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第102弾「海へ ~end of the journey~」

ハーイ!みんな元気?あたしけいご。

102曲目はこれ。海へ ~end of the journey~。いまは静岡県の島田駅前にいます。青春18きっぷで移動中。明日、京都でエレキギターを受け取る予定になっています。それ以降も、それ以前も、暇です。今日は名古屋に泊まるのかな??といった感じで、未定です。明日以降も未定です。エレキギターはギブソンのレスポールと言うそうです。エレキギターをもったら、また、作る曲も変わるのかな…この動画は、熱海の逢初庵で撮影をしました。

「海へ 〜end of the journey〜」 作詞・作曲 Keigo Sakatsume

また 新しい 光が 昇り 堕ちていく
自分も 他人もない 狭間で 空を飛ぶ

Its a end of wonderful world

生きてることが ひとつの夢だとして
目覚めるとき ぼくらはどこにいる?

Its a end of wonderful world

紅く 焼けた空に 視界は奪われて
黄金色のなか 境界線は溶けていく

海へ

この乗り物は重いから 連れてかえる場所もない
自由は怖れがないこと 愛も 同じことだろう?

海へ

また 新しい 光が 昇り 堕ちていく
自分も 他人もない 狭間で 空を飛ぶ

自由ってなんだろう。そういうことをよく考える。よく「俺の自由だからなにをやってもいいだろ」とか「誰にも迷惑をかけていないんだから」という言葉を聞く。これって、本当だろうか。自由とは、そういうことなのだろうか。体感的に感じることは、自由って『自分が消えている状態』だと思う。あるいは『怖れがなくなっている状態』とも言える。ああ、自由だな、そう言う風に思う時には、なにかしら『許されている』という感覚を覚える。これって、愛とも似ていると思う。よく、あたしは「自由と愛って同じなんじゃないか」って思う。愛に、怖れはない。自由に、怖れはない。逆に言えば、怖れを動機に行動をおこすとき、そのひとは「自由ではない」あるいは「愛することができていない」という風に、言えるのかもしれないと思う。

人生は夢だ。そんな感じのことを、よく聞く。そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。もし、生きていると言うことが夢を見ているということならば、あたしたちは、死んだ時に目を覚ますことになるのだろうか。たとえば、寝る時、あたしたちは夢を見る。夢の中では、空を飛んだり、知らない場所にいた、もうこの世の中からいなくっている人と同じ時間を過ごしていたり、する。でも、目を覚ますと、自分は布団のなかにいる。これと同じ感じで、もし、生きていることが夢なら、あたしたちは、死んだ時にどこで目を覚ますのだろう。とか、考えても仕方のないこと、絶対に分かり得ないことを、考えることが好きみたい。わからないということ。冷静に考えると、夢を見るってこと自体が、不思議な現象だと思う。生きているということも、とても不思議。心臓が動くことも不思議。傷がかさぶたになって、自然に治ることも不思議。自分のからだなのに、自分が「治そう!」と思って治るんじゃなくて、それこそ『勝手に』傷は治っていく。このカラダは、さて、誰のものなのだろうか。あたしの意思を超えたところで、食べ物を消化したり、夢を見たりするこのカラダは、何の力によるのだろうか。

言葉の力を考える。よく「現代社会はストレスが多い」って言う。でも、あたしたちは、現代しか知らない。過去の情報をどれだけ集めても、それが本当かどうかを確かめる術はない。昔は、もしかしたら、いま以上にストレスフルだったかもしれない。答えは『わからない』。言葉は世界を作る。もし、現代社会はストレスが多いってことを信じれば、世界はその通りになる。それを「本当にそうか?」と疑えば、ストレスから、ほんの少し自由になれる。なにを信じるか、どのような言葉を信じるかが、そのひとの人生を決める。地方都市では「車がないと生きていけない」と聞く。でも、正確には「車がないと生きていけないと信じているひとがたくさんいる」のだと思う。お金も、同じことだと思う。お金がないと生きていけないのではなく、お金がないと生きていけないと思っているひとがたくさんいるのが、現代社会なのだと思う。どれだけ金持ちでも、不幸なひとはいる。不幸なひととは、自分を「不幸だ」と思っている人のこと。お金がいくらとか、相対的な基準があるわけじゃない。ただ、自分が「不幸だ」と思えば、環境を問わず不幸になる。逆に、自分は「幸せだ」と思えば、環境を問わず幸せになる。

(2時間後)

鈍行を乗り継いで浜松まで来ました。疲れた。今日はどこまで行けるのだろう。お腹が減ったから浜松駅前の餃子屋さんに来ました。浜松といえば餃子!と思ったけど、結果は惨敗。駅ビルの飯屋なんて行くもんじゃない。この店のオーナーは餃子が好きなんじゃなくて金が好きなだけなんだな、とか、思っちゃった。このクオリティで、この値段は、ないわー。メニュー表の写真とか、詐欺だわー。小さすぎるじゃろがい、丼が!!と!!お金って一体なんなのだろう。値段って、なんなのだろう。材料費プラスαの、この『α』が、ひとによってだいぶ違う。商業施設のレストランって、食べものを食べているってより「工場で作られたもの」を食べている、って感じが凄い。じゃあ行くなよ、って話なんだけど、外は雨だし、お店とか知らないし、便利だから使っちゃう。便利になること、イコール、豊かになることなのだろうか。駅ビルの餃子を食べたあたしの精神は、なう、非常に貧しい。

でも、きっと、あたしが死ぬほど空腹だったら、この餃子も最高だったのだと思う。ずっとなにも食べてなくて、食べるものがこれしかなかったら、有り金はたいてでも「食べさせてください!」ってお願いする。そして、泣きながら「うんめえ、うんめえ」言って食べるのだろう。そう思うと、相対的な価値っていうのも、あるのかもしれない。うーん。わからない。あたしは野営が好きで、テントとかで眠り続けたあとに布団で眠ると「布団、すげー!(気持ちいい!)」とか思って感動するんだけど、野営って不便さを楽しむ営みなのかもしれない。ガスがあれば一発の料理も、焚き火でやるといろいろ面倒。いろいろ面倒だけど楽しい。あっという間に時間がすぎるけど、心の充足感が凄い。実質なにもやっていないのに、それなのに「足りないものはなにもない」とか思う。豊かさを極めるためにはお金がかかるけど、貧しさの中にダイブすると、貧しさの中にも楽しさ(知恵や工夫)があって、一回離れた豊かさ(日常)に戻ると「シャワーすげー!」とか「日本家屋すげー!」とか、当たり前に感動する。この、当たり前に感動する精神、当たり前に驚きを覚える精神が、大切なのかもしれないと思いました。

また、くだらないことを書いてしまった。「言葉が大事」と言ったばかりなのに。日常的に使う言葉が、自分を形成する。話は戻るけど、自由とは「怖れがないこと」だって考えると、普段、自分がどれだけ怖れをもとに選択をしていたかが、なんとなく、わかる。わかったら、変えていける。自分を良く見せたいとか、お金を儲けたい、誰かに認められたいって思う気持ちも、深いところには『怖れ』があるのだと思う。怖れを克服する方法は、どれだけあるのだろう。恐怖を感じることをやってみることも、特効薬にはなると思う。でも、もし、自分の言葉が世界を作っているのだとしたら、考え方を変えればいい(考えを深めればいい)のかもしれない。そうすれば、怖れていたことが、まったく怖れるに足りないことだったのだと、気づくこともある。自分はなにを怖れているのか。多くの場合、それは『死』だと思う。だけど、誰も死んだことなんてないのだから、それが怖れるべきものなのかどうかも、わからない。わからないことを、怖れることは、本当はできない。ただ、知りたいと思うことは、ある。だから、あたしは、知りたいと思う。あたしは一体なにもので、どこからやってきて、どこに向かうのだろう??

じゃあ、またね。愛してるわ。バイバイ。

坂爪圭吾 keigosakatsume@gmail.com

【イベント情報】

7月27日(土)15時~16時@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」

7月28日(日)15時~16時@神奈川県横浜市「ごちゃまぜの家」

音楽活動開始宣言をしてから、およそ4ヶ月が経ちました。音楽初心者が、一年でどこまでいけるかを見てみたい。そのためには、本気でやる必要がある。そう思って、1日1曲を目安に音楽を作ったり、できる限り場数を踏むためにライブ活動(人前で演奏すること)も経験したいと願っています。人前で演奏できる機会を設けてくださる方がいたら、ご連絡いただけましたら最高に嬉しいです。交通手段さえどうにかなれば、あたし、どこまでも行きます。会場も規模も問いません。ひとりでもいれば、あたし、行きます!!

100曲記念のカバー「サボテンの花(ギタレレ弾き語り)」


バッチ来い人類!うおおおおお〜!