【往復書簡】貧乏になっても、貧乏人にはなるまい。

上の壇珠さんの記事へのお返事です。

ありがとうございます!!私もこの往復書簡に猛烈に助けられています!!なにかこう全体的に「生きてやるぜ」という球の投げ合いをしているみたいで好きです!!言霊なんて言葉もありますが、言葉に『菌』だって宿るんじゃないかと思います!!好きな人の声を聞くと電話でも元気になります!!好きじゃない人の声を聞くと電話越しにウイルスに感染したみたいな気持ちになって死にます!!あれから私は潔癖症に拍車がかかってきまして、いよいよ外に出る時はマスクをするようになりました。これはもちろんコロナ対策などではなく、人々の邪気から自分を守るためのものです。マスクをしていると、自分と世界の間にバリアを張れている感覚になれるから好きです。あとは、誰にもバレずに変顔をできるから好きです!!変顔が好きです!!

壇珠さんは、ご自身を潔癖症だと思うことはありますか??小生、今日、付き合いで携帯ショップに足を運びました。私は携帯ショップや市役所や大型ショッピングセンターが死ぬほど嫌いなのですが、どれくらい嫌いかと言うと「バンパイアにとってのニンニク」くらい嫌いです。生理的に無理なのですが、なぜ無理なのかを知りたいと願う探究心もあるものですから、行ってきました!!今日!!携帯ショップに!!そして見事に死んできました!!室内の蛍光灯が無理でした。店員の笑顔も無理でした。仮設住宅みたいな空間も無理で、観葉植物かと思ったら思い切り造花だったのも無理でした。一切の命を感じることができませんでした。エンドレスで流れるBGMも地獄でした。どこに希望を見出せばいいかわかりませんでした。説明をする店員に「なにが楽しくて生きているのですか」と聞きたくなるのをこらえるだけで精一杯でした。店員の距離感が変でした。お前絶対モテないだろと思いました。それでいて「どうです、私はしっかりやれているでしょう」と思い上がっている感じが鼻について全部を燃やし尽くしてやりたくなりました。ちょうどいま家の断捨離をしていて、キャノーラ油を捨てようと思っていたので「お前に全部ぶちまけてやろうか」と思いました。これはちょうどいい使い道が見つかったぞと、この時になってようやく僅かな楽しさを覚えました。

みんなどうやって生きているのでしょう。私は、奇跡的に現在なんとか生きることができていますが、求人情報誌を見ても働きたいと思う仕事なんてひとつもありません。全部が地獄に見えます。私はすぐに「資本家の手先が」などと思い、簡単に悪態をついてしまいます。よく「従業員は経営者の言いなりなのだから、バイトに八つ当たりしても仕方ないじゃないか」みたいなことを言われたりしますが、私は違うと思います。その働き方を受け入れた時点で、資本家の手先なのです。資本家の手先とか言っている自分は相当やばい人間に見られてしまっているかもしれませんが、続けさせてください。携帯ショップに足を運んで、ひとつだけ確信を深めたことがあります。それは「どうやら、坂爪圭吾という人間はこの世の中を大前提として『うんこ』だと思っていて、うんこなルールに従って生きるくらいなら、最後の最後まで悪あがきをして死にたいと思っている」ということでした。これは収穫でした!!私は、悪あがきを続けることに生き甲斐を感じているのでした!!

地震や台風が来るたびに、明日学校がなければいいのに、なんなら学校が壊れてなくなってしまえば最高なのにと思っておりました。かつ、なにかものすごくワクワクしました。あれこそが純粋なワクワクだと言えるくらい、ワックワク(悟空)しました。子どものころは、台風が来て、風が外をびゅるびゅると恐ろしい音を立てて吹き荒れまくって、家の外面のすべてがヤクザが取り立てに来たみたいに風に叩かれてガタガタと暴れていて、なにかが派手な音でぶっ倒れたり、どこかから飛んできたバケツがいろんな所にぶつかりながらぶっ飛んでいく音を聞くと、「うわあー大変だ!どうにかなっちまうんじゃないか~?!めちゃくちゃになったら、俺たち自由になれるのかもしれん!!」などと、純粋に不謹慎なことを考えることができました。自由への予感ほどワクワクするものってないのかもしれませんね。今回のコロナのことでも、命を落とされたかたたちへの思いとは別に、世界がコロナ以前に戻って欲しいとは思いません。これからの変化を楽しみにしています。人類の団結が強まることや、これまでになかったものが出てくることが楽しみです。自然や動物や貧しい国の人に優しいほうに進んだら嬉しいです。人類みな兄弟、人類みな兄弟です!!人類みな兄弟教を自分で立ち上げて自分で入信しています!!!け、圭吾さんもいかがでしょうか!!(照)

入ります!!人類みな兄弟教に入らせてください!!ヘッドスライディングで飛び込ませてください!!めちゃくちゃになったら、俺たち自由になれるのかもしれん!!この感覚すっごいわかります!!これです!!これなのです!!自分と他人の間にある境界線を、こうあるべきとされている垣根みたいなものを、嵐が全部ぶっ飛ばしてくれるみたいな感覚あります!!自分を正当化するために言ってみたいのですが、私は「嵐を待つだけではなく、自分が嵐になりゃあいいのだ」と思っている節があります。本当はお前もそんな働き方なんてしたくねえんだろ、と、携帯ショップの店員をぶん殴りたいと思っているのです。いい子ぶってんじゃないよ。目を覚ませよ。昔を思い出せよ。優等生が嫌いだったお前がなに風紀委員長みたいな真似しているんだよ、と。「そうは言っても仕方がないじゃないか」的な雰囲気が社会的に蔓延しているものですから、私は、そこを吹き飛ばす嵐になりたいのです。

人類総狂人後の世界は、「普通」もひったくれもない、全員ユニークで貴重な存在だと誰もが当たり前に思っている世界になるのかもしれないなどと考えると、それはエキサイティングというよりは安心の広がる平和な世界に思えます。だから、「普通の人」なんてどこにもいないんだ、そんな幻にとらわれていないで、さっさと狂ってみようじゃないか!!と思ってしまいます。「わたし普通だから~」とか言う人には、「普通なんじゃなくて盲目なんじゃないかな」と言えばいいと思います!ひーーー!また自分の嫌われ度が増しましたね!いいんです・・いいんですよ・・そうしてわたしを嫌うあなたを、わたしは愛しています!(やまぶき先生を口説く則巻千兵衛の顔で)嫌ってくるやつへのいちばんの仕返しは、愛しちゃうことだと思います!!

ありがとうございます!!壇珠さんに背中を押されまくる形で、今日感じたことを書かせてください!!私は近所づきあいがど下手くそで、隣の家で暮らしている厚化粧の女性とすれ違うたびに「ババア」と思ってしまいます。これまではババアと思ってしまう自分の性格の悪さを矯正する方向に舵を取っていたのですが、ババアと思ってしまうことは仕方のないことだから「ババアはババア」と開き直ってみることにしました。すると、途端にいい風が吹いたのです!!今日、すれ違いざまにババアに睨まれました。私は「邪魔だババア」と思いました。もちろんそれを口にすることはなかったのですが、咄嗟に脳内で妄想しました。私が「邪魔だババア」と言う。すると、おそらくババアは顔を真っ赤にして怒る。あなたいまなんて言ったのよ。私は「邪魔だババアと言いました」と、丁寧に伝える。この時、私としては「俺は俺の好きなようにやる。だから、お前も『黙れ小僧』とか言っていいんだよ」的な気持ちで、真実を告げる。俺を殴ってくれても構わない。殴られたとしても「いいパンチをもっているじゃねえか、ババア」と、私はほくそ笑むことができると思ったのです。清々しい気持ちになれると思ったのです。

お互いに我慢を続けるより、思い切りやり合った方が後腐れがなくていいな、もしかしたらものすごく仲良くなれるのかもしれないななどと思いました。ババアと思うことを禁じるより、ババアと思っている自分を認める。それだけでも随分楽に(そして楽しく)なりました。ババアに「お前はババアだ!どーん!」と、真実を告げる瞬間は近いかもしれません。もしも殴りかかられたとしても、私が暴力を振るうことはないと思います。ただ、家の断捨離によって不要なキャノーラ油が大量に出てきたので、ババアの家のあらゆる布製品にキャノーラ油を数的ずつ垂らすくらいのことはしてやりたいなと思いました。絶叫するババアを横目に「人類みな兄弟」とか言いながら、キャノーラ油を垂らし続ける姿は、なかなかおつなものだと思いました!!

この往復書簡にも何度か書いたことがありましたけれども、わたしも自分には性別なんかない、魂には性別なんかない、女性の身体で生きることや、壇珠さんであるということも、俺っちの担当となっているドラマでしかないと感じてしまっています。それでいろんな概念が崩壊してしまって、それまでになかった自由を感じています。女だからどうしろとか、男だからどうあるべきとかいうことに対し、一切の強制力を与えねえよ?女らしさも男らしさも、思いのまま自由に使うまでさ!!と思ってしまうと、背中に羽が生えたようです。性の不一致で悩む人はいますが、一致させなくてはならないということもないと思います。人間をやるとなると、どうしても肉体的には男か女かのどちらかに分かれることとなりますが、それらが真逆の要素を持っているだなんて、ほんとうにうまくできたドラマチックな世界だ!!と思います。それを楽しみつつも、性別に付帯するあれこれの常識になど、縛られてたまるかい!!と思っています。(男子トイレに入ったりはしません)

ありがとうございます!!壇珠さんが何度も言葉にしてくださることで、自分はまだ未体験な世界も「なるほど、こういう世界もあるのか」と意識を拡張することができます。そして、自分が実際に体験をしたときに「こ、これのことかあああああああ!!」となるからたまらんです!!私は最近、自分の中にある男性性と女性性を統合するという考え方に、少しばかり違和感を覚えるようになりました。『自分の中にある』という部分に、それだけだと範囲狭くねえか??みたいなことを感じるようになったのです。自分なんてあってないようなものなので、そこに制限をかけているのは自分自身。相手は自分じゃなくて、いつだって世界。世界の全部が自分になり得るのだから「自分の中にある」とか、いちいち制限を決めなくても良いのじゃないか。それだと過去を掘るばかりになって限定的にならざるを得ないじゃないか。自分と向き合うなんて言葉もあるけれど、向き合うよりも自分を待っているものに目を向けた方が、よっぽどおおきな膨らみをもった自分になれるのではないか。自分は知っているものにしかなれないのだから、自分の中にあるものだけで勝負をするよりも、世界全部を自分にしてしまった方がどでかい人生を生きられるのではないか。なんだか、最近はそんなことを思います。

相反するキャラクターはいろいろに表現できるのですが、ワガママを言う方と叶える方があって、それは喩えるなら「叶恭子さんと叶美香さん」「峰不二子とルパン」です。それから、なんでも愛せるような母性の感覚と、地震よりも雷よりも怖いオヤジの感覚があって、それは「マリアさまと鬼オヤジ」という感じがします。他にも、闇の呪いの感覚とドスを持って死を覚悟する潔い感覚「魔太郎と富樫源次」、なにひとつ自意識に問わられない感覚とエゴまみれの自分「仏と壇珠」のようなものがあります。だからいつも、自分のことはどういう人かと聞かれても、固定できないのでわかりま千円と言ってしまいたくなります。別になんらおかしいことではなく、我々は多重人格者なのだと思います!!このあたり、圭吾さんはどう思われますか!!

自分を多重人格者だと思うこと、あります!!多重人格者になることでバランスを取っているのだと思います!!一旦善人めいた真似をすると、真似をした途端に「それだけじゃねえし」と叫ぶ自分が登場します!!ありのままでいいなどと言った2秒後に「ありのままでいいわけがないよね。自分をどれだけ壊せるかが勝負だよね」とか、平気で思ったりします!!どっちもいます!!両極があります!!両極が自分です!!つまるところ『自分=全部』だと思います!!多重人格者は、自分を中心に引き戻すために登場するキャラクターだと思います!!天使もいます!!悪魔もいます!!悪魔は時折「ババア」などと言ったりしますが、ババアと口にすることで現実が展開することもたくさんあるので、悪魔は天使なのかもしれないと思います!!悪魔が「ババア」と言った直後に、天使が「ババアとか言って悪かったな。今度、お詫びの印にババロアをもっていってあげよう」などと囁いたりもします。悪魔を全出しにすると、天使も全出しになります。俺、全部です!!

わたしは自分に何層もの別の自分がいると感じますが、圭吾さんはいかがでしょうか?!たとえば美しさを感じることについても、まったく個人的なエゴの層では「花」のほうが「汚水タンク」よりもきれいに、「ぷりっとした体型の人」を「しなっとした体型の人」よりも美しいと感じられますし、「ツルツルの髪」が「ゴワゴワの髪」よりも美しく見えます。でも、人類みな兄弟と感じる層では、すべての人が美しく見えます。それから、なにもかもが宇宙の一要素だと思う層では、人に限らずなにもかもが美しく見えます。そしてすべてはただ起こっていると感じる層には、美の概念がありません。なんと書き表せばよいのかわかりませんが、「美の概念」そのもの自体が、スマホや雲や酸素やあれこれの事象とただ並列なものと感じられます。

うわー!!これはもう、本当にすごいですね!!私は音楽で考えてみたいと思います。私は音楽活動を続けているのですが、あまり人様の音楽を聞くことができません。路上ミュージシャンを見ても「邪魔だな」「ノイズだな」「消えてくれないかな」と思うことが大半で、なんで俺はこんなに性格が悪いのだろうかと思うことばかりでした。しかし、自分がこう思うことには理由があるはずだと思い、色々と原因を探ってみました。結果、私は「音楽に自分を捧げているひと」が好きなのだと思うようになりました。路上ミュージシャンを不快に感じたのは、音楽を使っているように感じたからでした。彼らは、自分を認めさせるために音楽を使っている。そのように感じたからこそ「認めてやんねーよ」と、私の心が抵抗を覚えたのだと思いました。ただ、時折、本当に素晴らしい音楽に出会うことがあります。本当に素晴らしい演者からは、自分を音楽に捧げている印象を受けます。自分と音楽が切り離されていて、本人が音楽そのものになりきっている。音楽のために自分を捧げていて、ひたすら音楽を賛美しているような、それはそのまま人類全体を賛美しているような、やる側と見る側の境界線を溶かすパワーを感じました。うまく言えないのですが、主語が自分ではなく音楽になっていました。

音楽の力は、一瞬で、違う次元に引き連れて行くことだと思います。私たちは、日常的には「汚水タンクよりは花を美しいと思う」世界を生きていると思います。ただ、美しい風景に触れたとき、美しい音楽に触れたとき、その対象だけではなく「それがある世界全体を美しいと思う」こともあります。この時は、おそらく、汚水タンクも美しいに含まれているのだと思います。この時は超絶気分がいいです。世界全体が楽園みたいに思えて、ああ、生きているって素晴らしいことだぜと小躍りをしたくなるような気分です。ただ、壇珠さんがおっしゃる通り「美の概念がない」状態も存在をしていて、音楽を通じて「美しいわけでもないしメロディアスな訳でもないのに、どうしようもない衝撃に襲われた」みたいな感覚になることがあります。このとき、一回、あらゆる概念が消え去り、宇宙に放り出されたような心許なさを感じることがあります。あるのに、ない。ないのに、ある。これはもう美しいとかそういうことより『カオス』みたいなもので、一回、ぶっ壊れます。

無理やり数式にすると「自分=1」「自分=♾」「自分=0」みたいなことなのかなと思います。花を美しいと思う状態では主語が自分【1】。世界全体を美しいと思う時は主語が世界【♾】。カオスに放り出された時は主語がない【0】。だからなんだと言われたらまじでだからなんなんだって感じですが、何層もの自分、私もすごい感じます!!自分には、たくさんの好き嫌いがあります。でも、嫌いなひとをまったく愛していないのかと言えば、これがまた結構愛していると言える気もするのです。否、完全に愛しています。愛している上で「嫌い」なだけなのです。そして、もっと本音を言えば常に「わからない」が含まれているのです。私はいまこの人のことを嫌いだと思っているけれど愛がないわけではない、むしろ愛はあると思っているけれどこれら全部の前提がもしかしたらまったくのうそっぱちかもしれない、わからない、わからないけれどこのわからないのど真ん中を共に生きている(ということになっている)我々の一蓮托生感は半端ないから出会えた奇跡をよろこんでいきましょう、みたいなとこに私はいるような気がします!!

人に対する思いというのも、実はまったく固定的ではなくて、自分の富樫源次の部分では、「貴様も命賭けてみやがれ!!」とドスを片手に思っていますし、峰不二子の部分では「欲しいものは盗んじゃえばいいのよ。ねえルパン❤」と思っていますし、叶恭子の部分ではほほ笑みをたたえて「お死になさい」と思っていますし、マリアの部分では「・・・(微笑みのみでノーコメント)」ですし、魔太郎の部分では「恨み隠していい子ぶったな・・(呪)」と思っていますし、ルパンの部分では「なぁ~にしょんぼりしちゃってんだよ~、欲しいものは取りに行こうぜ、なあ銭形のトッチャン」と思っています!!でも、それらに囚われずにただ相手を見つめてみると、「あなたはただ大丈夫で自由です!!」と思います。わたしも心から、それを自分に使うだけだということに同意です!!

ありがとうございます!!ありがとうございます(全部込み)!!どうあがいても結局最後は「YOU、好きに生きちゃいなよ」というところに着地をする我々ですが、本当にもうそれしかないのだと思います!!我々、ずっとこれでやってきましたしこれからもこれでやっていくのだと思います!!我々とはもちろん私と壇珠さんだけではなく人類全体です!!人類みな兄弟!今日、家の断捨離でペットボトルの調味料を全部捨ててやりました!!気分爽快!!妥協をしている場合ではない!!最高以外はいらねえんだよって感じです!!しかしながら、小生、貧乏性が顔を出してペットボトルの醤油を成城石井の醤油瓶に移し替える詐欺行為を働きました!!年齢詐称をする女性の気持ちがわかりました!!ラベルって大事ですね!!ラベルというかテンションがあがるかどうかが大事ですね!!いらないものを捨てたら想像以上にスッキリして「ああ、俺は妥協することにストレスを抱えていたのだな」とわかりました!!ありがとうございます!!ダサさ回避に命を賭ける!!貧乏になっても貧乏人にはなるまい!!ダサい自分が顔を出したらキャノーラ油をひっかぶって焼身自殺していきたいと思います!!押忍!!押忍!!

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坂爪圭吾
バッチ来い人生!うおおおおお〜!