【往復書簡】みんなが俺をどう思うかじゃない。俺がみんなをどう思うかだ。
壇珠さんの記事へのお返事です。
壇珠さん、おはようございます!!聞いてください!!私の愛する自転車おっけい号が、あろうことか盗難被害に逢いました!!これはもうこの波に乗るしかないと奮起し、現在「坂爪圭吾、怒りの断捨離」絶賛敢行中の俺です(キングコング2・怒りのメガトンパンチ参照)!!自転車を失った痛手は大きいですが、能動的にロスを重ねることによって心機一転生まれ変わりを目指す、逆転の発想です。誰かに捨てられると被害者なのに、自分で捨てると「あー、なんだかスッキリ!!」と爽快な気分になれるから不思議です。最終的なゴールは、自転車をロスしたことを「逆に良かったんじゃないか」と思えることです。このゴールは実はすでに達成していて、気分は上々です。
満月以降はものを減らす方向に舵を取りがちな私ですが、怒りの断捨離と口にするだけで活力が湧きます。これは別に「怒りの断食」でも「怒りの草刈り」でも「怒りのロシアンツイスト」でもなんでもいいのですが、しっかりと怒る。現代社会では、怒りは悪い感情として扱われることが多いです。怒る人は半人前、怒らないで許せる人が大人、みたいな風潮を感じます。しかし、これが行き過ぎると「本当はめちゃめちゃ怒っているのに蓋をしてなかったことにしている人」が増殖すると思います。爆食いをしたり、酒に逃げたり、よからぬ方向に命が使われてしまいます。だから、私は怒りを肯定したい。私は怒りに満ちている。ちょうど最近無礼者からの連絡も立て続いていたものですから、男の怒りをぶちまける。怒りの断捨離。とりゃー!!と叫びながら、ぶつを捨て去る。これは、海に向かってバカヤローと叫ぶ感覚と似ています。サンドバッグを思い切りぶん殴る感覚にも似ています。怒りを押し殺すのではなく、怒りを出し切ることによって自分を浄化する。すると、さっきまであんなに怒っていたはずなのにケロッ!とスッキリします。
孫子の兵法に風林火山がありますが、これは現代もイケます。私は火の道を選びがちですが、嫌なことが起きた時に「自分が悪いんだ」とか「いい勉強になった」とか「人生は必要なことしか起こらない」などと優等生ぶってばかりいるのは危険です。時には、嫌な相手に向かって「死ね死ね死ね死ね」とか「うんこうんこうんこうんこ」とか、呪詛を吐き続けることも大事だと思います。一通り呪詛を吐き終えるとあら不思議、あれだけムカついていた相手にも「まあ、許してやるか」と情状酌量の余地が生まれ、いつの間にか「俺はお前のが大嫌いだけど、でも、愛しているよ」という境地に着地をします。ここが大事なポイントだと思います。愛に辿り着くほどに、怒る。これです。表面的な愛や許しで、真実の愛に蓋をしてしまってはいけません。怒りの奥には、愛がある。正当に怒ることで、愛を取り戻すのであります。
この1年半ほどの缶詰生活で、人の心はどこまでも自由なのだと改めて思いました。毎日同じ部屋にいても、その日その日を同じような日にしてしまうかどうかは自分次第なのだということを思います。わたしたちは同じ場所にいながら、自分の身体をどこにでも連れて行くことのできる乗り物を持っているのだと思います。脳のシートに乗って出る旅は、どんな場所にも、壮大なファンタジーの世界にすらも行くことができるのが魅力です。どこでもドアもタケコプターもわたしたちに備わっているのだと思います。脳は4次元ポケットで、われわれはみなドラえもんなのだと思います。
本当ですね・・・私は、タバコをやめる前は「俺がタバコをやめたら聖人君子になっちまう!」と、よくわからない恐怖を抱いていました。しかし、実際にやめてみても聖人君子になることはなく、比較的健康的になっただけでした。タバコをやめたら、今度は「歯を綺麗にしてみよう!」とか「姿勢を意識してみよう!」とか「鉄分を摂ろう!」とか、次から次へと課題(というか遊び)が見つかり、聖人君子を目指している間に寿命を迎えて俺は死ぬな、と思いました。大事なことは、良い流れに乗ることだと思いました。何か新しいことをやると、それに引っ張り出されるかのようにまた別の新しい「やりたい」が飛び出します。次から次へと、それをやる。落ち込む暇もないくらい、動く。タバコのことを忘れるくらい、目の前のことに没頭する。そうすると、絶対、昨日とは違う今日になります。一日の間にできることってこんなにたくさんあるんだ!という、新鮮な驚きを得ます。この感覚が楽しいから、我慢とはまったく違う形で禁煙が捗ります。結果、いい感じの毎日になります。良い流れに乗れているサインは『楽しさ』です。なんとなく吸うタバコはまずいです。タバコを吸うことでごまかしていた、タバコを吸うことで考えることを放棄していたのが過去の自分です。これが悪い流れです。悪い流れは、次から次へと「つまらなさ」をもたらします。怠惰な日々は楽ですが、楽しくないです。楽しむためには、悪い流れを断ち切り、良い流れに乗ることだと思います。明日からじゃなくて、今、この瞬間から!!
ここ数年間、私は「人様からの施し」によって生きる現代版の托鉢僧的な生き方をしてきました。呼ばれた場所に足を運び、そこで巻き起こるあれこれを楽しむ日々を過ごしているのですが、驚いたことに素晴らしいお誘いは決まって「自分がご機嫌な時」に舞い込んで来るのです。なんだか意気消沈していたり、やさぐれていたり、否定的な考え方にとりつかれている間は、誰からも声がかかりません。しかし、一念発起して新しい何かをはじめたり、外に出て体を動かしたり、気持ちの切り替えに成功をした時、それに合わせるかのように誰かから連絡が来るのです。そんな時は、思わず「どこかで俺を見てるのか!?」と周囲を見回してしまいます。全部のものには波動があるというのはきっと本当で、人生を楽しもうとしている時の自分からは、良い波動が出ているのだと思います。本当、何処にいても自分次第ですね!!
コロナ禍は、怒りと疑いを増幅させた人と、感謝と喜びを増幅させた人との差を表に広げてみせたと感じます。世界を恨み、人間を疑い、社会を憎悪する人と、どこまでも崩れない幸福に気がつく人とがいます。わたしにはそれが、ひとりひとりの人の自身への思いが、そのまま鏡のように現れたように見えます。己への不信感、己への憎悪、己への悔恨の情は、日常の安定でできている仮面が崩れたときに、容易に外に流れ出るものだと思いました。また、己への感謝、己への信頼も同じだと思います。こんなことを言ったらヘイトコメントをもらうかも知れませんが、わたしは今の、今日の、この瞬間の世界を最高だと思います。そりゃあここは切ないことで埋め尽くされた苦の世界だと言えるとも思いますが、拳を握っちまうくらいに良いところだと、涙が出ちまうほどに愛しい場所だと感じます。それに尽きます。
ものすごい大事なことが詰まっている名文だと思いました・・・誹謗中傷はいたるところで飛び交っていますが、誰かに汚い言葉を投げる時、投げた本人がその汚さを握り締めています。醜い言葉を使う時、その人自身が醜くなります。逆に、本当の意味で心のこもった言葉を使う人は、その笑みに菩薩が宿ります。誰かにしていることは、自分にしていることと同じだと思います。だからこそ、私は「自分をゴミ箱だと思うな」と言いたい。自分(世界)にゴミばかり投げ入れるなと言いたい。自分が自分をゴミクズのように扱っておきながら、誰かにゴミ扱いされたことに不平を漏らすのは違うぜと言いたい。本当の本当の本当のところでは、お前も自分を好きなのだろうと言いたい。集合写真を撮ったら絶対最初に探してしまうのは自分だろうと言いたい。自分を軽く扱う人を相手にしてはいけないと言いたい。生殺与奪の権利を明け渡してしまってはいけないと言いたい。自分の感受性くらい自分で守れ馬鹿者よとおでこをピンとしたい(性癖)。掃除をしろと言いたい。
巷では「自分を愛する」と言われまくっていますが、私は掃除をしろと言いたい。掃除は最高と言いたい。掃除をすると間違いなく運気があがって絶対いいことが起こるから騙されたと思ってやってみてくれと言いたい。断捨離もいいぞと言いたい。一緒にスカッとしようぜと言いたい。断捨離は二周目からが本番と言いたい。捨てて、更にもう一回捨ててくださいと言いたい。いい感じの捨てる流れに乗ると「あれ、これまで普通に使っていたものが、なんだか死体に見えてきたぞ!あたし、死体に囲まれて生きていたんだ!」的な境地に達し、見える世界が変わるはずだぜと言いたい。私はこれで生きてきたぜと言いたい。なんだかあんまり調子が出ない時は「捨てる」か「掃き清める」動きが効果的だったぜと言いたい。自分をゴミ箱だと思う意識から抜け出し、自分をゴーストバスターズだと思えるようになるから面白いよと言いたい。悪霊に負けるなと言いたい。悪霊退治をしようぜと言いたい。悪いのは全部悪霊のせいと言いたい。俺たち、陰陽師なんだぜと言いたい。悪霊は意外と自分でどうにかできるから試しにやってみようぜと言いたい。試しに「悪霊退散!」とか「お前を成敗してやる!」とか、実際に口に出して言ってみてちょんまげと言いたい。楽しくなってくるから、と言いたい。
こどもが無邪気に元気なのは、善悪の価値判断を超えてすべてをおもちゃにして楽しんでいるからだと思います。おとなとは、こどもではなくなることではないと思います。こどもの役割が遊ぶことならば、おとなの役割はもっと遊ぶことだと思います。こどもの時代にはおもちゃにできなかったことさえ、おもちゃにするスキルを磨くことだと思います。あらゆるものは全部、おもちゃにできるのだと思います。楽しんだもの勝ちという言葉は、本来、こういった意味なのだと思います。周囲から不幸だと思われるような出来事も、本人が笑えたら価値です。生きることと遊ぶことは同義だと思います。どう生きるかと思い悩むと鬱病になりますが、どう遊ぶかと考えはじめると不謹慎にもちょっとワクワクしている自分に出会います。実は、全部、遊べます。小さな頃は、全員、そうやって無邪気に遊んでいたはずです。世界を恨み、人間を疑い、社会を憎悪する人は、端的に遊びが足りていないのだと思います。彼らの本音は「さみしい」であり、言い換えるならば「友達が欲しい」なのだと思います。ただ、それを認める勇気がないのだと思います。
もうちょっと規制が緩んだら、また飛行機に乗って飛び回って、リアルな体験で遊びたいです。早くまた道端でヤンキー座りで語り合いやしょう!!世界そのものを小学生時代のプロレス友達に見立てて、お前のここがうざいぜ、こんなのおかしいぜ、ムカつくぜ間違ってるぜ、胸糞悪いぜ、ぶっ飛んでいこうぜと悪態をついてじゃれて遊びやしょう!!リアルな喜びもまた、ぴかぴかの金色ですね!!
はい!!もう、全力で、はい!!遊びましょう!!遊びたいです!!だーれも遊んでくれなくなっちゃうから!!おとなになると!!ひえ〜!!おとなになることが「こどもではなくなること」っていう世間的な共通認識に、俺だけは楯を突き続けようと頑なに意地を張っている俺です!!「小学生時代のプロレス友達に見立てて」っていう前提、超大事ですね!!そういうトーンで世界に喧嘩を売っていきましょう!!プロレスごっこ、ばんざーい!!
ここに書くのもおかしなことではありますが、わたくし壇珠めからの一生のお願いです。どうか鬼滅の刃の、アニメと映画を鑑賞してはいただけないでしょうか。アニメの1話から映画の無限列車編までが、ちょうど漫画の7巻辺りまでのお話なのですが、その映像がとてつもないことになっているのです!!それと交換に、圭吾さんからもなにかリクエストがあらば、わたくしめも全力でそれにお応えいたします!!どんなリクエストでも構いませんので、遠慮なくどうぞ!なにとぞお願いいたします!!(額を畳につけながら
承知しました!!読みます!!観ます!!生きて読んで観て死にます!!俺からのおすすめ、思い浮かんだら即座にお伝えさせてください!!なんだろなぁ〜!!俺のおすすめ、なんだろなぁ〜!!誰かに何かをリコメンドするのが押し付けになっちゃわないかビクビクするタイプの人間なのですが、ビクビクをぶっ飛ばす作品を思い出したらば、ご連絡させていただきます!!
言っちゃなんだけれども、よくラブソングで歌われる「君にいつもそばにいて欲しい」ってやつが嫌いです。吹雪のように寒いです。そばにいる、をあまり美化しないほうがいいような気がします。それはろくでもない洗脳なのではないかと思います。それを信じ込むと、そばにいてくれることが愛で、そばにいてくれないことは愛ではないという基準が生まれてしまいますが、そんなのは嘘っぱちです。ラブソングに騙されてはいけない。寂しいからといって、恋でそれを埋めてはならない。馬車を使うときに、馬と御手とが一緒に座席に座って見つめ合っていてもどこにも行けません。
見つめ合っていても、一緒にくっついていても、人類はあまりクリエイティブではいられないのだと思います。世界に今も点在する部族の多くが、女性は女性たちと一緒にいて、男性は男性たちと共に狩りに行くスタイルで暮らしていますが、あれには一種の合理性があるものと思います。男と女のつがいが、他と離れて二人きりでそんなにずっと見つめ合っていなくていいのだと思います。それが愛だというのはなにか現代社会に蔓延した壮大な勘違いだという気がしますが、圭吾さんはこのあたりをどう思いますか。
わたしはその観点から、男女を完全に平等に扱おうとするのは愚かしいことなのだと思います。男と女は、まったく役割が違うと思っています。だからどうしても、尊重されるべきところが違うと思うのです。もちろん自ら望んで異性のようにありたいと願う人はそれが尊重されればいいと思いますが、女が男のようになることで、あるいは男が女のようになることで達成される平等観など、クソくらえの蛇足だと思います。ひゃー怖い…!こんなこと言って大丈夫かしら。でも、真に平等を考えるのであれば、男女が必要とする社会からのサポートは、それぞれにまったく違うものなのだろうと思います。女に目的地を強要する厳しさや、男に目的地を失わせる余計な過保護につながるあらゆる作戦が、無駄なのだと思います。
名文過ぎてどこも削れず・・・「吹雪のように寒いです」を読み、公共の場で吹きました!!私は、あまり誰かとずっと一緒にいたいと思ったことがありません。そんな自分を薄情なのかと思った時期もあるのですが、一緒にいるも何も「まじで常に一緒にいる」という感覚が強いからだと思いました。当たり前のようにその人のことを想っていて、物理的には離れていても一緒に生きている感覚が強いため、物理的に会う必要が薄いと言えばいいのでしょうか。もちろん、会えたら会えたでとても嬉しいのです。会いたくないでは、全然ないのです。必要とされたらいつでも駆けつける準備はできているけれど、物理的にずっと一緒にいることは何かが違う。愛する対象というのは、常に一緒にいたい相手というよりは、行ってきますとただいまを言いたい相手なのかなと思います。土産話を獲得したら、いの一番に聞かせたくなる相手なのかなと思います。お互いの穴を埋め合うというよりは、「一緒に楽しもうとする姿勢」とか「一緒によくなっていこうとする姿勢」が大事なのかなと思います。一緒にというのは、物理的な距離を問いません。本当に愛していたら、必ずしも、常に一緒にいる必要はないように感じています。
「女に目的地を強要する厳しさや、男に目的地を失わせる余計な過保護につながるあらゆる作戦が、無駄」という言葉も凄いです。ここに全部が詰まっているような気がしました。身も蓋もない言い方になってしまうのですが、究極、どれだけ相手に惚れ込んでいるのかなのかなと思いました。惚れた女に目的地を強要するようなことはしないし、惚れた男に目的地を失わせるようなことはしないと思います。いつもそばにいてほしいと歌うキモさは、目的地がその程度だったからなのだと思います。惚れる要素がありません!!
わたしも、誰に助言をもらっても、誰になにを決めてもらっても、それを採用したのは自分だと思って生きていたいです。この世で一番ダサいセリフは「お前のせいだ」です。他人のせいにすると苦しいばかりですが、自分のせいだと思えば楽になります。自分がそれを選んだからだ、自分がそれを信じたからだ、自分の過ちだ、自分の責任だと思えば、なんでも自分次第だと思えます。すると自分の世界は、誰のことも変えなくていい、自分さえ変わればいいのだという楽園になります。わたしは死んだときに、この世界を悲しかったと言ってもいいし、苦しかった、切なかった、恋しかった、寂しかったと言ってもいいと思います。けれども、つまらなかったと言いたいとは思いません。だから自分は、「自分の現実は全部自分の責任ッス」と思っていたいと思います!!自分の世界という鑑賞物の総監督指揮はいつも自分です!!俺の失敗、俺のせい!!他人のせいになんかしてやるものか!!他人に自分を預けてやるものか!!どんなときも、「わたしのせいで、ごめんね」みたいな同情はいらねえ!!勘違いしてんじゃねえ、他人であるお前が俺の人生を左右できたとか思ってんじゃねえよ何様だよ、1ミリもお前のせいじゃねえわ!!他人に監督を頼んだ覚えはねえんだわ!!っちゅうくらいの意気込みで、生きていたいと思います!!最後までうるさくてすみません、またのお返事を超絶楽しみにしております!!よろしゃーーーす!!
うううううおおおおおおおおおっっしゃああああああああ!!全部自分次第!!全部気分次第!!そして、気分は結構自分でコントロールできる!!誰も俺を不幸にはできない!!誰も俺を幸福にはできない!!俺を不幸にするものは俺!!俺を幸福にするものも俺!!うおおおおおおおおおおお!!
私は新潟の海沿いで育ったために海が好きなのですが、全国各地の海をめぐりながら、先日、衝撃の発見をしました。それは「新潟の海とどれだけ似ているかで全国各地の海を見ている」ということです。別に新潟の海が世界で一番綺麗だとは思っていません。ただ、あまりにも慣れ親しんでしまったために、新潟の海に似ている海を「よい海だ」とか「居心地が良い」と感じるシステムが、自分の中に強くあることを感じました。故郷を離れておきながら、故郷と似ている場所を探しているのです。私にとって、新潟(故郷)は愛憎渦巻く複雑な場所です。あまりにも孤独で、あまりにも寂しく、いい思い出よりも悪い思い出の方が何倍も多くある、とてもじゃないけれど「好き」とは一言で括りきれない場所です。ただ、そこを離れておきながら、行った先で故郷と同じ景色を探している自分を発見して、とても驚きました。
故郷は、そのまま「自分」に置き換えることもできると思います。海で育った自分は、行く先々の海を新潟の海と比べてしまいます。そして、故郷を感じる海ほど、より強く好きになります。自分の本質が『魂』にあるのだとしたら、自分の体も、私を育てた環境の一つなのだと思います。良いとか悪いとかではなく、自分はこの場所で育った。良いとか悪いとかではなく、自分はこの体で生き抜いてきた。そう思うと、好きだとか、嫌いだとか、そういった表面的な感情が吹き飛んで、慈悲にも似た愛しさが込み上げてきます。世界には素晴らしい場所がたくさんたくさんあるけれど、私は、この海で育った。世界には素晴らしい人物がたくさんたくさんいるけれど、私は、この体で育った。決して取り替えることのできない唯一無二の絶対的な事実が、大袈裟ではありますが私が私であることを讃頌しているように感じられ、一つの命が「生まれてきて、生きてきて、生きている」ことに対する敬慕の念が湧きあがり、涙が出そうになることがあります。うまく言葉にできている自信がないのですが、私たちは、私たちからやってきて、そして、私たちに帰るだけなのだと思います。だから、安心して迷えばいいのだと思います。
最後に抽象的なことを書いてしまいました!!こういう話を周囲になかなかできず、壇珠さんに甘える形になってしまいました。自分って本当に奥深い存在ですよね。自分が存在するためには父母が必要で、そのまた父母が必要、そのまた父母、そのまた父母と遡ると、結局宇宙の誕生まで遡る。ということは、我々の遺伝子の中には宇宙の記憶全部が流れていることと同じ。どれだけ孤独でも孤独になり得ない、どれだけ一人でも一人になり得ない、連綿と続く命の中に価値があり、その中に自分も含まれている。自分が好きだとか嫌いだとかが小っぽけに思えるほど、大きい命を生きている。最後の最後に更に抽象的なことを書いてしまいましたが、何かしらが感電することを願ってボールを投げます!!ボールを投げることが大事なのだと!!自分なりの精一杯を、投げる!!そのことがなによりも尊いのだと!!みんなが俺をどう思うかじゃない!!俺がみんなをどう思うかだ!!俺は、世界を、愛しているぅ〜!!とうりゃあああああああああああああああああ〜〜!!