自己紹介させてください。6
東京都の長谷川です。よろしくお願いします。
この記事はタウンマネージャー ブログからの移管ではなく
書き下ろしです。
私の職歴です。
未来の目標も含まれています。
フリーランスのコピーライターになってから現在まで、
同一企業での遷移であり、
世界は広いですが、
相当珍しいグラデーションだと思います。
よくある田舎の社長が
ちょっと儲かって事業を多角化したのとは、
異なります。
①20代/コピーライター
②30代/アートディレクター
③30代/ITベンダー
④30代/タウンマネージャー
⑤40代/クレーピエ
⑥50代/ウェブアナリスト
⑦60代/タウンマネージャー議員
①20代/コピーライター
宣伝会議コピーライター養成講座を修了し、
22歳からコピーライターとして
地方のデザイン会社に勤務しました。
約5年間。3社でお世話になりました。
28歳でフリーランスに。
ここまでは純粋なコピーライターです。
収入はライティング料(からの給料)、
30歳でプロダクション化。
デザインを含めて受注でトータルに
広告を企画制作していました。
宣伝会議のコピーライター養成講座は大阪です。半年間。
何の下地も経験もなかったので、
勉強になるかなと思って通いました。
当時はバブルまっただなか。
講堂に集められた生徒は100人以上。
壁に貼られる求人はA4の紙が2列で並んで100社以上。
養成講座の課題で評価されたのは一度だけ。
テレビCMの松下電工の「パナコラン」の絵コンテでした。
修了課題はアシックスから発売されたゴルフのドライバーを選択したと思います。
以降の教科書は、コピーライター鈴木康之氏の「名作コピー読本」と
仲畑貴志さん「コピーライターの実際」です。
「名作コピー読本」は丸写しレベルで書きました。
いわゆる写経ですね。
掲載されているキャッチコピーからボディコピーまで、
丸々描いては何度も書く。暗記するまで。
起承転結や5W1Hを、手で覚えた感じです。
その数年後に。偶然にも鈴木康之さんの弟子にあたる、
広告代理店のディレクターに鍛えられました。
徹夜当たり前で、終わるまで事務所に張り付き。
今なら完全にパワハラですが、勉強になりましたし良い思い出です。
3日間寝ないぐらいなら何ともなかった。
4日目は立ちながらカラーコピーを取りながら寝てました。
また、仲畑貴志さんには卒業証書をいただいた。
地元のコピーライターズクラブの特別審査員で来県。
そのコピーライターズクラブはすでに辞めてしまっていたのですが、
ここぞとばかりに作品応募。自信がありました。
そして、特別賞に選んでもらった。
授賞式には行きませんでした。
受賞でコピーライター引退を決めていたので。
この2冊は縁があった本と作者なんだと思います。
コピーライターとして就職して、2年間は本当に鳴かず飛ばず。
そもそも基礎知識や基礎学力が足りなかったので、
社会常識から学ばないといけない状態。
周りの先輩方は苦労されたと思います。
3社を渡り歩いても、あまり上達せず。
ど田舎の三流でした。
転機は、グループ展でした。
仕事ではありません。自主作品展。
先輩グラフィックデザイナー6名とグループを作って年末に作品展を開催。
題材は「朝日広告賞」でした。
6名のグラフィックデザイナーが課題企業を選び、
新聞広告を制作。そのすべてのコピーを担当させてもらった。
47作品ぐらいあったのでしょうか。
すべてのキャッチフレーズとボディコピー、細かいスペックまで。
パネル貼りにして展示。3日間で数百人が見にきてくれました。
メンバー全員20代。
自分たちの実力や感覚をアピールしたかったのでしょうね。
広告賞なども欲しかった年頃。
当時は楽しかったです。
展示後に、朝日広告賞に出品しました。
出品作品の規定に「未公開のものに限る」という条件があって、
これを朝日新聞事務局に電話で問い合わせたのを覚えています。
「地方ならいいでのは?」そんな回答。
まあ、出品してもまさか受賞するなんて思っていません。恐れ多くも。
ところがその中の一作品が入賞してしまった。
その作品を共作したグラフィックデザイナーとイラストレーターで
東京まで授賞式に行きました。
授賞式でいろんな質問責めとかされたらどうしよう?
なんて思って行きましたが、
地方から参加なんて我々ぐらい。
あとは東名阪の電博大広の若手と関係者ぐらい。
喜んだ後に田舎の現実を知った感じです。
その翌々年にはメンバーの力を借りて個展を開催。
これは広告から離れて、
今思えばポエム?散文?な感じの言葉を書いて、
それをメンバーに自由にデザインしてもらい、
A4パネル77枚を展示。
「HOORAYS」と読んだこの作品は好評で、
作品として出版するべきというアドバイスをたくさんいただき、
たくさんの方に協力いただきポストカードブックとして
人生最初の出版となりました。
私のコピーライターとしての転機は、
仕事よりも自主制作でした。
投資ですね。
たくさんの社長や先輩に協力いただいた。
その後に、フリーランスとなって
コピーライターを名乗ってお仕事をいただきはじめます。
22歳で就職し、26歳で朝日広告賞、28歳でフリーランスと出版。
32歳ぐらいにはコピー単独の仕事は受けなくなりました。
当時は単純にコピーがうまくなりたかった。
業界や世間に認めてもらいたかった。
コピーライター時代のギャラの話。
フリーランスとなって
最も高かったのはあるイベントの新聞30段広告で
キャッチフレーズだけで16万円。
キャッチだけです。1文字1万円以上でした。
一つの広告で総制作費でナンバーワンは、
ある会社の企業イメージテレビCM。
15秒1本に300万円以上でした。
使いきれなくてグアムロケとか考えてました。
そのテレビCMはその後10年ぐらい放送。
10年放送できるものというリクエストでしたので、
普遍的な内容でした。
キャッチは覚えています。
「環境は今日です。」
その後に、
②30代/アートディレクター
③30代/ITベンダー
④30代/タウンマネージャー
⑤40代/クレーピエ
⑥50代/ウェブアナリスト
⑦60代/タウンマネージャー議員
これだけの職種に携わるとは思っていなかった。
コピーライター時代は、
純粋にコピーライターでした。