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【往復書簡】誰もが拒絶される恐怖を抱いている。だからこそ、そこを突破する奴が輝いて見えるんだよ。

壇珠さんの記事へのお返事です。

壇珠さん、おはようございます!!随分、ご無沙汰してしまいました!!昨日、熱海の自宅に15分だけ立ち寄ることができました。家の周辺にはロープが張られ、一般人の立ち入りは許されていない状態にありました。土石流で堰き止められた道路もいまだに復旧はままなっておらず、大勢の自衛隊や救助隊の方々が復旧活動を続けていました。近隣住民の方々はすでに避難を終え、伊豆山(被害があった地域)一帯はもぬけの空になっています。普通、住人を失った家や地域は物寂しい雰囲気を帯びるものだと思いますが、不思議なことに前向きな印象を抱きました。住人は誰もいないのですが、伊豆山という地域を見た時に「あ、この土地は全然死んでいない」と感じました。

家に立ち寄ったあと、私は、見晴らしのいい高台に登りました。そこから熱海市を一望できるのですが、海岸沿いが土砂で濁っている以外は、いつもと変わらない美しい森と海と空が広がっていました。クローズアップで見ると、伊豆山が受けた被害はとても甚大なものに見えます(事実、甚大な被害を受けたと思います)。ただ、ロングショットで見ると、あんな災害が起きたことが信じられないくらい、いつもと変わらない自然を確認できます。地球が人間の体だとしたら、熱海が受けた傷はすねにできた擦り傷みたいなもので、体そのものは実際はへっちゃらである、みたいなことを思いました。すねの傷を軽視したい訳ではなく、体の一部がどれだけ深刻なダメージを受けたとしても、全体としてみれば「大丈夫」の中にいるのだと思いました。

悲痛な思いとは別に、まったく傷ついていない部分があるのもとてもよくわかります。その感覚は、わたしたち人類のみなに備わっているものだと思います。わたしも実家から夜逃げをするときに、頭では「大変なことになった」「こことも今夜でお別れだなんて信じられない」「覚悟もないうちにここを去るなんてあんまりだ」などと思っているにも関わらず、それらに侵食もされず、恐れず、穢れず、湖面のようにしんとした完全に冷静な部分があるのを感じていたことを覚えています。(中略)

その観察眼があるから、わたしは自分も、圭吾さんも、他の人も、みんなが本当の本当はちゃんと大丈夫であることを信頼できます。たとえわたしたちが自分や誰かのことを「大丈夫じゃない」と思っている最中でも、そしてもちろん助けが必要なときですら、その無条件の”大丈夫”はいつも我らとともにあり、決して消えないのがすごいですね。わたしはそのことを、わたしたちがここに遊びに来ている証拠のようなものだ、と考えるのが好きです。大丈夫の手のひらの上で、「きゃー大丈夫じゃないわー」と言っているのが、わたしたちの生きる面白みだと感じます!!

まさに、壇珠さんのおっしゃる通りだと思います。実は、熱海の家は知り合いの方に譲渡をする予定でした。あとはいよいよ名義人の変更をするだけだ、これで熱海の家は俺の家ではなくなるぞ、というところで今回の災害が起きました。このようなことが起きたので、譲渡の件は一回流れました。知り合いの方が、このような災害が起こり得る場所に住むことは怖いと思われたのが理由になります。そう感じられるのはもっともだと思いますし、その方を責めたいとは思いません。ただ、自己憐憫まっしぐらな発想になるのですが、まるで「婚約が決まっていた人が入籍前に交通事故に遭って下半身付随になり、それが原因で婚約も流れた」というような気持ちになりました。

大袈裟ですが、一度は手放すと決めたものが、再び自分の手に戻ってくると、人間は喜びを覚えるよりも先に軽い鬱症状に見舞われるのだと思います。これは「生きなければいけない」という鬱だと思います。家を譲渡するにあたり、所持品のほとんどを処分しました。ある種の死に支度を終えていたのですが、死に支度を終えていたのに生きなければならないとなると、まだ生きられるという喜びよりも「これからどうやって生きたらいいのだろう」という、生きることの途方も無さを前に脳味噌がフリーズをしてしまうのです。いっそのこと、一切合切なくなってくれたらどれだけ楽だったろうかなどとも思うのですが、昨日、実際に熱海の家と熱海の自然を見て、考え方が変わりました。この土地はまだ生きている。そして、私もまだ生きている。生きていると言うことは、まだ役割があるということだと思いました。

私たちは、頻繁に「どう生きるべきか」を思い悩む生き物だと思います。このように考える時は、どこか「いまはまだ自分にないものを、どうやって付け加えていくか」という足し算の発想になっていると思います。しかし、このような考え方を続けている限り、自分の中にある『ない』という感覚だけが、より一層強固なものになってしまう気がします。どう生きるかを決めるものは、実は、自分ではなく自分以外のものなのだと思います。こういった時に、祈るという行為が大きな力になります。祈る対象は、神仏でも、自然でも、ご先祖様でも、なんでも構いません。おおいなる何かに対して「私をあなたの道具として用いてください」と祈ることが、自分の心を透明にしてくれます。自分にないものを付け足していくような生き方ではなく、自分に与えられているものをできるだけ良い形で生かそうとしていくことが、存在を続ける力になります。自分の道具を一個ずつ増やしていくというよりは、自分が道具になることが、結果的に自分を生かしてくれるのだと思います。

わたしもこれまでに何度か、怖くなったりしょんぼりたり不安になったりしたときに、そのことが圭吾さんにはなんの関係もなく、圭吾さんに事情を話したわけでもないし、物理的にほぼ地球の裏側にいるし、ご連絡して慰めてもらおうとしたわけでもないのですが、「ああでも自分には圭吾しゃんがいるからな、全部なくなっても最後に圭吾しゃんがいるしな!」と思うことで、これまで何度、強気の俺に返り咲いたかわかりません。なにもせずとも、自分がどんなに落ちぶれても仲良くしてくれるだろうと思える人がいるって、すんんっっげえええありがたいことだと思います。

まったく同じ気持ちです!!壇珠さんが生きていることを、勝手に力にしている俺です!!具体的に壇珠さんが俺に何かをしてくれるから好きだとかそういうことではなくて、壇珠さんが壇珠さんの命を生きているその振動が、俺の命にもダイレクトに伝わってきて「うおしゃ〜!!俺も生きてやるぜえ〜!!」となります。強気の俺に返り咲くって最高の表現ですね!!まさにです!!そういう間柄でいられる俺たちは、最高に幸せな俺たちです!!

熱海の話ばかりになってしまって恐縮なのですが、今回の件で、私に何も連絡をくれない人々もたくさんいます。しかし、彼らが薄情な人間なのかと言ったら、まったくそんなことはありません。おかしな言い方になりますが、彼らから連絡がないことを通じて、私はある種の連絡を受け取っています。きっと奴らは俺を見守っている。きっと奴らは俺を信じている。きっと奴らは俺を面白がっている。きっと奴らは俺があらゆる体験を糧にしてさらなる飛躍をすることを期待している。そんな連絡を、勝手に受け取っている俺です。こういった連絡は、表面的な気休めの言葉を投げられるよりずっと強力です。あいつも生きてる。俺も生きよう。そう思わせてくれる人間がいてくれるということは、本当に素晴らしいことです。こいつらと出会えただけでも生まれた甲斐があったなと思わせてくれるくらい、素晴らしい存在です。

私は、どうも、野生を感じる人が好きみたいです。野生とは、丸腰です。丸腰になっても生きてやるぜといった気骨であったり、俺は俺の丸腰を誇るぜと言った心意気であったり、そういった「丸裸の自分で、血を流しながらでもクワッ!!と笑う」感じの人物から、どうしようもなく力をもらいます。野生を見ていると、言い訳なんてできねえなって思います。何かを持っているから元気に生きられる、というのでは普通です。しかし、野生を感じる人間からは「俺たち、何もなくても笑えるんだぜ」という、油断をしていると涙が出ちゃうくらいの肯定のエナジーを感じます。何もないけど、それでも前を向こうとする姿に胸を打たれます。そして「自分もそうありたい」って思います。俺は俺の丸腰を誇りたいっす。最後まで残る命を誇りたいっす。

自分のことを「なんてダメなんだ」と思えているとき、世界のなにもかもが、つれなくて寂しくて他人事で、すべてが自分の外側にあるものだと見えて、生きるのがつらいことに思えます。けれども、自分のことが「なんて素晴らしいんだ」と思えている時は、世界のなにもかもが、輝いて、優しくて、奇跡的で、嬉しいものに見えてきます。だから、世界のなにを見ても、自分を観ているのだとしか言いようがないと思います。こんな鏡のワールド自体がそもそも恐ろしき傑作的な劇場だと思うし、我らがたった今もそこにいるということが、非常にエキサイティングなことだと思います!!やべえ~怖いしヒヤヒヤだしみんなよくやってるしすげえぜ!!と思います!!

本当にそうですよね!!丸腰を誇る自分は、他者の丸腰も誇りにします。自分にはなにもないなどと言う人がいたら「お前にはお前の丸腰があるじゃねえか」と思います。言い訳なんてさせねえよと思います。逆に、自分の外側に張り付いているものを使って誇ろうとする時は、往々にして「学歴がないやつはクズ」とか「低層マンションに暮らす人間は低層」とか「ボロボロの服を身につけている人間はゴミ」などなど、極めて差別的な思考をしている時だと思います。私は、ファッションなども大好きなので、どうせだったら身につけていると心が踊るようなもので全身を固めたいとは思うのですが、大前提として「俺の一番の誇りは、俺が俺であることだ」ということを忘れたくないなあと思います。これを忘れたら、いよいよ自分は真の意味でつまらない人間になっちまうと思います。もしも、もしも私がそのようなことになってしまったら、壇珠さんに「俺を殺してくれ」とお願いしたいです!!

破壊と再生はセットですよね!!破壊を避けているかぎりは再生しないものがわれわれには確実にあります。わたしは以前オンラインサロンを運営していましたが、そこで感じたことは、破壊を避けている人は再生しないということでした。破壊を突きつけると、逃げていってしまう人がいるのです。そういう人は、優しい言葉で癒やしてくれる人を探してまた彷徨っていってしまいます。破壊に耐えられない人は、再生もできずに半殺しのままなのだということを目の当たりにしました。

ありがとうございます!!世界中のマザコン男子に言ってやりたいセリフです!!先日、私はマザコン男子に遭遇しました。マザコン男子は、常に自分を大事に扱ってくれる人や環境を求めて彷徨っています。彼らは、表面的には優しそうではあるのですが、性根がキモいです。自分から愛そうという気概がなく、傷ついている自分を見せつけて周囲から優しさを奪おうとする、弱さを武器にしたタチの悪い人間です。彼らに優しくするのはご法度です。優しくするより「だからお前はモテねえんだよ!!」と、女性から一発殴られるくらいがベストです。しかし、殴ったら殴ったで、彼らは殴った女性のストーカーになる可能性が高いために、結局、どう転んでも厄介です。祖国ジャパンの湿度は高めです。破壊と再生はセットですよね!!「破壊に耐えられない人は、再生もできずに半殺しのまま」というお言葉、冷蔵庫に貼り付けて毎日眺めたいと思います!!家、ないけど!!冷蔵庫、ないけど!!

その「嫌な方を取らない」ことができるのは、そのダサさへの強烈なNOがあるからです。わたしゃ勝手に圭吾さんにも共通したものを感じるのですが、このダサさへの強烈なNO自体も、破壊をとおして獲得してきたもののように思うのです。自分のダサについて苦しんで、なんとかしないと息継ぎもできないくらいに自分で自分が嫌で、仕方ないから破壊方向に進んでみて、やっぱりそれにより再生した!!と思える。そういうことを繰り返してきて、NO以外ねえ!!という思いが育ったのではないかという気がします。だから、破壊力を上げるのにも、結局破壊をするしかないのだと思うのです。そしてその破壊力は同時に再生力でもあります。だから、トカゲのしっぽのような、プラナリアのような再生力が欲しい人は、再生のことばかり考えていないで一回自分のダサさを認めて、そこに自らめちゃくちゃ恥じ入ればいいんでねえか?!と思います。変なところで自分に対して面の皮が厚くて、恥じらいが失くなってるから破壊も再生もできねえのさ!と、おっかねえ和尚さんみたいな自分がいつもそう思っています!!

ありがとうございます!!もうね、本当ね、そうですよね!!ビンタビンタビンタ!!本当はみんな打ちのめされたいのだと思います!!前述したマザコン野郎も、打ちのめしてくれる人がいなかったからゾンビみたいになっちまったのだと思います(俺も)!!これはもう、一言で言えば「やるっきゃねえ」なのだと思います。正々堂々、真っ向勝負で「やるっきゃねえ」だと思います。中途半端な言い訳を断ち切っていただける瞬間は爽快です。自分は素人だからとか、まだまだはじめたばかりだからとか、慣れていないからとか、恥ずかしいからとか、言い訳ばっかりしているんじゃないよお嬢ちゃん、なのだと思います。やるからには、それをやる自分に胸を張ってこそだと思います。たとえ歌い始めたばかりのシンガーだとしても、人前で歌おうとする限りその人はプロです。だから「自分はまだまだ初心者なので」とか言う必要はありません。そんな言葉で自分に逃げ道を与えたらゴミです。やるからには「自分はプロです」と言ってこそです。自分はプロですと言(っっちま)うことによって発生した圧が、自分をとんでもなく飛躍させるのです。それによって傷つくこともありますが、その傷痕が勲章になるのです。

男と女の関係も同じだと思います。怖いです。自分の本当を差し出す瞬間はいつだって怖いです。怖さをなくす必要はないです。ただ、怖さに負けたらアカンのです。怖いからやめるのではなく、怖いからこそやるのです。どうすればうまくいくかなどと打算的なことを考えている間に人生の日は暮れてあっという間に老後です。ダメです。老後、ダメ、絶対。怖さは永遠に消えません。怖くないなら、それは何も挑戦をしていないからだと思います。挑戦者は常に恐怖と共に戦っています。恐怖に震える自分はダサいですが、恐怖に負けて逃げ出した自分の方がずっとダサいです。玉砕するのです。玉砕は最高です。うまく行けばラッキー。うまく行かなくてもラッキー。玉砕したことを通じて自分の殻がパカッ!と割れて、そこから新しい自分が飛び出すのです。そもそもで、何かをやりたいと思えたこと自体が史上最大レベルでラッキーなことなのだから、それを殺したらアカンのです。自分の「やりたい」に殉じるのです。自分の「好き」に殉じるのです。それが生きると言うことだと思いますなんだか熱苦しくすみません書いていて楽しい・・!!

圭吾さんについても勝手に、われの永遠なる味方、と解釈をしてしまっています!!ちょっ…とキモかったらすみません!!でも、せっかくの人生、正しく把握してつまらねえくらいなら、好きな勘違いをして笑って鼻提灯を膨らませて嬉しく生きたいと思います!!勝手な勘違いを、わたしは美しい祈りだと思います。そうであってくれという願いより、そうだから大丈夫だと考える、その勘違い力を祈り力だと思います!!圭吾さんは、家を失ったかも知れませんが、それを転機にすっげえものと出会います!そうであってくれと思うのではなく、その嬉しい空想を俺は真実として選びます!!今は勘違いでも、本当になったら勘違いなんかじゃなくなります。だからわたしゃの意思を使って、それを先に喜びたいと思います!!

ありがとさげもす!!嬉しいっす!!我々永遠のグッドフェローズです!!嘘でもいいのです!!嘘でも楽しければいいのだと比較的まじでそう思っています!!自己満足最高!!自己満足もできない人間が他者満足を狙うだなんてちゃんちゃらおかしな話です。自分にかけた魔法が、素敵な嘘が、アンビリーバブルな思い込みが、いつしか現実を凌駕して新しい現実を形作るのだと思います。そもそもで現実だと思い込んでいることさえ偏った解釈が入り込みまくっている幻想だと思うので、思い込んだ者勝ちです。自分が信じたいと思う世界を、自分が生きたいと思う世界を、実際に歩き出したもの勝ちだと思います。現実は、自分の信念に添うように、あとから勝手についてきます。先に喜ぶ、最高の表現ですね!!思えば常にこの往復書簡自体が、書くことを通じて「先に喜ぶ」ことができる最高の舞台だと思います!!!

誰もが、拒絶される恐怖を抱えながら生きていると思います。だからこそ、その恐怖を突破していく人間が、どうしようもなく輝いて見えるのだと思います。泣いて一生。笑って一生。自分なんかと卑屈になってウジウジ過ごすのも人間の一生だとは思いますが、やはり、そのような人生を私は望めません。どうせならば、愉快な仲間と、愉快な人生を過ごしたいと思う一族であります!!壇珠さんとの時間は、そんなあたくしの願いを現実化してくださる最高の時間でございます!!今日もこうしてやりとりを交わしてくださりありがとうございます!!勝手に元気になって、勝手に奮い立つ俺です!!拒絶されても構わない。世界から門前払いをくらったとしても、俺だけは俺の丸腰を熱く抱き締めて「お前はよくやっているよ」と一通り慰めたあと、再び崖から突き落としてやりたいと思います!!どりゃあぁ〜〜〜〜〜!!

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坂爪圭吾
バッチ来い人類!うおおおおお〜!