【往復書簡】はじめたら、はじまる。
壇珠さんの記事へのお返事です。
壇珠さん、おはようございます!!随分ご無沙汰してしまいました!!最近、短編小説と言うには大袈裟ですがお話を作ることにはまってしまい、一日一話創作物語を書く作業を急にはじめました。書き始めるまでは自分にお話なんて書けるのだろうかと半信半疑だったのですが、やってみたら、できました。そして「はじめたら、はじまる」とでも申しましょうか、お話を書くぞって脳みそが意識をはじめてから、これまでとは全然違う働きを脳みそがするようになりました。忘れていた記憶が蘇ったり、世界を見る目が少しだけ広がったり、意識一つでこれだけ変わるものかとびっくりしています。
2019年2月14日、我々はヴェネツィアのカフェにいましたね。そのカフェで、私は壇珠さんから「音楽をはじめてみたらいかがですか?」という、人生の転機とも言える運命的な啓示をいただきました。壇珠さんの後押しによって音楽をやることを決意した私は、手始めに何をやったらいいのかまったくわからず「よし、とにかく一日一曲作るぞ」と思いました。そして、来る日も来る日も曲を作りました。毎日一曲作るのはそれなりに苦行で、毎日毎日「今日こそは無理だ。今日こそは作れない。今日こそはお手上げだ」と悶絶していました。しかし、それでもギターを手にしてふんがふんがと格闘していると、不思議なもので音楽が生まれるのです。あの日々を通じて、私はふたつのことを学んだ気がします。ひとつは「音楽の神様はいる」ということ。音楽の神様は必ずそこにいて、自分が何かを生み出したいと願う限り、必ずヒントを与えてくれる。そのヒントさえ見逃さなければ、必ず音楽は生まれるということ。そして、もうひとつは「決めることの威力」です。私が一ヶ月に一曲作ると決めていたら、一ヶ月に一曲しか生まれなかった気がします。しかし、私は、一日に一曲作ると決めました。すると、自分が決めたことに世界が合わせてくれるかのように、本当に一日一曲生まれたのです。
これならいけそうだと思ったからとか、必要な準備が整ったからとか、充分な教育を受けたからとか、自分にはそういった土壌が一切ありませんでした。自分にあったものは「音楽を作りたい」という思いだけで、その思いだけでスタートダッシュをいたしました。実際にやってみてわかったことは、もしも自分にそれをやりたいと思う気持ちがあるのならば、どんどんはじめてしまえばいいのだということでした。俺はこれで生きるのだという大層な決意なんてなくとも、ダメならダメでいいから、三日坊主になってもいいから、どんどんやる。どんどんはじめる。かたっぱしから手をつける。なんとなく手をつけたことが、あとから大きく人生を動かすこともあると思います。振り返ってみたら、自分の人生はそんなことの連続でした。数年前の自分に、現在の自分を想像することなんて絶対にできませんでした。今いる場所を目指して生ききたのではなく、気がついた時にはこんな場所に運ばれいました。そして、そうした自分の人生を、なかなかに気に入っております。何をしでかすかわからない自分、何を書き出すかわからない自分にゾクゾクしながら、本日も、お返事を書かせていただきます!!うおっしゃーー!!
最近は異端であることを楽しんでいこうと考えて、日頃から満たされているというのにさらに満たされている自分であります!!この世は楽園で、わたしは神と天使とともに生きており、自分も自分の選択も人生もなにもかもが祝福されていて、どんな希望を実現しても許されるという設定で生活をすると、日常の暮らしが夢見心地です。
異端って言葉、自分も大好きです!!異端って言葉を目にするだけで嬉しくなり、口にするだけでテンションがあがります!!他にも「のっぴきならない」とか「おかっぴき」とか「しょっぴかれる」とか、パ行が入っている日本語が好きです。言葉はおまじないだなと思います。その言葉を口にした瞬間の振動みたいなものが、体を整えたり、逆に体を歪ませたりするのだと思います。言葉は、それが意味する内容以上に、音楽的なものだと感じます。なので「この世は楽園」とか「神と天使とともに生きており」とか「なにもかもが祝福」とか「希望を実現しても許される」とか「日常の暮らしが夢見心地」とか、壇珠さんの有難いお言葉は般若心経を超えるクオリティを叩き出していると言っても過言ではないと思いました!!毎日悪夢を見ている自分のような人間は、壇珠さんの言葉をコピーして枕の下に入れて眠れば救われる気がしました!!突然あほなことを言い出してしまってすみません!!
地球人は、言語を使いますよね。線の組み合わせで作った形の配列によって違った音や意味を表す法則をこしらえて、それを使って意思疎通や感覚表現をしているわけですが、これを皆で覚えて使っていることがもう驚愕に値します。超高度生物過ぎて、そのことに胸がえぐられるほど感動します。なにしろその発明がもう、お、おま、何やっ…と思ったところで涙が出てきます。なんつー、なんつー発明だろうかと思ってしまいます。自分は地球に来る優待券をもらって本当に良かったと思います。なにに対してなのかわかりませんが、なにかにお礼を言わずにいられない気持ちになります!!なんかもう、ありがとうございます!!すんませんほんと!!いやっほう~!!
言語はまじで凄い発明ですよね!!あたくしは、どの国も「睡眠中に、あたかも現実の経験であるかのように感じる観念や心象」と「現実からはなれた空想や理想」を、どちらも夢という言葉で表現していることに驚きを禁じ得ません。全然意味違うやん、と!!それなのにそれを同じ言葉で表現した人間の洞察力よ、と!!全然違うけど実態は同じ、実際は全部夢なんじゃないのかとさえ思い始めると想像力はどんどん飛躍して、本当のところはなにもわからないのですが「なんだかわからないけれど、すげー!!」となる俺です。この世の中には、なんだかわからないけれどすげえものがたくさんあります。自分の体、自分の心、自分の脳みそが考え出すことも毎回わけがわからないのですが、そういうわけがわからないことをやってのける自分もすげえ、お前もすげえ、人間ってすげえ、生きているって面白いねと思います。
明けない夜はない。止まない雨はない。逸れない話はない。ということでどんどん話は逸れてしまうのですが、先日、とある方の家の断捨離を手伝う機会がありました。私は結構掃除が好きで、掃除をはじめると自分が松岡修造になります。もっと本気出せよと相手を煽動し、俺がお手本を見せてやるよと大衆を先導します。松岡修造モードの時は頻繁に名言が飛び出すのですが、この前は「人間のために家があるんじゃない。家のために人間がいるんだ」と口にしていました。気がついたらそんな言葉を口走っていた自分を客観視して「おお、俺も良いことをいうなあ」と思いました。油断をしていると、我々は家を自分のためにある道具だと思い上がります。しかし、しかしですね、自分のために家があるのではなく家のために自分がいるのだと思うと、我々は謙虚になります!!そして「ありがとうございます」とか思いながら家の水拭きをすると、逆説的ですが自分がどんどんと整っていきます。掃除とは、ズバリ、自分の拡張だと思います。家の掃除をすることは自分の掃除をすることとイコールであり、家の手入れを終えたあとは「この家は俺のものだ」という清々しさに満たされます。道端に落ちているゴミを拾う時も同じで、道端のゴミを拾うとおかしな言い方になりますがその道端が自分のものになります。なぜならば、その道端に関与をしたからです。しかし、この道端は俺とは関係ないと思ってゴミを無視している間は、自分と道端は切り離されたままです。ゴミを拾う手間は省けたかもしれませんが、自分は引き続き小さな自分を生きたまま、ちっぽけな自分のまんまだと思います。
壇珠さんの言葉に触れながら毎回感服してしまうと言いますか「すっごいなあ!!」って思うのは、壇珠さんが使う言葉の中に切り離された感覚というものがまったく見受けられず、地球や世界や宇宙と常に繋がっているように見えることです。小さい自分と、大きい自分。そのどちらにも偏ることなく、自分であること、地球にいること、宇宙にあることの歓びを真っ直ぐに享受している姿が本当に魅力的だなあ、と思います。たとえ切り離されたように感じることがあったとしても、すぐに戻って来ることができる反射神経とでも申せばいいのでしょうか、素敵です。そんな壇珠さんと往復書簡越しにお話をさせていただくと、なんだかこちらまで整っていくようで勝手に歓びのお裾分けをいただいております!!いただいているというか、これは盗み取っているだけじゃねえかと自分にツッコミたくなりました!!横取り40萬!!横取り40萬円です!!(クイズ 世界はSHOW by ショーバイ!!参照)
お金についてわたしは、貧しいときには貧しいときにしか味わえない感動が、豊かなときには豊かなときにしか味わえない感動があるものと思います。それから、貧しい状態にしかいられないのも乙ですし、豊かな状態にしかいられないのも一興ですが、自由度の面ではどちらも行き来自在な人がかっこよくて楽しそうに見えます。わたしは圭吾さんの、極貧にも極豊にも適応できる適応力を常日頃からすごいと思っています。すぐに今の環境に馴染む柔軟性があり、かつどんな環境にいてもいつも圭吾さんにとって大切なことを見失わないのがかっこいいっす。
われら地球人は、お金についてはついつい「より多く得ること」ばかりをゴールにしてしまいがちですが、自ら貧しくなることができ、自ら豊かになることもでき、さらには自らその貧富を自在に行き来できて、かつその行き来そのものを楽しめるようになることのほうが、面白いチャレンジなのではないかと思ったりします!!
ありがとうございます!!壇珠さんにそう言っていただけると照れます!!壇珠さんにそう言っていただけると照れてしまう平安貴族の俺です!!私は言葉が好きなものですから、言葉の言い回しを考えている間に一時間とか二時間とか経ってしまうことがザラにあり、そういう時間の使い方を「豊かだな」と思ったりします。平安貴族は蹴鞠をしたり短歌を詠んだりして暮らしていましたが、当時の大富豪たちは「まったく金のかからない遊び」に多くの時間を投下していたことが大変興味深いです。言葉は、永遠に遊べる最高の遊具だと思います。うまい言い回しを見つけた瞬間には、脳天が飛び出すほどの感動があります。言葉は無料です。お金がかかりません。場所も選びません。しかし、適切な言葉に出会った瞬間には自分を別人に変えてしまうほどの威力があったりします。言葉って、本当、凄いです。それを操り歌を詠んで日々を過ごした平安貴族たちは、さぞかし豊かな時の中を生きていたのだろうなと思います。お金のあるなしももちろん大事なことだとは思いますが、自分を観察する自分さえいてくれたら、いつでも豊かさを感じられるように思います。あとはもう、幅ですね!!幅のある人生は面白いです!!
ファストファッションを着たくないという気骨はなかなかかっこいいですね!!そしてまたそんな意気を持っている圭吾さんがあたしゃ好きです。わたし自身に限って言えば、身につけるものについて、ファストファッションなのかハイブランドなのかどこかの誰かの手作りなのかということにはあまり着目しておらず、ハッピーな振動が感じられるものかどうか、わたくしを飾るのに相応しきものかどうか、つまりは「俺の気に入るかどうか」のみが唯一の査定ポイントとなっております!!昔からある価値観には、見た目より中身だとか、着るものなんか重要ではないというようなものがありますが、わたしはそんなことはないと思っています。見た目は大事だと思います。似合うとか似合わないとか、ファッショナブルかどうか、トレンドを取り入れているかどうかなどということよりも、自分をどれだけ大切にするかだと思います。その人の自分自身への扱い、自己評価、その人の心のありようが、服装には残酷なほど如実に現れるものと思います。
壇珠さんのお返事を読み、俺はなんてちっぽけな男なのだとおのれを恥じ、穴があったら埋め立てたいと思いました。私は、虚栄心なんてない振りをしている虚栄心のカタマリ人間なので、そこはかとなく「今日の俺、どう?」と周囲に自分のステータスを見せびらかしたくなる成金クソ野郎です。Suicaの残金は常に上限ギリギリの二万円近くをキープしておき、駅の改札を通り抜ける際、俺に続く後ろの人に「見ろ。俺の残高を見ろ。残高が二万円近くあるんだぞ。どうだ、すごいだろ、わっはっは」などと思って気持ちよくなっている矮小なクズです。そういうところでしか自分を示すことができない哀しみのクズです。小さな頃、親父から「クズ」と呼ばれて育った俺です。三人兄弟の末っ子だった私は、当然ですが身長的に一番小さかったために親父からクズと呼ばれていました。おい、クズ、ちょっと来い。そんな風に親父から呼ばれていたのですが、クズと呼ばれても「なあに、お父さん」と素直に駆け出していたあの頃の自分を、健気な少年だったなと思い出します。
「俺の気に入るかどうか」のみと言い切る壇珠さんは、カッコイイっす。まじでそうっす。ホントそうっす。見た目より中身というのも、そんなことはないと思います。私は、これは完全なる余計なお世話だとは思いますが、あまりにも地味な姿をしたおばさんを見るといたたまれない思いになります。なんでそうなっちまったんだい、と。赤でも白でも黄色でも、本来であれば自由に好きな色を選べるはずなのに、どうしてグレーばっかり選ぶのだい、と。心が灰になっちまったのかい、と。自然界にはたくさんの花々があって鮮やかな色合いで世界を彩っているけれど、俺はまだ灰色の花を見たことはないぜ、と。女は花なんだぜ、と。それなのにどうして自ら率先してドライフラワーになるような真似をするのだい、と。これは男も同じですね。本来持って生まれて自分の肉体の美、造形の美、被造物としての美をないがしろに扱う行為は、大袈裟ではありますが生命の冒涜であるとさえ思います。綺麗なもの、かっこいいと思うもの、自分の心が素敵だなと感じるものに囲まれて生きることは、自分を大切にすることに直結しますね。ものを買うことは、自分を買うことだと思います。俺の気に入るもの、俺の心を踊らせてくれるもの、俺の感性に潤いを与えてくれるものと一緒に生きたいですね!!
わたしは正直、男女が長年連れ添ったならそれなりの良いことがあるともちろんのこと思いながらも、だからといって中身が伴わないのに長さだけを実現させようとするのは間違いだと思います。これからはエネルギー交換の終わった関係を維持することに美徳を見出す価値観は、自然と廃れていくのではないかと思っています。人間はそんなふうにできていないと思うからです。たとえ一日限りの関係だって人の人生を決定的によいほうにシフトチェンジしてくれることもあれば、長いこと一緒にいても不満ばかりの関係もあります。だから、関係の良さを長さで測ったり、離れるのを悲しいことだと扱ったりするのは、これからはもう終わりでいいのではないかと思います。
だから女性は、自分を幸せにしない関係からは思いのままに離れる勇気を持つと良いと思います。女性も、男性なんてクソだと決めつけているときは自分のことも傷つけていると思います。クソだと思う関係に身を置かずに自分を自由に動かしてゆけばいいのに、つい関係が終わることそのものを悪評価してしまって、辛い関係の我慢に身を置く人が多いのではないかと思います。嫌な人を変えようとするのではなくて、嫌な人から離れる勇気がない自分のことを考えてみるといいように思います。相手のせいにしている間は男も女も停滞してしまいますね!わたしも、女性はとくに、自分の喜びをそのまま正解だと思う勇気を持ったら良いのだと思います!!
別れを悲しいことだと決め付ける背景には、離れることが「愛がなくなる」とか「これまでの思いが全部嘘になる」と感じてしまうからなのかな、と感じたことがあります。しかし、そんなことはないのだと思います。昔とは違う関係性になったからと言って、愛がなくなった訳では決してない。私たちは、愛したまま別れることができる生き物だと思います。別れても、離れても、愛は残り続けます。出会えた喜びは、永久に輝き続けます。だから、安心して離れればいいのだと思います。安心して、出会い続けて行けばいいのだと思います。出会うことに対してクローズになってしまった時、私たちは停滞をしてしまう気がします。変わっていくことは人間の自然で、それを素直に受け入れることができるようになった時、お互いを縛り合う形ではなく、解き放ち合う形として、お互いを愛することができるように思います。
相手のせいにしている間は、男も女も停滞してしまうというお言葉、本当にその通りだと思います。誰かのせいにしている間は、自分で考える手間や自分で決める手間からは逃れることができますが、慢性的なフラストレーションに苛まれ続けると思います。自由と責任はセットと言いますが、最悪を受け入れながら最高を目がけて突進する時に、命は花開くものだと思います。私たちは、本当は、自分が思う以上に自分はタフな存在であるということを既に知っているのだと思います。見た目以上に勇敢で、見た目以上に遊び心があって、見た目以上にチャーミングで、見た目以上にパワフルな自分がいることを、心のどこかでは本当はすでに勘付いているのだと思います。だから、あとはそれを外に出してあげるだけ。幸せという檻の中に閉じ込めていた自分を、安心という檻の中に閉じ込めていた自分を、野原に放ってあげるだけなのかなと思います。そしたらきっと、とても楽しくなると思います。
わたしは、男性は自分の力や存在を注ぎ捧げる存在がないときに、自分は無力で生きる値打ちがないと感じるのではないかと思いますが、圭吾さんはこのあたりをどう感じますか。恋をしているとき、誰かを笑わせたいとき、俺が幸せにするんだ、俺が助けるんだ、俺が驚かしてやるんだ、俺にしかできないんだと思っているとき、男性はその闇に落ちないような気がします。
だから女性は、「彼に迷惑になるから自分が頑張らないと」とやってしまうと男性のやる気を削ぐのだと思います。また、男性が「この俺が特定の女のために生きるのはもったいない」と思って、力を注ぐ対象をわざわざ拡散させようとしているときにも、その男性のパワーが空回りして、結局自分のやる気を削ぎ、生きがいを感じられなくなるのではないかと思います。人間は男と女で対になっているのが本当に面白いところですね!!
ありがとうございます!!まさに壇珠さんのおっしゃる通りで、私は、誰かを笑わせたいと思っているまさにその時に自分の本領を発揮できている感覚があります。自分を使って誰かを笑わせたい、自分を使って誰かを驚かせたい、誰かをあっと言わせたい、誰かに「生きててよかった」と思わせたい、そんな風に考えている時はもりもりっとエネルギーが湧いてきます。そして、実際にそれをすることができている自分を見た時に「ああ、自分を正しい場所に置けてよかったなあ」と感じます。逆に、自分の沼にはまっている時は最悪です。誰かに自分の気持ちを理解してほしいとか、愛されたいとか、認められたいとか、他者からの視線を要求するような考え方の沼にはまっている時ほど、セルフイメージが爆下りします。自分なんかいなくても世界は平気でまわっているのだから、邪魔者である自分は消えよう、死のう。そんなことをいとも簡単に思ってしまって、いとも簡単に深刻になります。
女性を見ていると、本当に強いなあと感じます。負けたくないと思っている女性は、本当にたくさんいるのだと思います。男には負けたくないとか、結婚している女には負けたくないとか、若い女には負けたくないとか、男以上に戦っている印象を受けることがあります。そういう女性に出会ったとき、なぜだか私は「俺で負けとけ」と思います。一回負けると、楽になれるよ。そんなことを思ってしまうのです。戦う女性のカッコよさも確かにあるのですが、女は花理論で言うと、戦う女性は「花に足が生えて、自分で自分に水をやり、自分で自分に肥料をやり、なんだかとっても忙しそうにしている」という印象を覚えます。こんなことを言うとお前は女を馬鹿にしているのかと怒られそうですが、たっぷりの敬意を込めて言いたいのですが「女性は、咲いているだけで社会貢献」だと思います。だから、彼に迷惑になるからなどといって自分で自分に水をあげるのではなく、男に水をあげさせてやればいいのだと思います。そうじゃないと、男の役割がなくなります。行き場をなくした野郎どもが暴徒となって、世界はどんどん殺伐としてしまいます。
うまく言葉にできないのですが、男は、女に受け取って欲しいと思っているのではないでしょうか。男女で分けるのも極端かもしれませんが、男は、自分が差し出したものを女性が受け取ってくれるだけで満ち足りることができる生き物だと思います。外に出て、マンモスを狩って、誇らしげにそれを家に持ち帰る。家族から「きゃー!おとうさん、すごーい!」とさえ言われたら、鼻息をあらくして「どうだ、すごいだろ」と胸を張れる。胸さえ張れたら、極端な話、自分はマンモスの肉を食わなくてもいいのかなと思います。俺はそのために生まれてきましたとか言いながら、マンモスを狩るために毎日出かけて、場合によってはマンモスを狩っている最中に死ぬ。それでオッケー。なぜならば、俺はそのために生まれてきたからです。しかし、自分が狩ったマンモスを誰も受け取ってくれなくなった場合、男はマンモスを狩りに行く動機を失い、肉食は面倒臭いからとそこらへんの草をすり潰しながら生きる草食動物となり、男性味を喪失して痩せ衰えてコロリと死ぬ気がします。小学生男子が、女子が見ている時に謎のファインプレーを連発したくなるように、やはり男子には女子のまなざしが必要と思います。きゃー、と言われたいがために頑張る。きゃー、こそが最大のご馳走。きゃー、のためなら死ねる。そういう馬鹿さこそ、男子の最大の魅力であるように感じます。
なんだかくだらないことを書いている間に、お返事も最後の段落を迎えてしまいました・・・生きていると色々な気持ちになりますが、やっぱり私は「うおー、人間ってすげー!!!」と思える瞬間が好きです。自分がこれまでに勇気をもらってきた人たちは、みんな一様に、私に「人間はこんなふうにも生きることができるんだぞ」っていう感動を与えてくれました。普通だったら絶望して生きる希望のすべてを失ってもいいような場面で、希望を失わずに生きた人間がいる。諦めなかった人間がいる。立ち上がり続けた人間がいる。奇跡を起こした人間がいる。迫害されながら神の愛を伝えた人間がいる。余命わずかでありながら周囲に生きる歓びを伝え続けた人間がいる。人間が持っている可能性というものは底知れず、自分の意識一つで、それは簡単に閉じたり開いたりするものなのだと思います。壇珠さんとのやりとりの中で、私は私に「開け、ごま!」と言い続けている気がします。まだ見たことのない自分、まだ見たことのない世界、生きている間に見ることができる風景には限りがありますが、なにをしでかすかわからない自分に期待と不安を抱きながら、なにを見せてくれるかわからない世界にこどもの時のようなワクワクを胸に持ちながら、今日も生きて行きたいと思います!!今回も楽しくお返事を書かせていただきました!!壇珠さんに、私に、そしてこれを読んでくれている読者のみなさまにとって、今日も素晴らしい一日になりますように!!俺に幸あれ!!あなたに幸あれ!!ふぉぉぉぉ〜〜〜!!!