20世紀の日本SF文学を語る際に、避けては通れないと言っても過言ではないでしょう。もっとも、かなりカルトでマニアックな作品でもありますので、一般の読者にはほとんど知られていないかもしれません。そして、作品に対する評価も、傑作、名作と言われる一方で、おもしろくない、わからないなどとも言われています。64年「たそがれに還る」72年「喪われた都市の記録」とともに、初期SF三部作とされていますが、私個人の見解としては、本作品と他の2作品とでは、テーマこそ共通点はありますが、その表現方法としての手段はまったく違っており、三部作とひとまとめにするには、少々違和感があります。「たそがれ‥…」「喪われた‥…」はともに厳密にSFという括りに何とか入ると思いますが、この『百億の昼と千億の夜』はどちらかと言うとファンタジーに近いものがあります。こう言う話になると、ではSFとは何だ? という非常に大きな問題になってしまうので、この辺りで話を元に戻しましょう。物語は、地球の誕生から始まります。長い時間をかけて、ようやく生命が誕生した地球、やがて人類が支配する時代へと続きます。紀元前、アトランティスの謎を調査するプラトンは、遂にその生き残りが住んでいるという村にたどりつきます。そしてその夜、プラトンは古代アトランティスにタイムスリップ、その滅亡を体験します。同じく紀元前、悟りを開く為に出家した釈迦は、バラモンの僧と共に天上界を訪れ、その荒廃を目の当たりにします。天上界で帝釈天と戦争状態にあった阿修羅王と会う釈迦は、56億7千万年後に地上に出現し、世界を救うと言われる伝説の弥勒のところへ行きますが、そこにあるのはただの像でした。同じく紀元前、神の啓示を受けたナザレの男は、終末が来るまでに悔い改めよとキリスト教を開祖、十字架の上で奇蹟を起こします。イカリステオのユダは、それがすべて彼の策略であると気がつきましたが、すでに時は遅く、アトランティスから始まった開発実験は、もはや止める事の出来ないところまで来ていました。そして21世紀、トーキョーは破滅的な寒波に教われ、人類は徐々に絶滅への道を進み始めていました。そして、時代は未来、プラトン、釈迦、阿修羅王は、それぞれオリオナエ、シッタータ、あしゅらおうとして長い眠りから醒め、世界の破滅を進める惑星開発委員会とその背後にいる「シ」を探し出す為、ナザレの男を追いかけます。亜空間を駆け巡る追跡劇は、すべての人間が仮想現実の世界で生かされる世界ZENNZENを経て、遂に惑星開発委員会の本拠地で弥勒(MIROKU)と遭遇します。やがて明らかになる実験地アトランティスの本当の目的。それはヘリオ=セス・ベータ型開発と呼ばれ、誕生から滅亡までのプロセスを再現するものでした。あしゅらおうたちは、「シ」を追う為に最後の亜空間ジャンプを試みます。そして、最後の座標に現れた転輪王の話とは‥…。ネタバレにちかいあらすじですが、これを読んでいただいただけでもわかるとおり、スケールが大きな、ある意味、ちょっと逝っちゃってる話です。光瀬龍の物語にはよくあるのですが、いろいろな意味での整合性がほとんど無視されています。過去と未来がごっちゃで、例えば流線型の光子ロケットの横に蒸気機関車が走っているような世界観です。ですから、そういった点を気にする方は、この作品には、はなから拒絶反応を見せると思います。その世界観を容認できると、この作品に少しは入り込めると思います。さて、私がこの作品にであったのは、萩尾望都の漫画化された方が最初でした。少年誌に連載中だったのを読んでいたのですが、当時はまだ子供だったので、話の意味はさっぱりわからなかったのですが、萩尾望都の異界を感じさせる絵と合わせて、とても不思議な物語だという印象だけは強く残りました。やがて、ネクラな少年になった私は、読書に没頭し、ある日、本屋で『百億の昼と千億の夜』の角川文庫版を発見し、あの不思議な物語の印象が思い出されて買ってしまうのでしたが、読んでも全然ワケがわからない、一回目の読了は出来ませんでした。そのままほったらかしになっていた本書を、もう一度読む気になったのは、やはり、ネクラな時代にありがちな、人間は何の為に生きているんだろう、という根本的な疑問に突き当たって悶々としていたからでしょう。そんな心理状態で読むと、絶望的なこの物語が、ますます絶望的に人生に絶望感を増長して、なんだかとても大人になった気分になれたわけです。ですから、その頃は『百億の昼と千億の夜』は哲学だと思っていました。それからも、絶望的になるたびに、何度も読み返していたのですが、ある日、何度目かの読了の後に、ハッと気がついたのです。この物語は、哲学でもなんでもない、これは時空を超えた大冒険物語で、超エンターテイメントSFなんだ、と。この物語は、人類を生み出し、そしてまた無に帰そうとする絶対者シと、転輪王の命を得て、それと戦う戦士たちの、時と空間を超えた物語なんだと。それがわかった時は、それはもううれしかったですね。それまで絶望的だった物語は、夢と希望にあふれる冒険物語になったんです。私にとって『百億の昼と千億の夜』はそんな名作です。

この作品の根底のテーマは、人類の存在意義です。なぜ人類が存在するのか、という問題です。よく言われる、人は何のために生きているのか、という問題よりも、もっともっと根底の問題です。これまで世界中の思想家哲学者たちが挑んできたこの問題、勿論結論は出ていませんし、この先出る事もないでしょう。しかし、文学作品は、思想家たちと違い、ひとつの見解を提示するだけでも可能です。『百億の昼と千億の夜』は、光瀬龍の見解というわけです。このテーマは、小説家たちの創作意欲をわかせるらしく、いろいろな作品がありますが、一番有名なものは映画にもなった「2001年宇宙の旅」でしょう。日本では『百億の昼と千億の夜』と双璧をなす小松左京「果てしなき流れの果てに」があります。「2001年‥」は、人類の存在意義を進化の途上と位置づけ、さらに高等生物(スターチャイルド)への転生を描きました。実に肯定的な内容です。いかにもアメリカです。それに対して日本の作品、「果てしなき‥」では、人類の進化の速度を上げる為に過去に干渉して歴史を短縮させる試みを描きました。歴史を効率よく改ざんさせることで、人類の存在意義の否定します。しかし、本作『百億の昼と千億の夜』ではもっと残酷で、もっとわかりやすい世界を描きました。我々人類のこの世界は、言ってみれば化学の実験室のビーカーの中に発生した微生物の集団のようなものである、というのです。ビーカーに発生した微生物がどうなるか、それは何のためらいもなく殲滅させられてしまうちっぽけな存在にすぎないのです。生き抜く為にどうにかしたくても、相手は途方もなく強大な力を持った存在ですから、かなうわけはありません。あまりにも残酷な絶望的な世界観です。ラストシーンで、ただひとり生き残ったあしゅらおうは「私の戦いはいつ終わるのだ」と自問自答しますが、本作ではその答えは出ていません。それ以上に恐ろしいのは、このビーカーの世界をいつでも殲滅できる存在もまた、別の世界のビーカーの中かもしれないのです。最新版では、そんな無限の繰り返しを示唆するような、冒頭の名文に再び回帰して本作は幕を閉じます。もともと、光瀬龍の作品群には、絶望的退廃的な雰囲気が多く、平家物語的な滅びの美学でしょうか、悲しくも美しい物語であると、それが『百億の昼と千億の夜』が、読者をこうも魅了するのでしょう。そもそも、タイトルが実に叙情的です。途方もなく長い時間、それをあんな素晴らしいタイトルで表現する、たぐいまれなセンスですね。人類は誰かの手のひらの上にいるちっぽけな存在、という発想はこの後、72年発表の「喪われた都市の記録」でひとつの結論を出します。それを残して、光瀬龍は逝ってしまいました。

(2010年8月に書いた記事を再掲)

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