【往復書簡】楽しくないなら、やり方を間違っている合図。
壇珠さんの記事へのお返事です。
壇珠さん、おはようございます!!昨夜、心ある方から「大阪一美味い店があるから大阪に来ないか、新幹線代は出すから安心しろ」とご連絡をいただき、関西に向かっている俺です!!その方から「自分から会いに行ってもいいが、お前が移動をした方が世界が混ざって面白くなる」と言われ、異物の役割は世界を攪拌することだよなと思っている俺です。どうしても自分のことを異物とか社会不適合者とか卑屈に構えた物言いをしてしまうのですが、実は、そこに誇りを抱いている俺です。俺の役割は俺が俺であり続けることだと思っている俺です。もっと言えば、俺が幸せであることがみんなの幸せになる、だから俺は容赦無く幸せであることが大切だと思っている俺です。
実は小生、27歳前後の頃に料理教室の先生をやっていたことがあります。料理が好きというよりは「やったことのないことをやることが好き」だったので、自分も作ったことのない稀有な料理を生徒の皆様と一緒に作るという、遊び心たっぷりな料理教室を主宰していました。だから、真面目に料理を覚えたい人には「A○C(クッキングスタジオ)に行ってくれ」と返していました。正しい料理のやり方など、俺は知らない。ただ、楽しい料理のやり方ならば、一緒に追求することができる。真面目な奴は去れ。遊びたい奴だけが来い。そういうスタンスでやっていたのですが、非常にありがたいことに不真面目な生徒に恵まれた私は、それなりに楽しい毎日を過ごしていました。
しかしながら、数年間続けていたら「あれ?」と思うことが増えました。最初はとても楽しかったのですが、徐々に違和感が膨らんできました。違和感の正体を探った結果、お客様満足という考え方に原因があることが判明しました。お客様を相手にしていると、無意識のうちに「どうすれば楽しんでもらえるか?」という他人軸の考え方に侵食されます。お客さんが100楽しんでくれた時は、自分も80くらい楽しめます。しかし、お客さんが60くらいしか楽しんでいるように見えない時は、自分の楽しみは『2』です。お客様の反応によって、自分の喜びが爆下がりをするのです。ああ、これじゃ絶対にいけねえと思った俺は、逆ギレをすることに決めました。順番が逆。客が先じゃねえ。俺が先だ。お客様満足なんてクソだ。俺が誰よりも満足させたいのは、他の誰でもない俺自信だ。俺が100楽しんでいたら、みんなも80くらいは楽しむことを俺は信じる。それがダメなら死ぬまでよ、と、お客様が楽しむことよりも、自分が楽しむことに徹底的に集中することを決意しました。
決意の力というのは物凄いもので、私が「俺は俺が楽しいと思うことだけをやる」と決めた途端、同棲していた彼女に振られてホームをレスし、2年間におよぶ家なし生活がスタートしました。家がないから料理教室どころではなくなったのですが、根底に流れ続ける「やったことのないことをやることが好き」という精神はしっかりと継承され、ある意味、毎日が料理教室です。自分の楽しさに集中するということは、誰もが当たり前にやっていることのように見えて、実際は結構勇気がいることだと思います。私自身、どこかで「お客様のため」とか綺麗事を並べて、自分が本当にやりたいことから目を背けていました。自分のやったことで誰かが喜んでくれる姿を見ることは、中毒性の高い麻薬です。油断をしていると、そこにあぐらをかいてしまうのです。だが、しかし、我々の真のお客様は『自分自身』であることを忘れてはいけない。家族のためとか生活のためとか地域のためとか世界のためとか、自分以外の何かを大義名分に掲げた時、人間は簡単に濁ると思います。私は、自分勝手だと罵倒されようが「俺は俺のためにやっています」と言いたい。「俺は俺がやりたいと思ったからやっている」と言っていたいです。
誰か他の人と一緒にいる時間も大好きですが、どんな相手でも、四六時中ずっと一緒にいたいとは思いません。わたしには一人でいる時間がどうしても必要です。もちろん人間が嫌いというわけでもなく、わたしはたとえば象さんも麒麟さんも好きで、触れ合いたいと思うし健康と自由を願うしいつも幸せであって欲しいと思うし彼らを愛していますが、ずっと一緒にいたいとは思いません。だから、好きかどうかということと一緒にいたいかどうかというのは別のことだと思います。
この感覚、とてもよくわかります!!時折、お会いする方々から「坂爪さんは、犬派ですか、猫派ですか」と聞かれることがあるのですが、私は「生命派です」と答えます。犬も猫も同じ命。どちらも同様に好きです。犬も猫もどちらも大好きなのですのが、飼いたいと思ったことがありません。野良猫を眺めながら「お前は俺の猫ではないけれど、俺が見ている間だけは俺の猫なのかもしれないな」と思うことが好きです。お前も力強く逞しく生きているのだな、俺も力強く逞しく生きて行くぜと思うことが好きです。海も山も同じです。海派と山派を分ける必要性がよくわかりません。プライベートビーチを所有したいとは思いませんが、人のいない海に足を運び「俺が見ている間だけは、この海は俺だけのものだ」と思うことが好きです。一緒にいる時だけ、自分のものになれば大満足です。自分が一緒にいない時は、みんなのものになってくれと思います。海も、山も、月も、太陽も、誰のものでもないからこそ、みんなのものになることができるのだと思います。きっと、人間も同じなのだと思います。誰のものでもない一人の人間が、誰かといる時間が「二人だけのもの」になるのだと思います。二人だけの時間を大事にするためにも、一人の時間が大事になるのだと思います。お互いが個としてはっきりしているからこそ、二人の時間も濃いものになるのだと思います。
人間、誰のことだって100%好きになったりはできないのだから、そんなことは気にしないで、それでも愛していると認めていこうじゃないか!「自分を好きになろう」だとかいうキャッチフレーズに染まって信じ込んでしまうと、まるで自分を好きになれないといけないような気がしてしまう。でもそうではなくて、「嫌いな自分ごと愛していこう」のほうがずっと力が湧いてくるじゃないか!!と、そんなことを鼻息荒く思う、夏の午後です!!
100%好きになれないということは、100%嫌いにはなれないということですよね!!これって希望そのものだと思います!!島国ジャパンは自然災害が頻繁に起こりますが、現実的な被害を嘆くことはあっても、自然そのものを嫌いになることはあり得ないと思います。定期的に津波が起こる地域に暮らし続ける人がいるのも、その地域を「災難が起きることもひっくるめて、共に生きる覚悟をしている」からだと思います。私は、その姿にこそ、愛を見ます。災難が絶対に起こらない地域を探しても、そんな場所は墓場以外にはあり得ません。人間関係も同じだと思います。真の絆は「災難が起きることもひっくるめて、共に生きる覚悟をしている」からこそ育つものだと思います。結婚の動機は愛情か打算であると言われていますが、打算で結婚をした夫婦に絆があるのか、否か、謎です。絆の有る無しはさておき、そもそもで「打算で生きるのは、なんだかちょっと退屈そうだな」と思います。
よく、名言集などで「誰にでもよいところがあるのだから、良い部分を探していこう」みたいな言葉を目にしますが、努力をして何かを好きになろうとするのは限界があると思います。それよりも「誰にでもダメな部分があるけれど、それらもひっくるめてまるごと愛していこう」と思った時の方が、でっかい愛をハートに抱けると思います。好きになろうと努力をするより、俺もお前もダメなところを抱えながらそれでも必死に毎日を生きている宇宙船地球号の乗組員だな、と思った時の方が深い連結を感じます。努力と我慢は似ていますが、本当の好きには努力も我慢もないと思います。好きになろうと努力をするほど、体は強張り、神経はすり減り、愛の本質から離れます。嫌いを好きに置き換えようとするのではなく、嫌いな部分は嫌いなまま、そのまま行こうと前を向いた時、嫌いな部分さえ愛であったことを知ります。
おっけい号が、盗難に…!!もしかしたらなのですが、これはある意味、おっけい号と盗人との共犯みたいなものなのかも?知れませんね。おっけい号のほうにもなにかタイミングが訪れて圭吾さんの元を離れる(もしかしたら一時的なものかも知れませんが)ときがきてなにかを発しており、盗人の方もそれにぴったりと合うものを発していたため、両者の協力により、このおっけい号の失踪が起こったのかも知れないなどという想像が湧いてきました。
そうなのです!!本当にそんな感じなのです!!実は最近、小生、新しいギターを購買しました。結構高額だったので買う前は大緊張をしたのですが、大正解でした。何かを愛するとはこういうことなのかと自分でもびっくりするくらい、ギターへの愛情が半端ないです。毎日眺めて「お前は本当に美しいな」と声をかけ、暇があれば触れ、暇があれば磨き、今世の俺には女はいらねえ、俺は毎晩こいつを抱いて眠るぜと思えるくらいの愛着があります。
人間に夢や意思があるように、ギター(モノ全般)にも夢や意思があると思います。私がギターと出会って新しい人生を踏み出したことにより、愛車おっけい号は優しい微笑みをたたえながらひっそり天に召されて行った、と、そんな感覚があります。ありがとう、おっけい号。さよなら、おっけい号。
余談になるのですが、使わなくなった古いギター(前に知人から譲り受けたもの)を中古屋さんに持っていきました。すると、中古屋さんが「これは買い取れません」と言いました。ギブソンというメーカーのギターだったのですが、店員さんに買い取れない理由を尋ねると「偽物だからです」と一刀両断されました。よくよく聞くと、前のユーザーがなんでもない普通のギターにペイントを施し、さもギブソンであるかのように見せていたとのこと。店員さんから「そんなことはないとは思いますが、贋作を売り歩いていると警察に通報をされて捕まることもありますよ」と、釘をさされました。うまい表現が見つからないのですが、本物を手にしたことで、偽物が浮き彫りになりました。私にとって7月はそんな一ヶ月でした。消えるものは、勝手に消える。残るものは、捨てても帰ってくる。運命の刷新が行われています!!
恐れるべきは他者からの攻撃ではなく、自分からの攻撃です。腹心の裏切りが最も危険です。自分が自分の明智光秀になってはならない。自分で自分を本能寺に閉じ込めて殺っちまってはダメです。自分というのは死ぬときまで一緒にいることが決まっている、誰よりも愛し誰よりも信頼する人なのだから、その自分の信頼に応えて生きられたらといつも思います!!
自分が歩けと言えば歩き、自分が座れと言えば座り、自分にダメ出しをされればそれを信じ、悲しみ、それでも毎日起きて、血液を回し、自分のために動いてくれる身体と命とを、我が物顔で扱ってはならないのだと思います。自分も他人のひとりで、自分に憑依させてくれている一人の人なのだと思うと、今日もこの人のおかげで世界を体験できたのだと思えて、強烈な申し訳無さや感謝が湧いてきます。人はいつも外側のなにかに感謝をしようとしますが、まずはそんなふうに自分に感謝をしてみようとすると、自分に命を預けてくださってありがとうございます!!という猛烈に謙虚な自分に出会います!!今回も、壇珠さんを動かしてこれを書かせていただきました。この体験は、壇珠さんと圭吾さんがいてくださったおかげです!!非常に変なことを書いているように見えますが、自分は本気です!!じゃあお前は誰なんだよと言う話になってしまいますが、こうなると自分がいない感覚になってしまって答えられません!!壇珠さんに憑依し、壇珠さんを担当させていただいている魂なのかもしれませんが、この世でこうして圭吾さんと知り合って、こんなにエキサイティングなやり取りをさせていただいていることが嬉しいです!!壇珠さんよかったですねという親心とともに、圭吾さんにうちの壇珠と仲良くしてくださっていることに感謝いたします!!どうぞまたよかったら、生々しく男らしきお返事を書いてやってください!!よろしくおねがいします!!ああすごい満足だ~~うぉっしゃあああああああ!!
人生の本質に触れているばかりか鷲掴みにしている往復書簡、毎度ながら最高ですね!!叩き出しているクオリティが半端ないです!!うおおおお!!
恐るべきは他者からの攻撃ではなく、自分からの攻撃。まさに。まさにどえす!!うおおおお!!私は「楽しくないなら、やり方を間違っている合図」だと思います。ギターを弾いていると頻繁に感じます。心のどこかで「ギタリストたるもの、これくらいは弾けなければならない」などと思って弾いている時は、音楽が全然楽しくありません。全然楽しくない時間を過ごすと「俺はギターを好きじゃないのかもしれない」と、誤った方向に勘違いをしてしまいます。だが、違う。楽しくないのはやり方を間違っているだけであり、音楽(自分)そのものを否定することはNG。音楽は常に金ピカです。
楽しくないなら、やり方を間違っている合図。長年斜に構えて生きて来た私は、楽しむことを浅薄だと思ってどこか馬鹿にしていました。でも、それは違いました。大事なことは、楽しもうとする姿勢なのだと思います。それを阻害するものが「ちゃんとやらなきゃ」とか「うまくやらなきゃ」などという、他人軸な考え方なのだと思います。絵も、音楽も、踊りも、本来は自由なものだったはずです。本来自由であるはずのものを、不自由にしているものは自分以外の何者でもありません。だからこそ、すべてのゴールは「楽しむこと」なのだと思います。楽しいなら、正しい。楽しく弾けているなら、正しい。楽しく書けているなら、正しい。楽しく踊れているなら、正しい。正解かどうかを決めるのは、他の誰でもない、自分のハートだと思います。
誰かと一緒にいる時にも思います。一緒にいて楽しいと思える人とは、一緒に楽しもうとする姿勢がある人だと思います。そう言う人とは素晴らしいセッションをかますことができます。しかし、そういう人間は結構レアです。結構多くの人が「自分だけ気持ち良くなること」を考えている気がします。一緒に楽しもうとする気概が薄い人と一緒にいると、自分がサンドバッグにされている気持ちになります。時間も、エネルギーも、奪われちまいます。人間と人間の会話はカラオケではないと思います。セッションです。そこから生まれるグルーブを楽しみに俺は生きているのに、カラオケみたいな会話をする人がたくさんいます。散々自分の話をしておいて、思い出したかのように「次はあなたの話をしてください」みたいな振られ方をされることがあるのですが、おいおいちょっと待てよと思います。俺はカラオケが嫌いなんだよ。俺はバンドをやりたいんだよ。あれだな、お前、もしかしたら生まれてこのかたグルーブというものを経験したことがないんだな、だからカラオケ程度のやりとりで会話をしたとかなんとか思っちゃうのだな、よし、わかった、それなら俺がグルーブバージンを奪ってやる、とか思っちゃいます。
壇珠さんとの会話は、超絶至近距離で卓球をやっている楽しさがあります。スリリングで、一瞬の隙もなく、打ち返せても打ち返せなくても思わず「うおおおお!!」と雄叫びが出てしまう、野生が蘇る生命の交歓があります。大前提として楽しいから、そうそうそう、この感覚が俺は欲しかったんだよと毎回原点に立ち還ります。バンドの素晴らしさは、一人では行けないところに行けることだと思います。グルーブは一人では生まれません。誰かがいてくれてこそ、です。笑いも同じです。一人でいてもそこそこ笑える出来事はありますが、爆笑するには相棒が必要。お尻を出した子一等賞。爆笑できた子ブービー賞。俺たち、きっと、地獄のどん底でも爆笑できるんじゃねえかという絶大な信頼があります!!エンジョイ、なう!!生きるぜ〜!!今日も、明日も、俺は、生きるぜ〜!!油断をしているとついつい修行モードに入りがちな小生ですが、何周も何周も何周もまわって「楽しむことが人生のゴール」であることを思い出しつつ、迷子になっても楽しく迷いたいと思います!!うおおおおおおおおおおおお!!今日もお相手を務めていただきありがとうございます!!壇珠さんが相手だからこそ、出せる!!自分の全部を出せる歓喜!!うおおおおおおおおおおおおお!!毎日毎日すっからかん!!すっからかーにばるを生きます!!どあああああああああああ!!今日も元気だ笑顔で流血!!ぷっしゃあああああぁぁぁぁぁああああああ!!