第82弾「overflow(仮)」
ハーイ!みんな元気?あたしけいご。
82曲目はこれ。overflow(仮)。不思議なことにギターを弾くたびに鳥が集まってくる。これはとても嬉しいこと。しかしながら、最近、歌詞のクオリティが低い。まずい。置きに行っている。やっつけになっている自分、ダメ。こんな歌詞でも、出来上がった瞬間は「よっしゃ!」とか思っているのよ。で、聞き直して、愕然とする。修正加えたい部分が、すごい出てくる。
「overflow(仮)」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume
見送る 君に 言葉もなく
微笑み 浮かぶ わずかな 瞬間
廻る 星の上 立ち止まる
投げた ボールが 転がっていく
砂浜を 犬が かけていく
階段を 昇る 手を 握る
窓の すきまから 漏れる陽に
天使たちの 羽が 揺れている
ひかりが ぼくらを 奪い去り
なにもかも 白く 溶かされて
過ぎていく時を 生きていく
閉じた 扉 すり抜けていく
遠い 遠い 昔 空の 飛び方を 知っていた
無垢なハートが いくつもの壁を 取り払って
憧れた 場所に 辿り着く
薄い ピンクの 花が開く
空に かかる 橋を 見上げる
窓の すきまから 聞こえてる
いい音楽と、悪い音楽の違いって、どこにあるのだろう。あたし、最近、趣味で「讃美歌を聴きながら散歩をする」ってことをやってる。讃美歌を聞くと、心が落ち着くの。俗世って、どれだけ集めたかの勝負をするじゃない???自分にはこれもあって、あれもある。これだけのものがあるのだから、自分はこれだけ恵まれている(自分はこれだけ価値のある人間だ)、みたいな。あるものを誇りとして、あるものを自慢にする部分、ある。でも、キリスト教(というか宗教全般)って、あることじゃなくて『ないこと』を誇りにする。そういう、世間一般とは真逆の価値観に、癒されちゃうのかも。
あたしは、いい音楽って「自分が消えている」音楽だと思う。芸術全般に、言えることだと思う。「俺が、俺が」って音楽は、聞いている側も身構えちゃって「そんなに押し付けられても困る!」って、なる。でも、本当に素晴らしい音楽って、作り手を超えて『人間全体』を歌っているような感覚を覚える。自分が消えて、人間が残る。そういう感じ。讃美歌も、そういう雰囲気がある。自分のすごさを主張するというより、自分なんてどうなってもいいから、自分が讃えたいものを讃える。的な。そのことによって、自分が消えて、人間が残る。結果、自分が消えているくせして「自分を消せるこの作曲家はすごい!」みたいな感動を、あたしは覚える。自分が消える作家、自分が透明になっている作家に出会うと、あたしは猛烈に感動をする。手放しで、その作品を(作り手と一緒になって)讃えることができる感覚になる。
普通、いい音楽を作ったら「ねえねえ、この音楽、俺がつくったんだよ!」ってみんなに言いたくなると思う。でも、讃美歌とか、民謡とか、誰でも歌える歌(聞いたことのある歌)って、もはや作り手が誰だったのかを誰も問わない。昔から、当たり前にそこにあって、当たり前にそれを歌うことができる。自然と同じ。こういうのが、一番、かっこいいなって思う。あたしの曲は、自分を消すことには成功しているかもしれない。でも、肝心の『人間まで消えてしまっている』という点において、落第。がちょーん。メロディは結構気に入っているから、歌詞、精進。頑張って精進いたします。押忍。
今日は、お昼に新横浜で愛するなほさんに焼肉をご馳走になってしまいました。なほさんと話す時間は楽しい。保科さんと3人で、素敵な昼下がりを過ごしました。なほさんは電車で2駅くらいの場所に住んでいるから、ご近所さん。ご近所さんがいて、こうして気軽に集まって話したりできるのは、とても素敵なこと。でね、あたし、考えたの。いったい、どこまでがご近所さんなんだろう。って。たとえば、その日の始まりに「ねえねえ、今夜、一緒にごはんを食べようよ」って言われたら、どこまでだったらあたしはふらっと(ご近所さん感覚で)出かけることができるのだろう。こんな時、あたし、いつもエジプトを基準に考える。エジプトに比べたら、東京は近所。千葉も埼玉も近所。大阪も、沖縄だって近所。日本なら近所。台湾も近所。別に、時間とお金さえ許せば、その日の朝に「ねえねえ、今夜一緒にご飯を食べようよ!」って言われたら、あたし、台湾くらいなら(交通費出してくれるなら)ふらっといけちゃうような気がする。の。あなたは、どうかしら。
余談が過ぎました。なほさんとは、男女の話をしました。よく「重い女にはなりたくない」みたいな話、聞いたりするじゃない???でもね、重い女っていうのは「結婚してちょーだい!」って言う人のことじゃないのよ。別に、結婚してちょーだいって言うことは、重いことじゃない。重いのは、結婚してほしいってことを『匂わせ続ける』女のこと。デートに誘うことは、重いことじゃない。ただ、デートに誘いたい(誘われたい)ってことを匂わせ続けると、重くなる。要するに、言いたいことをはっきり言わないで、察してくださいみたいなことを続けるほど、重くなる。そんなことを、なほさんと話しながら(なほさんは5億倍上手に表現してくれました)学びました。
あと、男の痩せ我慢。よく、男の方が恋愛で未練を残すっていうじゃない???なほさんいわく「あたしの場合は、付き合っている段階から、やり尽くす。言い尽くす。思い尽くす。愛し尽くす。だから、別れはさみしいし悲しいことだけれど、出し尽くしているから未練も薄い」とのこと。これを聞いたとき、うわあ、ほんとうだあって思った。あたしは男だからなのか、別れたあとに「ああすればよかった」とか「あんな言葉をかければよかった」とか、未練がましさが出てくる。反省もするし、後悔もする。かといって、痩せ我慢をやめることもできない。謎に、そこに、男の美学を見る。背中で泣く、的な。要点以外は口にしようとしないから、結果、誤解も多い。
男と女。永遠のテーマね。あたし、今朝、すっごい久しぶりに『空を飛ぶ夢』を見たの。空を飛ぶ夢は、最高に気持ちいい夢。夢の中で、あたし、完全に空の飛び方を知っているの。それでね、大概、ひとりきりじゃなくて、みんなが見ている街の中とかで、あたしは突然空を飛ぶの。だから、オーディエンスも「うわ!あいつ、空を飛びやがった!」みたいな顔で、あたしの顔を見るの。それでね、あたし、毎回思うの。「飛べるよ」って。飛べるのはあたしだけじゃなくて、みんな、飛べるよ。飛べないのは、飛べないと思っているからだよ。って。そんなことを思いながら、あたしは空を飛ぶの。
これは讃美歌効果だと思う。空を飛ぶ夢って、こどもの頃しか見れない夢らしいの。だから、あたし、数年振りに見た。前に、家のない生活をしていた頃に、一回見たっきり。あの頃も、いまも、たまたま「なにもなくても生きていくぜ」みたいなところに、自分の気持ちがあるからなのかもしれない。讃美歌を聞くと、イエスキリストのために自分の命を捧げます、ということが多く歌われる。自分にはなにもない。だけど、神様がいる。だから、自分は大丈夫。命を、全てを、あなたの為に捧げます。的な。こういう曲を聞いて落ち着く私は、もしかしたら「死に場所」を探しているのかもしれない。
上の讃美歌に「生きる指針を失った 迷い子の私が 生きる希望と喜びに 満たされてるなんて」って歌詞がある。こういう気持ちになったことがあるひと、少なくないと思う。人間、生きている間に、何回死んで、何回生まれ変われるかの勝負だと思う。精神的に何回も死ぬと、そのたび、死ぬことに対する免疫がつく。一回死んだこの命、これを守るために使うより、有意義な命の使い方をしたいものだ、みたいな気持ちになる。命も、金も、時間も、使ってこそ価値のあるものなのよね。それで、大袈裟だけど、この命を「神の愛を伝える為に、使っていこう」って思いになると、不思議と透明な気持ちになる。自分が律される感じがして、自分にないものよりも、自分にあるものに意識が向く。なにもなくても、命がある。命があるじゃないか。と。
聖書に「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」って有名な言葉がある。この言葉、あたし、大好き。日本なら「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」って言葉もある。生きよう、生きようってすることは、どこか『自分が消える』と逆方向の働きをする。でも、自分が生きようとすることより、自分を認めさせようとするより、自分を使って(自分以外の)他のものを生かそうとするとき、逆説的だけど『なによりも自分自身を生かしている』という感覚になる。こういう感覚、あなたには、あるかしら。あたしは別にクリスチャンってわけではないのだけれど、自分たちのバンドにAgape(アガペー)って名前をつけたくらいなのだから、この部分、最初に言った「自分が消えて、人間【命】が残る」ためのなにかを、この星に残していけたらいいなあって、思いました。
じゃあ、またね。愛してるわ。バイバイ。
坂爪圭吾 keigosakatsume@gmail.com
【イベント情報】
6月30日(日)15時~16時@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」
音楽活動開始宣言をしてから、およそ4ヶ月が経ちました。音楽初心者が、一年でどこまでいけるかを見てみたい。そのためには、本気でやる必要がある。そう思って、1日1曲を目安に音楽を作ったり、できる限り場数を踏むためにライブ活動(人前で演奏すること)も経験したいと願っています。もし、人前で演奏できる機会を設けてくださる方がいたら、ご連絡いただけたら最高にうれしいです。交通手段さえどうにかなれば、あたし、どこまでも行きます。会場も規模も問いません。ひとりでもいれば、あたし、行きます!!