【往復書簡】個性的であることが、普遍的になるんだ。
上の壇珠さんの記事へのお返事です。
おはようございます!!おはようございます!!毎日記事を書いていると「たまには休んでくださいね」などと気遣っていただることがあります!!読者の方々は本当に優しいです!!しかしながら、小さな子供に「遊ぶな」と言うことは「死ね」と言っていることと同じだと我輩は考えます。おとなは働くことを休みたいと言いますが、こどもは遊ぶことを休みたいとは言いません。私はここに『本当』を感じ取ります。こどもの仕事が遊ぶことならば、おとなの仕事はもっと遊ぶことだと思うのです。どう生きるかを思い悩み始めると簡単に深刻になりますが、どう遊ぶかを考えると気持ちが楽になります!!我々は、地球に遊びに来ている宇宙人という設定で生きます!!
わたしの勝手な考えですが、我々はそれぞれに、「クレームのつかない、放送界と大衆に媚びたネタ」を選ばなくてはテレビに出られないという事情のもとにある「なにか」を嗅ぎ取ったのだと思います。だからきっとあれは、彼らにもあまり爆笑できるネタではないのだろうと思いました。もちろんそれは完全に的外れかもしれませんが、そんな気がします!!
本当におっしゃる通りです!!なんかもう全部似たり寄ったりですよね!!私は、この世の中の娯楽の9割を楽しむことができません。お笑いに限らず映画も音楽も小説も漫画も、ほとんどのものに「嘘臭えな」とか「騙されねえぞ」と感じてしまいます。なんでこんなに嫌いなのかなと考えたら、あ、これは自意識を強めるからだと思いました。なよなよした歌詞のJ-POPを聞くと「大概にせえや」と思います。お前いつまでそれをやってるんだよってメラメラします。自分に同情しているだけに見えます。音楽でもなんでも、自意識を強めるものと、自意識を解放するものがある気がします。自己憐憫に浸っている人々を見ると「よろしく浸ってんじゃねえよ」と思います。自意識の沼にはまる音楽や小説や漫画が、多い気がしてうんざりするのです。
しかしながら、時折「こいつはすげえ!!」と思う作品に出会います。そんな時は大感動です。諸手を挙げて大絶賛です。私が素晴らしいと感じる作品には、自意識を強めることとは真逆の効果、つまり「自意識を溶かす」とか「自意識を吹き飛ばす」パワーを感じさせるものが多いです。壇珠さんが常日頃書かれている文章に、私はこのパワーを強烈に感じます。自意識を強めることとは真逆の力、自意識を溶かす力、自意識を吹き飛ばす力、どうでもいいことには「どうでもいい」と言う力、こうあるべきとされているものに「そうじゃないかもしれないぜ」と言う力、寄り添うと言うよりはぶつかり合う力、慰め合うと言うよりはハンマーで殴り合う力を感じます。自意識とは境界線とも言えるかもしれません。自分に寄り添ってくれるものより、自分というものを蹴り飛ばしてくれるものと出会えたとき、逆説的ではありますが、私の命は「うおおおおおおお、生きてやるぜ!!」と燃え滾ります。
我々がほんとうに欲しい世界は、警察や教師の必要のない世界ですね。それは、ルールの要らない世界、ルールを行使するための権利の要らない世界、なんの強制も要らない世界ということだと思います。
今の世ではこてんぱんに危険因子として扱われそうな思想ですが、今に見てろという気がしてきます。今に見てろ。いつか世界が平和になったら、ここに書いてあることがみんなほんとうになっているんだからな!!と勝手に信じています。それくらい、圭吾さんを信頼しているわたくしめです!!
本当にもう!!本当に!!本当にMOW!!人間のために生まれた規則が、いつの間にか「規則のための人間」になっちゃうこと、すごい多いと思います。市役所に死のガスが充満するのはこれが原因だと思います。目的であるはずの人間が、手段にされることに憤りを覚えるのです。私は、交通整備の人を見ると複雑な気持ちになります。職業に貴賤はないとは言いますが、これは人間のやることじゃないだろうと思うのです。少なくとも、1日の大半を注ぎ込むべき仕事じゃない。交代でやるならいいけれど、お前は死ぬまでこれをやっていろと言われたら、私だったら「死にたい」と思います。そして「俺の人生はなんだったのだろう」と思う気がします。仕事があるだけ感謝だろと言われても、こうまでしなければ生きていけない現代社会ってなんなのだろうとそっちに意識が向かってしまいます。そして、出家をするのだと思います。出家をする方が、交通整備をするより自然な気がするのです。
あふれちゃん。自分が自分の自然から切り離されそうになった時、私は「あふれちゃん」と呟きます。大事なのはなにかをやりたいと思う気持ちであり、自分を強制的にやらせる方向にもっていくことではないと思うのです。私は夕日が大好きです。夕日を見ると、私は思わず駆け出します。考えるより先に体が動き出してしまうのです。この状態を私は「あふれちゃん」と名付けています。自分の内側から何かがあふれだして止まらず、いてもたってもいられなくなり、それをやってしまう。この状態を理想と考えます。心も体も全然嫌がっているのに、自分を叱咤激励して嫌な世界に駆り立てる毎日は地獄です。自分の中にいるあふれちゃんを絶滅させてはならないのです。ミルクボーイを見たとき、わたしは彼らの「あふれちゃん」を感じることができませんでした。完全なる偏見ですが、モテるために彼らも苦しんでいるのだと思いました。しかし、モテたいと思っている限りモテないのです。モテることなんてどうでもいいから俺はこれをやりたいじゃという「あふれちゃん」を解放させた結果、それが生命力的な魅力となって、モテるのです。
圭吾さんの、「ふざけるな」と言うことで起こり得ると想定できる最悪の事態ってなんですか!!よくある恐れとして、友だちがいなくなる、というものがありますが、わたしはもともと友だちもほとんどいないので、友だちがみんな離れていくということも考えられません。というか、それで離れていかれる気がする人を友だちだと呼ぶほうがおかしいと思っています。
うおおおおおおおお!!的確なツッコミをありがとうございます!!自分を出して友達が離れるのが怖いとか、それ、全然友達じゃないですね!!自分が自分であるほど、友達はそれをキャッキャキャッキャと喜ぶ気がします。自分だったら確実に「おお、やってんねえ」とウキウキします。「もっとやれ」とさえ思います。そう考えると、本音を話すことのリスクって大したことがないですね。嫌われるべき人からは嫌われ、好かれるべき人からは好かれるだけ。なんということでしょう、非常にスッキリする話ではありませんか!!人間関係の断捨離みたいですね!!よっしゃ、断捨離を続けます!!
嫌われついでになんでも言うと、私は「発信」という言葉が嫌いです。私はたまたま自分の言葉が多くの方々に読まれたことで生きることができている人間ですが、出会う人から「どうすれば坂爪さんみたいに発信をうまくやれますか?」みたいなことを聞かれます。私は、正直「ふざけるな」と思ってしまいます。発信のコツはなんですかとか聞かれても「死ね」と思ってしまうのです。発信ってなんだよ。発信とか言っているお前は何様だよ。発信なんておもしろくもなんともないじゃないか。俺は発信をしているつもりはないんだよ。俺はなあ、発信じゃなくて『発熱』をしているんだよ。狙っていまいる立場に来たわけじゃなくて、ただ俺はどうしようもなく俺なんだよと生命を発熱させ続けた結果、いつの間にか読まれるようになっていただけなんだよ。そして、気が付いた時にはここにいたんだよ。発信とか計算高いことしか考えられないやつは死ね。いいねを欲しがるやつは去(い)ね。と。
発信じゃない。発熱だ。個性的であることが普遍的になるんだ。大衆に寄せてんじゃないよ。綺麗にうまく見せようとか思ってんじゃないよ。人から好かれたいとか人から嫌われたくないだとか、そんなのばっかりだから似たり寄ったりのものしか出てこないんだよ。もっと自分を出してみろよ。お前がやる必要のないことをやろうとするんじゃないよ。どうすれば成功するかじゃなくて「失敗してもいい」と思って生きてみろよ。傷の数だろうが。傷の数が生きた勲章になるのだろうが。それがなに「発信のコツはなんですか」だ。これってタネも撒かずに土の手入れも水やりも草刈りもなんにもしないで、ただ収穫物だけ欲しがる根性と同じじゃねえか。もっと泥だらけになってみろよ。草と生き、土と生き、太陽と生き、風と生き、森羅万象と一致をしながら生きてみろよ。それがなに「発信のコツはなんですか」だ。小手先のテクニックだけをかき集めて成功したところで、それが何になるというのだ。死ぬ時に「俺は生きた」と言える人生は、体ごと人生にぶつかっていった体験の数だろう。その時の傷の数だろう。なのになに自分から薄めるような真似をするのか。バカか。お前はバカなのか。ああ、そうですか、と!!
わたしはここでひとつの提案をしたいと思います!!反抗期にしっかり反抗できなかった人は、反抗期を自主的に設けてみるのです。
すべてにノーと言う。言うだけでいいので、ノーと言う。名前を呼ばれても、当然ノー。ノーと言ったくせに、自分がそうしたければ振り向いたり近寄ったりする。この時点でいろいろと崩壊しています。周囲を混乱に陥れる効果も十分にあります。コンビニに行って買い物をして、「346円のお返しになります」と言われても「ノー」。ノーと言ったのにお釣りはもらう。「こちらレシートになります」と言われても「ノー」。そして今度はそれをもらいません。もらうとしてもノー、もらわないとしてもノー。なんでもノーなので、理屈はすべて通じない状態になります。
これはすごいですね!!そして同時に「愛しさ」を猛烈に覚えます!!こんな人物は愛おしいです!!どことなく猫に似ています!!ノーしか言えない日本人、これを極めたら仏陀、これを極めたら悟りの境地ですね!!私はよく、人に優しくすることと人を甘やかすことの違いがわからなくなります。誰かに手を差し伸ばしながら「あれ、これは甘やかしているだけなんじゃないか??」などと思ってしまうのです。自分を観察してみると、あ、これは見返りを求めていたのだなと判明します。誰かを助けたい、誰かの力になりたい、誰かを救いたいと思う気持ちは、支配欲ととてもよく似ていると思います。最初は優しかった人間が、やがて「俺はこれだけやっているのにお前のその態度はなんだ」と言い始めるのは時間の問題です。自分がそうなってしまうことはとても恐ろしい(と言うかダサい)ことなので、野生を保ちたいと思います。時には自分や他人を崖から突き落として「這い上がってこい」と言えるだけの強さ、これも優しさだと思います。ノーと言う日々は、この強さを鍛えてくれる気がします!!関係性を、より強固にする強さ!!
こんなご時世ですから、我々は今後もハンムラビの精神で、鬱々とした気分が吹っ飛び湿気たムードが吹っ切れるような脱獄書簡を書いて、いつでも好戦的でいましょう!!そしてもちろん、投獄された暁には一緒に「羯諦羯諦」の渾身の大合唱です!檻の中でも幸福に・・はらそうぎゃてい、ぼじそわか!!(涙)ありがとうございます!!
脱獄書簡!!脱獄書簡やばいです!!うおおおおおおおお!!我が闘争!!我が逃走!!読み方は同じ!!ピンポンダッシュこそ我が命!!人類のエントランスをピンポンダッシュして「わきゃ」っと小躍りしたいです!!みんなと同じであることを意識するほど、誰でもない存在になり下がります。自分を貫くことを意識するほど、最終的に『みんな』に行き着くから不思議です。個性的であることが普遍的になるのだと思います!!似たり寄ったりの表現にファッ○オフ!!我々、いつまでも好戦的でいましょう!!あふれちゃんを開放させていきたいと思います!!発信じゃない!!発熱なんだ!!ばっちこい人生!!かかってこい!!なんでもこい!!全部こい!!高い波ほど興奮を覚える、魂のサーファーになりたいと思います!!うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!(海に向かって走り出すイメージ)